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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

奴隷

2019-01-31 17:07:31 | 言語

>サラリーマンやってると、毎日毎日、酷使される日々が続きます。>かといって大したご褒美はもらえません。>でも、みんなサラリーマンになりたがるのはなぜなんでしょう? >それは義務教育がすべての始まりではなかろうかと僕は思う。

義務教育に罪を着せても始まりませんね。

>社会に出たら「労働法」や「お金の稼ぎ方」のほうが とても大事なことだと思うけど学校ではそれを教えてくれない。>義務なのに・・・社会に出て本当に役立つことは教えない。>逆に教えるのは無駄な知識ばかり。

わが国は、序列社会で成り立つ国であります。ですから、人間に序列順位をつける必要があります。無駄な知識であろうとも、それを道具にして学校で試験をすれば順位は得られます。その順位が、日本人にとって大切なのであります。ですから、無駄に見えても大切なものを得ていることになります。
日本語には、階称 (言葉遣い) というものがあります。正しい言葉遣いを体得するには、’上とみるか・下とみるか’ の基準が必要になります。その基準を学校から供給されると、礼儀正しい日本人が出来上がります。というのも、日本の礼儀作法は、序列作法で成り立っているからです。ですから、わが国では人間序列の順位が大切にされているのであります。
‘人を見損なってはいけない’ という気遣いから、日本人の序列思考は強迫観念の域にまで高められています。そうでなければ、礼儀正しい日本人は生まれません。’序列なきところに礼儀なし’ だからです。

>僕も昔はそうだったんだけど、なんでほとんどの人は、 雇用されないと生きていけないって漠然と考えてしまうんだろうね。>憲法でも職業選択の自由が保障されてるっていうのに、なんで一つの職業にしがみついてしまうんでしょうか?

日本人は、自主・独立の精神に欠けているからでしょう。自由とは、意思の自由のことでしょう。意思のない日本人には、‘不自由を常と思えば不足なし’です。

>さっきも少し触れましたが、その原因のひとつとして学校教育があげられると思う。>同じ服を着て、同じ時間に登校し、同じ行動を取らされ、訳のわからん校則を強要されるといったように、学校では理不尽に慣れさせるような教育をしているように感じますね。

没個性は、人間平等の証と考えられているのかもしれませんよ。

>幼い頃からこんな洗脳教育を徹底的に叩き込まれりゃ、人間が持っている創造性・表現力・独創性・個性なんて、ほとんど失ってしまうけれど、それにも関わらずルールはルール!と思考停止する人ばかり。

非現実の内容を現実の中で実現すれば、それは創造力を発揮したことになります。
受け売りでない自分自身の考えを述べれば、それは自己の表現力を発揮したことになります。
他人と違った意見を述べれば、その人の個性の表れであります。独創性があります。

>社会は理不尽だから、学校ではそれに適応できる奴隷を製造しますって?

主人公に意思がなければ、奴隷状態から脱出できませんね。

>黒板に書かれたことをひたすらメモさせたり、決まった回答が用意されたテストをくり返しやらせれば、確実に思考を封鎖できるから?

そうですね。非現実 (考え) の内容を想定外に置いている日本語脳では、思考は封鎖されていますね。現在の学校教育は、日本語脳に適合しているようですね。

>思考を封鎖すれば、将来は雇われるという選択しかしなくなるから、奴隷を量産したい政府にとっては願ったり叶ったりだろう。

日本人の ‘無意志・受け身’ の性格は、政府の政策以前のものでしょう。

>日本のやり方は、まことに非効率・非生産的だと思うんですが、どうでしょう? >この意見に否定的な人は、日本人が英語の教育を小学校から大学まで12年もかけて行うのに、なぜ、まともに英語を話せる人が少ないのか?ってことを考えてみたほうがいい。

日本語脳では、英語は無理なのでしょうね。ですから、非効率・非生産的になる。

>●学校という名の奴隷養成専門学校 >自分の頭で考えることをしなければ、権威と同調圧力に弱くなってしまい、マスコミにも簡単に騙されやすくなる。

自分の頭で考えることは、日本人にとって非常に難しいことですね。
現実 (事実) は、頭の外にある。見ることができる。見ればわかる。
非現実 (考え) は、頭の中にある。見ることができない。ただの話である。わかるためには、文章の理解が必要である。だから、文法学校が考えられる。
見ることができる内容は、本当のこと。見ることができない内容は、嘘である。事実は本当、考えは嘘である。
日本人は、自分の考えを述べることをしない。見て来たような嘘をつきたくないからである。だから、思考停止になる。

>義務教育で優等生的な姿勢に終始するように洗脳された人は、国にとって便利なお得意様であり奴隷なのです。

思考停止に陥った人に暗記による詰め込み教育を行うと、洗脳教育になります。戦争中に玉砕するまで戦い抜いた筋金入りの日本人になります。皇民化教育は、洗脳教育の応用でありました。暗記した内容以外には、発想できない人間になっています。

>そうなりたくないと望んでも学校教育自体が、サラリーマンに適応するための教育しかしていないってのが、そもそもの問題。

如何すればその状態を脱出できるかを述べる日本人がいません。

>思い出すと僕たちは幼稚園→小学校→中学校→高校→大学、そして就職と、もうずっと誰かに踊らされてるんです。>親や先生とかの期待に応えるためか知らないけど、自分のために自発的な行動をしたことって本当にありますか?ほとんどないでしょう?

そうですね。日本人には意思 (will) がない。自主・独立の気風に欠けている。だから、優柔不断・意志薄弱に見える。
意思は、未来時制の文章内容である。しかるに、日本語の文法には時制 (tense) というものがない。だから、日本語の脳裏には未来時制がない。そして、日本人には、意思がない。
英文法には、時制がある。だから、英米人には、意思がある。’Independent’ (自主・独立) は、アメリカ人の子供に対する褒め言葉になっている。
我々日本人も、日本語と英語を熱心に学んで時制の大切さを理解して、自己の表現を獲得する方法を学びましょう。この目的には、特に英米流の高等教育が有効であります。

>だから僕は自分でコントロールできる人生を送るために、起業を選んだんですよ。>老後や年金の心配をしながら65歳の定年をむかえるんじゃなくて、健康で体力がある時期に精一杯人生を楽しみたいってだけです。>あなたがやるべきことは、考えること・疑うことの制限を解除することです。

そうですね。私も、考えること・疑うことをするつもりです。


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空気的事実

2019-01-30 17:46:07 | 言語

>ブログ執筆の基本的な姿勢・・・事実に従ってそのまま書く >「tdyno.29-(7:05).mp3」をダウンロード
>【第一の事件】
> 1年ほど前に名古屋のとあるテレビ局で朝のニュース番組の解説をしたことがあります。>なにかエネルギーの話になり、アナウンサーが「石油などの化石資源はあとどのぐらいありますか?」と質問したので「8000年ぐらいは大丈夫でしょう」と答えました。

8000年ぐらいあれば、大丈夫ですね。そのうちに新しいエネルギーに切り替わりますね。

>アナウンサーは「ずいぶんありますね」という感じでしたが、隣の朝日新聞の論説委員は「いい加減なことを言うな」という趣旨の発言をしました。>自分のことをいばる訳ではありませんが、私は資源の専門家で大学教授として活動してきたのですから、自分の専門分野のことで新聞社の人から「いい加減」呼ばわりされる筋合いはないと思いました。

全くその通りですね。わが国では、専門家が尊敬されない傾向がありますね。
イザヤ・ベンダサンは、自著<ユダヤ人と日本人>の中で、我が国の評論家に関して下の段落のように述べています。
評論家といわれる人びとが、日本ほど多い国は、まずあるまい。本職評論家はもとより、大学教授から落語家まで (失礼! 落語家から大学教授までかも知れない) 、いわゆる評論的活動をしている人びとの総数を考えれば、まさに「浜の真砂」である。もちろん英米にも評論家はいる。しかし英語圏という、実に広大で多種多様の文化を包含するさまざまな読者層を対象としていることを考えるとき、日本語圏のみを対象として、これだけ多くの人が、一本のペンで二本の箸を動かすどころか、高級車まで動かしていることは、やはり非常に特異な現象であって、日本を考える場合、見逃しえない一面である。 (引用終り)

>そこで番組がおわり控え室で「私の見方と違うなら、根拠を示してくれ」と求めましたら、単に「受け売り」に過ぎないのです。

わが国の言論界は、受け売りの専門家で成り立っているようですね。学校で暗記力を鍛えているからでしょうか。思考停止も何のその。自分自身の意見がなくても、議論 (?) をしたがる。

>当然と言えば当然で、朝日新聞の人が専門の論文を読んだり、現地に調査に行ったりしていないのですから、日本の中で報道されていること(つまり私の言う「空気的事実」)を信じているだけなのです。

わが国では、受け売りの達人ばかりが養成されていますね。真の哲学博士 (Doctor of Philosophy: Ph. D.) が疎んじられています。

>でも、その朝日新聞の論説委員が特に悪辣ということでもありません。>日本の学者や専門家ですら、「資源がなくなると言う空気ならなくなると言う」、「温暖化するという空気なら温暖化するという」というのが今のやり方なのですから。

それは、オウムのようなものですね。付和雷同する国民性の表れですね。

>私はここ20年来、「自らが学問的に「事実だ」と思うこと、また「解析したらこうなった」ということは、たとえそれが「日本の空気的事実」と反してもそのまま言う」ことにしています。

そうですね。それが当然の態度ですね。

>こんな事を学者が念を押すこと自体がおかしいのですが、自分が事実だと思うことをそのまま言うと、「異端児」、「独自の考え」、「他人の心を配慮しない」と批判されることがあります。

日本人は、ご唱和の社会に住んでいますからね。わが国には、個人主義は育っていませんね。’よそもの、外人、非国民’ といったような発想ですね。

>【第二の事件】>朝日新聞の論説委員もそうですが、なぜ批判するかというと「みんなと違う」というのがその論拠です。

現実の世界は、頭の外にある。現実は見ることができる。その内容は、唯一である。ご唱和の可能な内容である。
非現実 (考え) の世界は、頭の中にある。考えは、見ることができない。ただの話である。わかるためには、理解が必要である。内容は、各人で違っている。矛盾を含んでいない全ての文章は、正しい考えを示している。矛盾を含んでいる文章も、その矛盾を取り除けば正しい考えとなる。だから、相手との対話は有用である。日本人は、全ての内容が現実関係のものである。他との内容の違いを、ただそれだけの理由で批判しようとする。できるはずがない。

>このような「空気的事実」を「正しい」とした極端な例が南極の氷で、IPCCが「温暖化すると南極の氷が増える」と英語の報告書で書いているのを、環境省が故意に誤訳し、NHKがIPCCの報告に反して「温暖化すると南極の氷が減る」と報道して、「空気的事実」を作り上げました。

IPCCというのは、Intergovernmental Panel on Climate Change (国連気候変動に関する政府間パネル) のことですね。

>そうすると、日本中が右へならえして科学とは正反対のことを言うようになり、その結果、IPCCの通りに言っている私が異端児になるという実に奇妙なことが起こったのです。

‘日本の常識は、世界の非常識’ ですね。

>この場合は学説でもなんでもなくて、私もNHKも同じIPCCを根拠にしていているのですが、NHKは「IPCCといってもIPCCのまま報道するより、空気的事実としたいもの」を報道するのが適当だと考えたのでしょう。

日本人の考え方ですね。これでは、我が国民は時流に流されてしまいますね。わが国においては、学問はむなしい。これも、高文脈文化 (high context culture) のせいか。

>NHKが間違った報道をするはずがないということで空気的事実が確定しました。>これは日本社会にも影響を与えましたが、学者としての私の立場から言えば、「大きく研究をするのが阻害された」という結果になりました。

わが国では、空気・雰囲気が絶大な力を持っていますね。
山本七平は「『空気』の研究」のなかで、そのことを指摘しています。
「驚いたことに、『文藝春秋』昭和五十年八月号の『戦艦大和』でも、『全般の空気よりして、当時も今日も(大和の)特攻出撃は当然と思う』という発言が出てくる。この文章を読んでみると、大和の出撃を無謀とする人びとにはすべて、それを無謀と断ずるに至る細かいデータ、すなわち明確の根拠がある。だが一方、当然とする方の主張はそういったデータ乃至根拠は全くなく、その正当性の根拠は専ら『空気』なのである。最終的決定を下し、『そうせざるを得なくしている』力をもっているのは一に『空気』であって、それ以外にない。これは非常に興味深い事実である。」と書いています。

>【私の立場】>私たち学者は「真理と正義を愛する」職業についていて、教育でも子どもたちに「真理と正義を愛せよ」と教えているのですから、到底、「みんなが受け入れやすいから」という理由でウソを研究したり、教えたりはできないのです。

そうですね。

>少し長くなりましたが、このブログで書くことは、1)事実であり、2)それに基づいた考え方であり、3)もし違う考えがあれば必ずそれも併記する、ということに終始します。

それは、正しい態度ですね。

>社会にどんな空気的事実があっても、個人を批判したりするのはできるだけ控え、自分の心をまっすぐにして、冷静に書いていきたいと思っています。

同感です。正しい批判は、すべきでしょうね。それが、建設的な態度というものですね。

>(平成24年12月21日) >武田邦彦


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仮説と真実

2019-01-29 01:55:57 | 教育

>学校における生徒の主な課題は、授業・宿題・テスト。>授業の内容や、教科書に書かれている内容を覚えることが第一義的な課題になる。>これがテストの点数や内申などで評価になる。

そうですね。

>問題なのは、教科書に書いてあることが全て正しい、全て真実である、と生徒が思い込まされることだ。

そうですね。先生は、常に正解を求めていますからね。

>科学と宗教の違いは、「反証を許すか否か」にある。>反証を全く許さない、絶対的な価値の存在を認めるのが宗教だ。

そうですね。異端は許されませんね。

>果たして、教科書に書いてある内容に対して、反証を唱える生徒がどれだけいるのか?

それは、非常に難しいですね。

>そう、学校がやっている「教科書に書いてあること(先生の言うこと)は全て正しい。>だから覚えなさい」というのは宗教なのである。

そういうことになりますかね。

>(テストで、「こういう説もある」と解答しようものなら、先生の強権で×をされてしまうだけである。)

それは、先生のご都合主義によるものでしょう。

>大体「絶対に正しい」といえることって、世の中にどれだけあるのか?

現実の内容は、頭の外にある。見ればわかる。その答えは、ただ一つである。だから、その内容については、異口同音でなくてはならない。

>例えば「歴史は絶対に正しいことをやるので暗記にしかならない」とか言う人もいるが、誤りである。>だれも見てきたわけではないのだから、全て仮説に過ぎないのである。

そうですね。非現実 (考え) の内容は、頭の中にある。見ることができない。単なる話である。その内容がわかるためには、文章を理解することが必要である。
矛盾を含んでいない非現実の内容の文章は、すべて正しい考えを示している。考えは個人個人で違いがあるから、正解の数は無数にある。矛盾を含んでいる文章も、その矛盾を取り除けば、正しい考えを示すことになる。だから、相手との対話は有用である。
日の下に新しきことなし。されど、人間は自分の考えを変えることができる。だから、新事実の発見により生ずる新たな矛盾を取り除くことにより、科学はどこまでも進歩する。

>たとえ映像で残っていたとしても、撮り方や編集で事実を捻じ曲げることが可能だ。

現実の内容は、ただ一つである。個人による違いは、事実関係調べにより解決されなくてはならない。

>その仮説に過ぎないものを、絶対的な真実として教え込む犯罪性に早く気付いてほしい。

矛盾を含まない文章内容は、すべて正しい考えを示している。ですから、めいめいが自分自身の意見を述べようではありませんか。さすれば、一億総受け売りの世の中に ‘おさらば’ できます。
イザヤ・ベンダサンは、自著<ユダヤ人と日本人>の中で、我が国の評論家に関して下の段落のように述べています。
評論家といわれる人びとが、日本ほど多い国は、まずあるまい。本職評論家はもとより、大学教授から落語家まで (失礼! 落語家から大学教授までかも知れない) 、いわゆる評論的活動をしている人びとの総数を考えれば、まさに「浜の真砂」である。もちろん英米にも評論家はいる。しかし英語圏という、実に広大で多種多様の文化を包含するさまざまな読者層を対象としていることを考えるとき、日本語圏のみを対象として、これだけ多くの人が、一本のペンで二本の箸を動かすどころか、高級車まで動かしていることは、やはり非常に特異な現象であって、日本を考える場合、見逃しえない一面である。 (引用終り)

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内向き・外向き

2019-01-28 17:59:54 | 言語

(略)
>高齢者などを見るとこの傾向は顕著で、集会所でも、街中でも、おばちゃん軍団は元気でパワフルに社交を楽しんでおり、夫との死別後はますます意気軒昂という人も少なくない。>そうしたご婦人方に「ご主人は」と尋ねると、たいてい「亡くなった」「家にいる」「たまに図書館に行く」という答えが返ってくる。

これらは、ありふれた光景になっていますね。

>年を経るごとに男性は、「内向き」の力が働きがちになる一方で、女性は遠心力が働くように、どんどんと「外向き」になり、つながっていく印象がある。

印象派の説明ですね。

>こうした傾向について、男性更年期など「メンズヘルス」に詳しい順天堂大学の堀江重郎教授は女性セブンで、

>「(男性は)獲物を追い、自分を認めてもらい、獲物を仲間に与えることで男性ホルモンは活性化する。>狩りは、今の社会で言えば“仕事”。>引退後、その狩りをしなくなると男性ホルモンの分泌は減少し、意欲と筋力が低下し、いつも家にいる」
>「女性ホルモンは自分の周囲をケアするように働くが、閉経により減少すると、もともと持っていた男性ホルモンが優位になり、外へと目が向く。>閉経後の女性はどんどん外出し、社交的に振る舞うように設計されている」

>といった趣旨の解説をしている。>まさに内向き、外向き説はホルモンによっても説明できるということのようだ。

ホルモンの傾向で説明すれば、そういうことになりますかね。

>これ以外にも、「オジサンの孤独」には社会的、文化的、生物学的なさまざまな要因が絡み合うが、中高年男性を孤独に向かわせる1つの価値観に、冒頭に挙げた「恥」というものがあるように思う。

恥は、日本独特なのでしょうかね。

>恥についての論考はアメリカの人類学者ルース・ベネディクトの『菊と刀』が有名だ。>ベネディクトはキリスト教的な価値観に基づき、自分の内面に善悪の絶対の基準を持つ西洋の「罪の文化」に対し、他者からの評価を基準として行動が律されている「恥の文化」を対比させた。

日本人には、罪がない。だから、恥が全てになる。
日本人には、意思がない。だから、加害者意識もない。あるのは、被害者意識だけである。加害者意識がなければ、罪の意識もない。
一方、日本語には、階称 (言葉遣い) というものがある。だから、’上とみるか・下とみるか’ の判断は始終欠かせない。日本人の礼儀作法は、序列作法になっているので、上下判断が疎かであっては、礼儀正しい日本人にもなれない。人を見損なってはいけないということで、(責任の上下関係には関係のない) 世俗的序列意識は強迫観念の域にまで達している。序列観念の不行き届きは恥となる。

>要するに「自分の良心に照らして、それが正しければ、ほかからどう見られようと気にしない」という西洋の価値観に対して、「他人や世間からどう見られるのか」ということを極度に気にし、それによって行動を制するのが日本の流儀ということになる。

そうですね。西洋人には、自分自身の ‘あるべき姿’ (things as they should be) の内容があるので、判断基準にそれを使えばよい。日本人には、自分の基準がないので、他人の基準に頼らなくてはならない。それで、極度に気にする事柄を抱えている。

>筆者は長年、エグゼクティブに対するコミュニケーショントレーニングをなりわいとしてきたが、日本企業における「リーダーシップ」、つまり、「できる男のイメージ像」というものも、この「恥」の価値観に立脚しているところがあると実感する。>正確性、緻密性が何よりも重んじられ、失敗や間違いを極端に恐れる無謬主義、減点主義の風土の中で、間違いを犯してはいけない、弱さを見せてはいけない、恥をかいてはいけない、と自分を律しがちになる。

日本人には世界観がないので、その代わりに細かいことにはトコトン神経を集中させていますね。

>他人からの視線を気にして行動を制する「恥」の概念は、「恥を知る」といったように、日本人独特の道徳性を支えてきたともいわれる。

‘上とみるか、下とみるか’ の判断は、自国の言語に階称 (言葉遣い) のある国民 (日本人・韓国人) にはつきものでしょうね。’恥’ は、序列道徳の支えとなっているようですね。

>しかし、そこにとらわれすぎれば、男女を問わず、人との交友関係を広げよう、何か新しいこと挑戦しようという方向にベクトルは振れにくくなる。

そうですね。社交の拡張に問題をきたしますね。

>「恥をかきたくはない」と体面にこだわる人と、恥ずかしい姿をさらけ出せる人。>どちらが共感を集めやすいか、仲間を作りやすいかは火を見るより明らかだろう。

気さくな人と、そうでない人との違いですね。

>恥や共感の研究で有名なアメリカ・ヒューストン大学のブレネー・ブラウン教授の考察が非常に興味深い。>ブラウン教授はTEDトークの中で、こう指摘した。「人との関係をこじらせることへの恐れが『恥』」であり、「男性にとって、『恥』とはすなわち、弱く見られたくない。>これに尽きる」と。

軍事大国の見せる励みのようなものですね。

>一方で、人と心を通わせることのできる人に共通するのは、「自らのもろさや弱さ(vulnerability)をさらけ出すことをよしとしている」点であると述べている。>つまり、弱く、不完全な自分を認め、受け入れ、さらけ出す勇気、恥をかく勇気こそが、人とのつながりの第一歩であるということだ。

平和国家のようなものか。恥はかき捨てにする。

>「強さを誇示することが本当の強さ」ではない。>「自分の弱さを認める強さ」こそが、孤独や生きづらさを解消する生き方のカギとなるということなのだろう。

そうでしょうね。やせ我慢をするのは、身体に良くないですね。


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精神性

2019-01-28 10:50:16 | 言語

(略)
>ここで「東洋思想とはどのようなものか」をきちんと定義し、解説しておきましょう。>私の言う東洋思想とは「儒教、仏教、道教、禅仏教、神道」の五つの思想を指しています。>日本に八世紀以上存在し、精神性や風土に根づき、息づくことで、私たち日本人の暮らしの根源となっている「知的資源」と呼べるものです。

道教は中国、神道は日本でしょうね。東洋とは、トルコ以東のアジヤ諸国の総称ですか。

>これら東洋思想に共通する特性を、近代西洋思想と対比すると、両者がいかに「相補い合う関係」にあるのかがはっきりと見えてきます。

それほどハッキリしているでしょうかね。相補う関係は、わが国内に限ったことではありませんか。

>西洋は「外側にある(すなわち、誰もが見ることができる)真理に迫っていく」という真理探究方式を採る一方、東洋では「自分の中にある仏性、神的性に迫っていく」という真理探究の方式を採ります。

現実は、頭の外にある。その内容は見ることができる。一方、非現実 (考え) は、頭の中にある。これは、見ることができない。目で見ることができる内容は、’本当のこと’ である。見ることのできないものは、’嘘’ である。

>西洋思想では、どちらかと言えば「外側」に関心の中心が置かれ、「誰でも理解できること」「普遍性」を重視し、モジュール化に適しています。

西洋思想は、非現実 (考え) であり文章内容であります。その内容は見ることができません。ですから、理解しなければわからない。外側しかわからない日本人たちには理解が難しい。

>反対に、東洋思想では「自分の心の中」に関心が向けられます。

日本人は、非言語の事柄に関心がありますね。非言語の内容は、文書を理解する方法ではどうにもならないでしょう。

>自己の内なる仏や神に気づくこと、自己の仏性、神的に目覚めることを重視します。>それだけ精神性に富んでいるということです。

日本人は、忖度 (推察) の内容を重視しているのですね。精神 (非言語) の内容は、誰にも理解不能です。

>西洋…外側にある対象に向かう

日本人の西洋観は、外側にあるもののみを対象としています。西洋人の内側にあるものは文章内容ですから、日本人に一切無視されています。

>東洋…内側にある対象に向かう

日本は高文脈の文化 (high context culture) ですから、文章内容で考えを表すことはできません。ですから、日本人は、相変わらずの無哲学・能天気であります。

>このように、まさに正反対だからこそ相補の関係に成り得るのです。

言語と非言語は補完関係になりますかね。なるとすれば、それは、高文脈文化の中でのみ成り立つのでしょうね。世界の大勢は低文脈文化ですから、西洋・日本の相補関係は難しいでしょうね。

>180年前の幕末の思想家佐久間象山は「東洋道徳、西洋芸(技術)」という言葉で、両者を対比し、その特性の違いを見事に表現しました。>東洋は『精神』領域に長けているので、そこに資する知見を提供すべきであり、西洋は『技術』において一日の長がある。

わが国の ‘精神’ は ‘非言語’ と置き換えることができるのではないでしょうか。西洋の技術は、言語に基づく技術でしょう。言語に基づく内容は伝搬が比較的容易です。わが国の技術は言語に基づかないので、世界への伝搬が非常に難しいのではないでしょうか。

>佐久間象山は「両者の得意分野を融合して使うべきだ」と言っているのです。>まさに「西洋と東洋の知の融合」です。

言語と非言語の知識の融合は、易しいものではないでしょうね。「西洋と東洋の知の融合」は、日本人向きでしょうね。

>『なぜ今、世界のビジネスリーダーは東洋思想を学ぶのか 史上最高のビジネス教養「老子」「論語」「禅」で激変する時代を生き残れ』文響社 >田口氏は本書の中でこう語る。

日本人は、’老子’、’論語’、’禅’ の書物を忖度 (推察) の手助けとして利用しているのではないでしょうか。もしもそうであれば、低文脈文化 (欧米) の人々には、役立たないでしょうね。

>『今、世の中では盛んに「イノベーションが必要だ」と叫ばれています。>では、どんな人からイノベーティブなアイデアは生まれてくるのでしょうか。>誤解を恐れずに言えば、それは「楽しんでいる人」であり、「遊び半分の人」であり、「無駄なことをしている人」です。』

改善は、人生を楽しんでいる人から生まれるのですね。無哲学・能天気な日本の大学生と違いますか。楽しみに反対ではありませんが、建設的なことも必要ではありませんか。

>それを表す言葉が老子にあるという。>『《有を以て利を為すは、無を以て用を為せばなり》>目先の利益で有用・無用を決めつけてはいけない。>今は無用に思えても、先々で必要になることもある。>何の役にも立っていないようでも、見えないところで大事な役割を果たしているものもある。

それは、そうですね。

>「無用の用」ということをよく考えなければいけない』>「遊戯三昧(ゆげざんまい)」という禅語が、「無門関」の第一則にある。>山田無文老師は真の「遊戯三昧」の境地をこう教えている。>「働くことがそのまま遊びなんです。人のためにすることがそのまま遊びなんです。苦しい目に逢うこともまたそのまま遊びなんです」

これでは、人間は他の動物たちと同じですかね。新しい形の未来社会の建設を楽しみにする必要があるのではないでしょうか。

>『人生最大の幸福は「職業の道楽化」にある』と言ったのは本田静六氏。>職業の芸術化であり、趣味化であり、ゲーム化であり、スポーツ化である。>東洋思想を更に深く学びたい。

非言語の文化ですね。芸術家の生涯ですかね。


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