gooブログはじめました!

日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

仮説を立てる

2016-04-29 13:40:04 | 文化
>■仮説を先に立てる
>いつも念頭に置いているのは「仮説を先に立てる」ということ。ほとんどの場合、「情報を先に見て」、それから仮説を立ててしまう。

思い付き・思い込みに類するものですか。

>前例主義というのは「情報→仮説」という順番で物事を考える事で起きる。過去の情報を集めてきては「仮説・検証」を繰り返す。しかし、こうした行為が前例主義になり、身動きが取れなくなってしまう。

自己の発想がなくて、楽な前例主義となるのですね。

>多くの人は重要な決断に迫られた時に、できるだけたくさんの情報を集めて、それから仮説を導く。でも、そうしていると新しい事は何も生まれない。

現実を生き抜くための処世術でしょうね。

>仮説を立てる時は、誰でも得られるような数字のデータではなく、「日常生活の中で、なんとなく集まってくる情報」そして「自分の中にある価値観」の方が大切である。

全ての考えは文章になる。文章にならないものは、考えではない。
潜在思念は、恣意 (私意・我がまま・身勝手) である。恣意は、文章にならない。これは、人間もアニマルも同じである。恣意で仮説は立てられない。過不足のない非現実の世界は、未来時制の文章内容なしでは表せない。日本語には時制がない。文章が無けれれば、意味もなく、矛盾を指摘することすらできない。日本人には、正しい (矛盾ない) 仮説は立てられない。文章にならない想いは、空想・妄想となる。
考えにならない単語は文章として公言されることなく、腹の底にたまる。人々は、談合を開いて、腹の探り合いをする。腹をくくって決着する。その決着にはリーズン (理性・理由・適当) がない。リーズナブルな答えに見放された人たちの行動は危険極まりない。結果的に腹切りのようなものになることもある。

山本七平は「『空気』の研究」のなかで、そのことを指摘している。
「驚いたことに、『文藝春秋』昭和五十年八月号の『戦艦大和』でも、『全般の空気よりして、当時も今日も(大和の)特攻出撃は当然と思う』という発言が出てくる。この文章を読んでみると、大和の出撃を無謀とする人びとにはすべて、それを無謀と断ずるに至る細かいデータ、すなわち明確の根拠がある。だが一方、当然とする方の主張はそういったデータ乃至根拠は全くなく、その正当性の根拠は専ら『空気』なのである。最終的決定を下し、『そうせざるを得なくしている』力をもっているのは一に『空気』であって、それ以外にない。これは非常に興味深い事実である。」と書いている。


.




世界観と旧観念

2016-04-28 11:49:01 | 教育
>本質的な理由は、問題意識発の旧観念が、人々の思考を停止させているという理由です。人々が潜在思念では本源収束し、新たな言葉を求めているにも関わらず、個人、自由・平等・博愛、民主主義といった旧観念が、新たな可能性を探索する思考に蓋をしてしまっています。旧観念は絶対正しいと信じられている価値観念ですから、信じること以上にモノを考えなくなってしまいます。

英米流の世界観が必要ですね。未来社会の内容を自分自身で考えてみることが必要です。その内容は、一人ひとりで違っているから、個性的な世界観比べができます。一致する内容があれば、協力しあってその実現を図ります。小異を捨てて大同につくのが、その要領です。
だがしかし、未来社会の有様は、未来時制の文章内容として描かれます。その内容は非現実です。特亜三国 (日本・中国・韓国) の国語には、時制がありません。だから、北東アジアの住民は、無哲学・能天気で、現実肯定主義者となっています。非現実の内容を構想として明らかにすれば、’そんなこと言っても駄目だぞ。現実はそうなってはいない’ として、受け付けられません。こうした現実が、民度の低さを示していると申せましょう。
個人、自由・平等・博愛、民主主義を徳目として暗記ものに利用しないことが必要です。それは、修身教育の復活のようなものになるからです。世界観の欠落した、’自分さえ善ければ’ の考え方になるからです。処世術の基本のようなものか。自主的な議論のできない独りよがりの人間になるからです。お題目を利用した没個性的な序列競争に終止符を打つことが今何よりも大切なことでしょう。


.



物の見方

2016-04-27 16:47:17 | 文化
>すなわち、哲学するとは、「物の見方を根本的に変えること」であって、「哲学塾」で私が講義を通じてできることは、せいぜいその「きっかけ」を教えることだけなのです。あとは、各人があくまでも自力で、現に(全身で)「物の見方」を変えねばなりませんが、それをどうやって実現しうるのかを教えることはできません。

現実を見れば、実学になる。非現実を見れば、哲学になる。
現実の内容は、頭の外にある。非現実の内容は、頭の中にある。
現実の内容を現実に再現すれば、それは模倣である。非現実の内容を現実に実現すれば、それは創造である。
誰も見たことのない恐竜時代の有様を文章内容で再現すれば、それは哲学博士の成果である。
その文章の内容をさらに進めて、現実に実物で再現できればなおのこと高度の創造である。

普通の文章は現実の内容を表している。
時制のある文章は、過去・現在・未来の三界に分かれる非現実の世界を表している。この内容は、哲学に成る。
日本語には、時制が無いので、日本人は、無哲学・能天気になっている。哲学博士 (Ph. D.: Doctor of Philosophy) になれないので、科学の正当な担い手とはなれない。英米の高等教育には、なかなか手が届かない言語事情がある。時制のある英語の文章内容を、時制のない日本語の文章内容に置き換えると、このように意味の文化の輸入になる。


.




もやもやを表す言葉

2016-04-27 11:04:10 | 教育
***********************
彼らはどんどん人と交わり、お金を使わず自分の手でモノをこしらえ、面白がって社会を変えようというタフさを持っている。
(中略)
 そんな若い人たちには、ものを深く考えたり、感じたりするための言葉が必要だ。人々は今、言葉を強く欲しているのに、まだ結晶化していない。それはどんな言葉だろうかとずっと考え続けている。
 一時はやった「ワンフレーズポリティクス」を、もう人々は信じないだろう。単純な断定でなく、このもやもやを表す言葉、世界の見え方が変わる言葉を探し、投げかけることが、私たち人文知にかかわる者の使命だと思っている。
***********************
※日経新聞(2/29)・文化欄からの抜粋。

‘We can change!’ ですね。
過去・現在・未来と考察を重ねて、来るべき未来社会の内容を得ることが必要ですね。
日本語には時制がない。日本人の言葉は現実を表現するために使われている。
非現実を表す言葉は、文章にならない。非現実の内容を表すためには、時制のある文章が必要である。文章にならない単語は雑念となり、正しい考えの妨げになる。だから、雑念を脳裏から払拭しなくてはならない。そうすれば、現実に精神を集中できる。

文章にならなくて払拭された単語は、腹の底にたまる。もやもや・どろどろとした構文のないものになっている。発言はできないが、腹芸の原動力になっている。腹切りもある。
談合を開いて、お互いに腹の底を探り合う。腹を決める。理屈はない、単純な断定である。

我々には、世界観が必要である。世界観は非現実の内容であるから、文章内容にするには文法に時制が必要である。時制が無ければ、人は無哲学・能天気となり、実況放送・現状報告の内容のみを発言する現実肯定主義者となる。
非現実の内容は、個人・個人で違っている。だから、世界観比べができる。世界観が一致すれば、小異を捨てて大同につく。建設的な話し合いができ協力体制ができあがる。特亜三国 (日本・中国・韓国) の国語には時制がない。世界観が無ければ、’一盆散砂’ である。東洋風である。それで、北東アジアは不安定要因を抱えることになる。
だから、我々は、時制のある英語を勉強して、英米人の考え方を習得しなければならない。

.




意思と謝罪

2016-04-23 13:09:36 | 国際・政治
>太平洋戦争で日本への原爆投下を承認したアメリカのトルーマン大統領の孫のクリフトン・トルーマン・ダニエルさんは・・・・・みずからも2012年に初めて広島と長崎を訪れたことに触れ、「被爆者が求めたのは謝罪ではなく、原爆が2度と使われないよう体験を語り継ぐことだった」と述べました。そして、「オバマ大統領も犠牲者を追悼するために広島を訪問すべきだ。被爆者と面会し、話を聞くことが重要だ」と強調しました。
>アメリカ国内では、原爆投下について戦争を早期に終結させたとして正当化する意見も根強い一方、オバマ大統領に広島訪問を促す声も増えていて、オバマ大統領はこうした世論も見極めながら判断する方針です。

犯人探し・捕り物帳が大好きだ。これらの内容は全て過去のこと。覆水盆に返らず。
我々には、未来への展望が大切である。
原爆投下は、日本の指導者に一億総玉砕を思いとどまらせてくれた。それで、私は命拾いをした。感謝に耐えない。だが、トルーマンの決断に対する感謝祭はない。悪意があれば謝罪しなくてはならない。そうでなければ、謝罪の必要はない。
過去の時点における、未来に対する展望の内容がどのようなものであったかを詳しく検討する必要がある。その展望が、我々の幸福度を決めることになる。我々は自分たちの生活を幸福に見放された浪花節にしてはならない。
意思は未来時制の文章内容である。日本語には時制が無く、日本人には意思がない。だから、善意の力を高く評価することもない。それで、残酷物語も拡大する。我々は、個人の意思に無関心な陋習を捨てなくてはならない。

肥田喜左衛門の著した <下田の歴史と史跡> には、意思に関する下のような事柄が記されています。
徳川5代将軍の治世、佐土原藩の御手船・日向丸は、江戸城西本丸の普請用として献上の栂 (つが) 材を積んで江戸に向かった。遠州灘で台風のため遭難、家臣の宰領達は自ら責を負って船と船員達を助けようと決意し、やむをえず御用材を海に投げ捨て、危うく船は転覆を免れ、下田港に漂着した。島津家の宰領河越太兵衛、河越久兵衛、成田小左衛は荷打ちの責を負い切腹する。これを知って船頭の権三郎も追腹を切り、ついで乗員の一同も、生きて帰るわけにはいかないと全員腹をかき切って果てた。この中には僅か15歳の見習い乗子も加わっている。鮮血に染まった真紅の遺体がつぎつぎに陸揚げされたときは、町の人々も顔色を失ったという。16人の遺体は、下田奉行所によって大安寺裏山で火葬され、同寺に手厚く葬られた。遺族の人たちにはこの切腹に免じて咎めはなかったが、切腹した乗組員の死後の帰葬は許されなかった。(引用終り)