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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

伊丹万作氏  

2021-11-30 22:09:50 | 文化

 

>■伊丹万作『戦争責任者の問題』(19468月)より抜粋

>少なくとも戦争の期間をつうじて、だれが一番直接に、そして連続的に我々を圧迫しつづけたか、苦しめつづけたかということを考えるとき、だれの記憶にも直ぐ蘇ってくるのは、直ぐ近所の小商人の顔であり、隣組長や町会長の顔であり、あるいは郊外の百姓の顔であり、あるいは区役所や郵便局や交通機関や配給機関などの小役人や雇員や労働者であり、あるいは学校の先生であり、といったように、我々が日常的な生活を営む上において、いやでも接触しなければならない、あらゆる身近な人々であったということはいったい何を意味するのであろうか。>いうまでもなく、これは無計画な癲狂戦争の必然の結果として、国民同士が相互に苦しめ合うことなしには生きて行けない状態に追い込まれてしまったためにほかならぬのである。

 

戦後、バカな戦争をしたもんだと我々はお互いに言い合ったものですね。  

 

>そして、もしも諸君がこの見解の正しさを承認するならば、同じ戦争の間、ほとんど全部の国民が相互にだまし合わなければ生きて行けなかった事実をも、等しく承認されるにちがいないと思う。  

 

現実を直視できる人はいなかったのですね。山本七平は「『空気』の研究」のなかで、そのことを指摘しています。

「驚いたことに、『文藝春秋』昭和五十年八月号の『戦艦大和』でも、『全般の空気よりして、当時も今日も(大和の)特攻出撃は当然と思う』という発言が出てくる。この文章を読んでみると、大和の出撃を無謀とする人びとにはすべて、それを無謀と断ずるに至る細かいデータ、すなわち明確の根拠がある。だが一方、当然とする方の主張はそういったデータ乃至根拠は全くなく、その正当性の根拠は専ら『空気』なのである。最終的決定を下し、『そうせざるを得なくしている』力をもっているのは一に『空気』であって、それ以外にない。これは非常に興味深い事実である。」と書いています。     

 

>しかし、それにもかかわらず、諸君は、依然として自分だけは人をだまさなかったと信じているのではないかと思う。

 

そうですね。いつも自分だけは例外ですね。       

 

>そこで私は、試みに諸君にきいてみたい。>「諸君は戦争中、ただの一度も自分の子にうそをつかなかったか」と。>たとえ、はっきりうそを意識しないまでも、戦争中、一度もまちがったことを我子に教えなかったといいきれる親がはたしているだろうか。  

 

両親は風評の被害者ですかね。   

 

>いたいけな子供たちは何もいいはしないが、もしも彼らが批判の眼を持っていたとしたら、彼らから見た世の大人たちは、一人のこらず戦争責任者に見えるにちがいないのである。>もしも我々が、真に良心的に、かつ厳粛に考えるならば、戦争責任とは、そういうものであろうと思う。

 

そうでしょうね。一億総懺悔が正しい見方ですかね。      

 

>……だまされたということは、不正者による被害を意味するが、しかしだまされたものは正しいとは、古来いかなる辞書にも決して書いてはないのである。

 

そうですね。騙された人は「私は相手を信じた」と言いますね。善良な市民が犠牲になったという意味ですね。      

 

>だまされたとさえいえば、一切の責任から解放され、無条件で正義派になれるように勘ちがいしている人は、もう一度よく顔を洗い直さなければならぬ。

 

そうでしょうかね。日本人には意思がない。意思の無い人間には責任がない。だから、傍観者である。常に正義派になれるのか。   

日本人には意思 (will) がない。意思は英語の未来時制の文章内容であるが、日本語の文法には時制 (tense) というものがないので、日本人には意思がない。

意思のあるところに方法 (仕方) がある。Where there's a will, there's a way. 日本人には意思がない。仕方がないので無為無策でいる。おとなしい。優柔不断・意志薄弱に見える。能動がなくて受動ばかりの生活を送っている。だから戦時中は、玉砕するまで戦い抜いた日本兵であった。困った時には '他力本願・神頼み' になる。生きる力 (vitality) が不足している。

 ' やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かず' 山本五十六 (やまもと いそろく)

どうやら '指示待ち人間' ができあがったようですね。   

日本人には意思がない。だから意思決定はできない。意思決定が必要な時は、恣意決定に頼ることになる。つまり、事の次第・自然の成り行きで決着をはかる。このやり方は、アニマルも同じである。

恣意 (私意・我儘・身勝手) はバラバラな単語のままで存在するから文章にならない。だから、意味というものがない。行為・言動の本人にその説明責任はとれない。恣意の人間は指導者になっても権力は持たせられない。人人はできるだけ権力の少ない指導者を望んでいる。すると、指導者は床の間の置物のようなものになる。彼の唯一の業績は '任期中に何もしなかった' ことであると任期終了時にいわれている。  

日本人はなれ合っている。なれ合いとは、真の意味での検討や意見の交換などをせず、お互いに「なあ、いいだろう」ぐらいの話し合いで全てを済ませること。日本人には、恣意疎通 (阿吽の呼吸・つうかあの仲) があって、意思疎通 (相互理解) がない。恣意 () の探り合い (談合) があって、意見の交換 (議論・対話) がない。恣意決定 (盲目の判断) があって、意思決定 (理性判断) がない。だから、日本人の責任者は説明責任が取れない。無責任でしかない責任者の権力はできるだけ小さいほうが良いので、日本人は権力の所在についての考えがない。

カレル・ヴァン・ウォルフレン氏は、<日本/権力構造の謎>の中の <とらえどころのない国家> で、次の段落のように述べています。

国会両院以外に、国家の中核として権力を持っているらしく見える組織は、官僚と大企業である。だが、この両者のどちらにも、究極的な権力はない。ボスはたくさんいるが、ボス中のボスといえる存在はないし、他を統率するだけの支配力のあるボス集団があるわけでもない。…… どの国についても、国家の実態をとらえるのは容易ではないが、日本の場合はとくに、バケツの中のウナギを素手でつかまえる、ということわざのたとえそのものである。指令の流れる経路、責任の中心、見え隠れする政策決定上の実際の動きなどが、すべて気が変になるほど、とらえどころがない。(引用終り)

日本人の未来は一寸先が闇である。危険が一杯である。だから、お変わりのないことが何よりなことである。世の中にお変わりが無ければノー・アイディアで暮らすことに不便を感じない。 

自由とは、意思の自由の事である。だが、日本人には意思がない。恣意 (私意・我儘・身勝手) の自由は何処の国でも認められていない。恣意の自由は ‘自由のはき違え’ になって許されない。だから、’不自由を常と思えば不足なし’ となって、日本人の生活は以前の生活と変わることがない。  

日本人には意思がない。意思の無い人には責任がない。ちょうど死刑執行人のようなものである。人は死んでも彼らは殺人罪に問われない。彼らには殺意という意思がないからである。意思の無い世界には、西洋流の責任も無い。イザヤ・ベンダサン=山本七平訳の<日本教について>の中で、日本語の責任について述べられています。

‘、、、、、「責任」という日本語には、「応答の義務を負う=責任(レスポンシビリティ)」という意味は全くないのみならず、「私の責任だ」といえば逆に「応答の義務がなくなる」のです。、、、、’ (引用終り)

‘兎角、この世は無責任’ という事か。

自己の意思を表せば、その人は当事者・関係者になる。表さなければ傍観者にとどまる。意思表示の無い日本人は常に傍観者にとどまっていて、孤高の人になっている。孤立無援になりやすい。わが国は、世界の中にあって、世界に属していない蚊帳の外。

日本人には罪がない。意思の無い人には罪がない。意思の無い人は能動がなくて、受動だけの生活をする。被害者意識はあっても、加害者意識がない。だから日本人は加害者意識が高じて体験する罪悪感に苛まれることがない。これはアニマルも同じです。だから、日本人には罪がない。罪の意識におびえる人たちが日本人に謝罪を勧めたらどうなるか。それは自虐行為の勧めと受け取られて恨みを買う事必定である。 日本人は罪を語らない宗教である神道・仏教の周辺に集まっている。とにかく、罪の匂いのするものは日本人の体質に合わない。それは陰気のもとになる。だから日本人は罪の話は嫌いです。罪の意識のない人には、病める魂もなく、その救済も必要としない。だから、贖罪の為の宗教 (キリスト教) も、わが国では力を持つに至らなかった。

戦後の占領軍のWGIP ( War Guilt Information Program: 戦争についての罪悪感を日本人の心に植え付けるための宣伝計画) という奇特な計画も見事に失敗しました。これは、アフガンに民主主義を植え付けようとするアメリカ人のようなものか。日本人に対する罪悪感の宣伝はカエルの面に小便の状態になったのです。 

各人に哲学は必要である。Everyone needs a philosophy. 欧米人は哲学と意思により人間の行動を説明する。日本人には、哲学と意思がないので、人の行為を ‘建前と本音’ を使って説明する。建前は ‘口実・言い訳・言い逃れ’ である。本音は、’私意・我儘・身勝手 である。だから、現実の中に行為がうずもれてしまい低俗な感じは避けられない。意思は未来時制の文章内容になるので意味があるが、恣意はバラバラの単語 (片言・小言・独り言) のままで存在するので意味がない。

 

>しかも、だまされたものが必ずしも正しくないことを指摘するだけにとどまらず、私はさらに進んで、「だまされるということ自体がすでに一つの悪である」ことを主張したいのである。

 

意思の無い者に罪を着せるのは、子供に罪を着せるようなことにはなりますまいか。

 

>だまされるということはもちろん知識の不足からもくるが、半分は信念すなわち意志の薄弱からくるのである。 >我々は昔から「不明を謝す」という一つの表現を持っている。>これは明らかに知能の不足を罪と認める思想にほかならぬ。

 

そうですね。未必の故意に近いものですかね。     

 

>つまり、だまされるということもまた一つの罪であり、昔から決して威張っていいこととは、されていないのである。

 

そうですね。あえて反対意見を述べて抗うことも無く騙されたふりをしている人もいますね。厄介払いの一種ですね。もちろんこうした態度は威張っていいことではないですね。         

 

>もちろん、純理念としては知の問題は知の問題として終始すべきであって、そこに善悪の観念の交叉する余地はないはずである。  

 

そうですね。知っているか、知らないかの問題ですね。   

 

>しかし、有機的生活体としての人間の行動を純理的に分析することはまず不可能といってよい。>すなわち知の問題も人間の行動と結びついた瞬間に意志や感情をコンプレックスした複雑なものと変化する。

 

そうですね。優秀な人は「純粋によく観察する」が、凡人は「自分の期待したもの」しか見ようとしない。これは強欲というのか、本能というのか。      

 

>これが「不明」という知的現象に善悪の批判が介在し得るゆえんである。

 

そうですね。だから、未必の故意の想いに自己の魂を傷つけられて謝罪するのですね。    

 

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外国人労働者  

2021-11-29 23:13:42 | 文化

>静岡新聞 社説 <2021.11.29>   >外国人就労の転換   

>熟練者定着する社会に   

>政府は人手不足業種の外国人労働者の在留資格「特定技能」のうち、熟練者については資格を何度でも更新できるようにする方針を固めた。

>対象者が限定されるとはいえ、永住条件対象の拡大で事実上の移民政策は新たな段階に進む。 

>日本の産業経済は多くの場面で外国人労働者に支えられている。新型コロナウイルス感染拡大で技能実習生らの入国が制限され、改めて依存度の高さが確認された。

>特定技能は、技能実習生の不法就労などの問題を経て2019年に制度導入された。

>特段の訓練を受けずに働ける「1号」と、熟練技能を持つ「2号」の区分がある。

>1号の在留資格は上限5年だが、2号は更新可能で在留10年を経て永住することができる。

>現在、2号は特に人手不足が深刻な「建設」「造船・舶用工業」に認められている。看護分野には別の長期就労制度がある。制度改定は農業、産業機械製造、外食、宿泊などにも広げ、全14分野を対象にする方針とされる。

>外国人労働者はこれらの業種に不可欠な存在だ。

>中でも現場のリーダーとなれる熟練者は事業拡大や成長の戦力として期待される。熟練者が定着する職場、社会づくりが重要だ。

>ただ、8月末時点で特定技能による在留者は約3万5千人いるが、熟練者である2号資格者はいない。制度の実効が上がる熟練者確保策が問われる。

>2号資格者は家族帯同が可能であり、働く当人だけでなく、家族が暮らし学ぶための日本語教育も車の両輪として拡充する必要がある。

>19年に施行された日本語教育推進法に沿って、国や地方自治体、企業は支援の責務をまっとうしなければならない。

>1989年に1万6千人だった静岡県内在留の外国人は2008年には10万人を超えた。

>その後いったん減少したが、19年には再び10万人台となった。

>20年6月末時点で10万237人に対し、特定技能は200人にとどまる。

>県は役所の窓口対応からゴミ出しルールなど地域のお知らせまで、なるべく短文を使うなど「やさしい日本語」の普及に努めたり、日本語ボランティア養成の講習会を開催したりしている。

>企業での日本語教育と公的な学習支援の連携を強化し、地域活性化への好循環を目指したい。

>外国人が働きやすく暮らしやすいまちは、日本人にも魅力的なまちになる。

>やさしい日本語への関心の高まりは多文化共生の地域づくりにつながる。   

 

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日本語は写生画 (スケッチ) の言語である。実況放送・現状報告の為にあるようなものである。わき目も振らず現実描写に専念できる。そして時代に流される。   

だが、日本語は非現実 (考え) の内容を表現する為の言語ではない。だから、過去の経験に基づいて未来の内容を創作し、これ指針とする活動が難しい。だから、日本人の活動は何処を目指すということも無い。ただその日暮らしの生活をやり過ごすことになる。

政治には未来の構想が必要である。政治家はその内容に基づいて民の力の結集を図れば、今までには存在しなかった個人の考え通りの新しい世界が開けて来る。マスコミも個々の政治家の政治哲学を広く読者に解説すべきですね。それができないうちは、我が国民は政治音痴の民にとどまる。   

 

『有能な人材が世界から日本に集まり、ここで世界に向けてサクセスストーリーが生まれるという国家を目指すべきです。 このための具体的な政策課題として (1)英語を第2公用語にする (2)定住外国人に地方参政権を与える (3)インターネットの接続料はじめ知的生産活動の基本コストを諸外国並みにする (4)日本の制度やシステムの中で国際基準と合致しないものを一括して見直す―の4点を提案したいと思います。』 (茂木敏充外務大臣)   

 

言語は伝達の手段であるばかりでなく、思考の重要な手段でもあります。ですから我々の考えの疎かな所は日本語のせいであることもあります。   

非現実 (考え) の内容は、英語の時制のある文章により表される。非現実の内容はそれぞれに独立した三世界 (過去・現在・未来) の内容として表される。その内容は世界観と言われている。これらの三世界は時制により構文が異なるので、同次元で語ることができない。それで独立した三世界になっている。この規則を the sequence of tenses (時制の一致) と呼ぶ。日本人の初学者が英論文を書くときに難渋する規則である。 

世界観は、人生の始まりにおいては白紙の状態である。人生経験を積むにしたがって、各人がその内容を自分自身で埋めて行く。自己の 'あるべき姿' (things as they should be) もこの中にある。来るべき世界の内容を語ることは、時代を先取りすることである。

自己のその内容 (非現実) を基準にとって現実 (things as they are) の内容を批判 (縦並びの比較) すれば、批判精神 (critical thinking) の持ち主になれる。批判精神のない人の文章は、ただ現実の内容の垂れ流しになる。全ての事柄は他人事になる。これは子供のようなものである。日本人も英米人も子供の時には非現実 (考え) の内容というものがない。だから ‘話を告げる’ (to tell a story) ということは、’作り話をする’ とか ‘嘘を吐く’ という風に受け取られて悪い子供とされている。この判定だけがわが国では一生涯続く。

日本語の文法には時制がない。だから、日本人には世界観がない。そして、日本人には批判精神がない。残念ながらマッカーサ元帥の '日本人12歳説' を否定できる人はいない。  

意見は比較の問題である。現実の内容と非現実の内容があれば批判精神が発揮できる。英米人の意見はこれである。これは縦並びの比較ということができる。建設的である。進歩が期待できる。希望が持てる。現実の内容だけであれば、その比較は '現実' 対 '現実' の上下判断 (横並びの比較) になり、'どっちもどっちだ' がある。無力感に苛まれる。この種の比較は復讐に復讐を重ねる民族同士の争いの原動力にもなっていて進歩が期待できない。

非現実の内容は人様々である。非現実の内容がなければあるのは現実だけで、その正解は一つである。日本人がともすれば異口同音の内容を語るのはこのためである。    

わが国のマスコミも現実の内容をただ垂れ流す。個人の価値判断が抜け落ちている。現実の正解はただ一つであるから、どんぐりの背比べで個性がない。それで、日本人は個人主義が何であるかを理解することが難しい。本人にも相手にも何を考えているのかわからない。だから、誰からも信頼されない。世界観に基づく協力者が得られないので社会に貢献する度合いが限られる。  

イザヤ・ベンダサンは、自著 <日本人とユダヤ人> の中で ‘自らの立場’ について以下のように述べています。   

何処の国の新聞でも、一つの立場がある。立場があるというのは公正な報道をしないということではない。そうではなくて、ある一つの事態を眺めかつ報道している自分の位置を明確にしている、ということである。 読者は、報道された内容と報道者の位置の双方を知って、書かれた記事に各々の判断を下す、ということである。 ・・・・日本の新聞も、自らの立場となると、不偏不党とか公正とかいうだけで、対象を見ている自分の位置を一向に明確に打ち出さない。これは非常に奇妙に見える。 物を見て報道している以上、見ている自分の位置というものが絶対にあるし、第一、その立場が明確でない新聞などが出せるはずもなければ読まれるはずもない。・・・・・ (引用終り)   

 

 

 

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木下都議  

2021-11-26 05:48:33 | 文化

 

>木下都議「仕事させてもらえなかった」発言の波紋…滲み出る“被害者意識”に「逆ギレ」と批判止まず  > SmartFLASH 2021/11/24 16:30

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>「私、木下富美子は本日、東京都議会議長に辞表を提出すること、決断をいたしました」

>1122日、会見で辞職を発表した木下富美子都議。

>木下氏は、7月の選挙期間中に無免許運転を繰り返し、さらに人身事故を起こしていたことが判明している。

>その責任を取った形だ。

>「無免許運転と人身事故が発覚したのは、75日です。

>それ以後、木下氏は4カ月間にわたり公の場に姿を現すことはなく、2回の辞職勧告決議まで出ました。

>3度目の召喚状を受け取り、119日に初登庁した際は、『続けてほしいとの声がある』として辞職を否定していました。

>今回、小池百合子都知事にも辞職を勧められ、ついに折れたのでしょう。

>しかしこの結末は、彼女にとって納得できるものではないのか、会見での言葉の端々に、“被害者意識” が出ていました」(政治部記者)

 

日本人には加害者意識がなくて被害者意識ばかりがある。だから、わが国は実に恨めしい世の中になっている。     

日本人には意思 (will) がない。意思は英語の未来時制の文章内容であるが、日本語の文法には時制 (tense) というものがないので、日本人には意思がない。

意思のあるところに方法 (仕方) がある。Where there's a will, there's a way. 日本人には意思がない。仕方がないので無為無策でいる。おとなしい。優柔不断・意志薄弱に見える。能動がなくて受動ばかりの生活を送っている。だから戦時中は、玉砕するまで戦い抜いた日本兵であった。困った時には '他力本願・神頼み' になる。生きる力 (vitality) が不足している。

 ' やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かず' 山本五十六 (やまもと いそろく)

どうやら '指示待ち人間' ができあがったようですね。   

日本人には意思がない。だから意思決定はできない。意思決定が必要な時は、恣意決定に頼ることになる。つまり、事の次第・自然の成り行きで決着をはかる。このやり方は、アニマルも同じである。

恣意 (私意・我儘・身勝手) はバラバラな単語のままで存在するから文章にならない。だから、意味というものがない。行為・言動の本人にその説明責任はとれない。恣意の人間は指導者になっても権力は持たせられない。人人はできるだけ権力の少ない指導者を望んでいる。すると、指導者は床の間の置物のようなものになる。彼の唯一の業績は '任期中に何もしなかった' ことであると任期終了時にいわれている。  

日本人はなれ合っている。なれ合いとは、真の意味での検討や意見の交換などをせず、お互いに「なあ、いいだろう」ぐらいの話し合いで全てを済ませること。日本人には、恣意疎通 (阿吽の呼吸・つうかあの仲) があって、意思疎通 (相互理解) がない。恣意 () の探り合い (談合) があって、意見の交換 (議論・対話) がない。恣意決定 (盲目の判断) があって、意思決定 (理性判断) がない。だから、日本人の責任者は説明責任が取れない。無責任でしかない責任者の権力はできるだけ小さいほうが良いので、日本人は権力の所在についての注意を払っていない。

カレル・ヴァン・ウォルフレン氏は、<日本/権力構造の謎>の中の <とらえどころのない国家> で、次の段落のように述べています。

国会両院以外に、国家の中核として権力を持っているらしく見える組織は、官僚と大企業である。だが、この両者のどちらにも、究極的な権力はない。ボスはたくさんいるが、ボス中のボスといえる存在はないし、他を統率するだけの支配力のあるボス集団があるわけでもない。…… どの国についても、国家の実態をとらえるのは容易ではないが、日本の場合はとくに、バケツの中のウナギを素手でつかまえる、ということわざのたとえそのものである。指令の流れる経路、責任の中心、見え隠れする政策決定上の実際の動きなどが、すべて気が変になるほど、とらえどころがない。(引用終り)

日本人の未来には内容がない。だから一寸先が闇である。危険が一杯である。だから、お変わりのないことが何よりなことである。変革のない社会であればノー・アイディアで暮らすことに不便を感じない。 

自由とは、意思の自由の事である。だが、日本人には意思がない。恣意 (私意・我儘・身勝手) の自由は何処の国でも認められていない。恣意の自由は ‘自由のはき違え’ になって許されない。だから、’不自由を常と思えば不足なし’ となって、日本人の生活は以前の生活と変わることがない。  

日本人には意思がない。意思の無い人には責任がない。ちょうど死刑執行人のようなものである。人は死んでも彼らは殺人罪に問われない。彼らには殺意という意思がないからである。意思の無い世界には、西洋流の責任も無い。イザヤ・ベンダサン=山本七平訳の<日本教について>の中で、日本語の責任について述べられています。

‘、、、、、「責任」という日本語には、「応答の義務を負う=責任(レスポンシビリティ)」という意味は全くないのみならず、「私の責任だ」といえば逆に「応答の義務がなくなる」のです。、、、、’ (引用終り)

‘兎角、この世は無責任’ という事か。

自己の意思を表せば、その人は当事者・関係者になる。表さなければ傍観者にとどまる。意思表示の無い日本人は常に傍観者にとどまっていて、孤高の人になっている。孤立無援になりやすい。わが国は、世界の中にあって、世界に属していない。蚊帳の外にいる。

日本人には罪がない。意思の無い人には罪がない。意思の無い人は能動がなくて、受動だけの生活をする。被害者意識はあっても、加害者意識がない。だから日本人は加害者意識が高じて体験する罪悪感に苛まれる体験がない。これはアニマルも同じです。だから、日本人には罪がない。罪を知らない日本人の大人をみると、実に恨めしい。恨めしやと化けて出たくなる。わが国では罪を指摘する人間は恨みの対象になる。罪の意識におびえる人たちが日本人に謝罪を勧めたらどうなるか。それは自虐行為の勧めと受け取られて恨みを買う事必定である。 日本人は罪を語らない宗教である神道・仏教の周辺に集まっている。とにかく、罪の匂いのするものは無意思の日本人の体質に合わない。それは陰気のもとになる。だから日本人は罪の話は嫌いです。罪の意識のない人には、病める魂もなく、その救済も必要としない。だから、贖罪の為の宗教 (キリスト教) も、わが国では力を持つに至らなかった。

戦後の占領軍のWGIP ( War Guilt Information Program: 戦争についての罪悪感を日本人の心に植え付けるための宣伝計画) という奇特な計画も見事に失敗しました。これは、アフガンに民主主義を植え付けようとするアメリカ人のようなものか。日本人に対する罪悪感の宣伝はカエルの面に小便の状態になったのです。罪の話は日本人の反感をかう。恨まれ憎まれる。WGIPがその例である。    

各人に哲学は必要である。Everyone needs a philosophy. 欧米人は哲学と意思により人間の行動を説明する。日本人には、哲学と意思がないので、人の行為を ‘建前と本音’ を使って説明する。建前は ‘口実・言い訳・言い逃れ’ である。本音は、’私意・我儘・身勝手 である。だから、日本人の説明は現実の中に行為がうずもれてしまい低俗な感じは避けられない。意思は未来時制の文章内容になるので意味があるが、恣意はバラバラの単語 (片言・小言・独り言) のままで存在するので意味がない。

 

>119日には、公営企業委員会に出席する予定だった木下氏。

>しかし、他議員が猛反発したことで、委員会は流会となった。

>会見ではこれについて 「仕事がしたくて議員継続を望んでいるにもかかわらず、仕事をさせてもらえないという現実が、先日の委員会開会拒否で明らかになりました。  

 

被害者意識オンリーの態度が明らかですね。彼女には判断力の半分が欠けている。生きてゆくのは難しい。   

 

>もちろん、議員の仕事は議会出席だけではございません。

>個別の政策の提案を都の方々におこなうことで、都民の皆さまのお役に立てることもございます。

>しかし、議員として十分に仕事をさせてもらえない、理不尽な現実に悩みました」と、他の議員の対応を批判。

>さらに同席した木下氏の代理人弁護士も 「仕事をサボっているのはどちらも同じと思えてなりません」

>「木下の議会での様子を見ていると、学校や職場で見られるいじめの構造と同じに思えてなりません」などと、“援護射撃”を繰り返した。

>「会見での質疑応答が長引くにつれ、手厳しい質問には苛立ちを隠せずにはいられなくなっていました。

>とくに11月の議員報酬を受け取る資格があると考えているのかと聞かれると、険しい表情で『そこまでのことは、まだ申し上げておりません』と“逆ギレ”していました」(同前)

>これには、ネット上でも多くの批判の声が寄せられている。

>《保身に必死な印象の不快な会見》

>《全ては自分の言動が招いたことなのに終始、他人のせいにしていた。

>議会によるイジメ発言もそもそも議会も有権者も木下が議員活動すること自体を認めていないのに何を言ってんだか》

>《他の都議から言わせれば、交通違反して事故を隠して都民を欺いた人間を同じ都議として認められないと思うのは当たり前》

>《何ヶ月も仕事をせずに税金から給料もらって批判されて逆ギレ》

>今後は「女性のため、子供たちのため、困った人のために力になりたい」と語った木下氏。

>まずは自分の犯した罪と向き合うことからではないだろうか。

 

そうですね。日本人が罪と向き合うのは難しい。     

 

 

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てんゆう氏  

2021-11-25 05:11:24 | 文化

 

>日本の教育の問題点はどこにあるのか >202092 2021225日てんゆう てんゆう

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>皆さんは「日本の教育は問題点が山積みだ」と言われているのはご存知でしょうか?  

 

それは皆さん知っているでしょうね。   

 

>グローバル化が進み、ITがどんどん発展している今の時代でも、実は日本の教育システムは約150年もの間ほぼ変化がありません。>日本は保守的な国で、世界を例にとってみても本当に微々たる変化しかしていないので、どんどん遅れをとっている状態なのです。

 

何事もお変わりのないことは良いことです。日本人の口癖ですね。      

 

>そこで今回の記事では、 >日本の教育の問題点はどこにあるのか >日本の教育と海外の教育の違い >日本の教育の問題点を改善するには >に焦点を当てて私の意見をまとめました。 >日本の学校教育システムなどに疑問を抱いている方、海外へ飛び出して世界を舞台に活躍したい、世界で学びたいと考えている方は是非読んでみてください。

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>日本の教育の問題点はどこにあるのか? >冒頭にも書きましたが、日本の教育は150年もの間、変化をしていないというのは本当のようです。

 

我々日本人は型に嵌るのが得意ですからね。    

 

>日本は戦前戦後、海外のさまざまな文化を取り入れて発展を遂げてきました。>そんな中でも150年も変わらない日本の教育システムがあります。 

 

そうですね。型に嵌るのが日本人の修行ですからね。    

 

>日本の教育の問題点その①「集団&受け身スタイル」   

>日本では集団教育や一方的な講義スタイルの授業が特徴的です。

>先生の授業をクラスの生徒全員で聞き、学期末にテストを実施し、その結果で成績を決めるというスタンスです。  

 

そうですね。わが国の教育はいわゆる物知りを作る教育ですね。   

 

>諸外国の教育方法とは全く異なる、常に生徒が受け身の姿勢となる教育です。  

 

日本人には意思がない。だから受け身があって自発がない。   

 

>授業は生徒が分からなくても勝手に進み、反対に分かっていても飛ばすことはできません。  

 

先生も生徒も型に嵌っていますね。   

 

>子供一人一人の能力を伸ばすよりも集団で足並みを揃えることに重点が置かれています。  

 

一糸乱れぬ集団作業が美しいとされています。人の振り見て我がふり直せですね。   

 

>このような集団&受け身スタイルの教育では個人個人の得意な分野や眠っている才能を開花させたり伸ばしたりすることが難しいと思われます。

 

そうですね。

 <日本はなぜ敗れるのか・敗因21か条> を著した山本七平の指摘する事例からも、大和民族自滅の過程は見て取れます。その一例を以下に掲げます。

私が戦った相手、アメリカ軍は、常に方法を変えてきた。あの手がだめならこれ、この手がだめならあれ、と。 、、、、、あれが日本軍なら、五十万をおくってだめなら百万を送り、百万を送ってだめなら二百万をおくる。そして極限まで来て自滅するとき「やるだけのことはやった、思い残すことはない」と言うのであろう。 、、、、、 これらの言葉の中には「あらゆる方法を探求し、可能な方法論のすべてを試みた」という意味はない。ただある一方法を一方向に、極限まで繰り返し、その繰り返しのための損害の量と、その損害を克服するため投じつづけた量と、それを投ずるために払った犠牲に自己満足し、それで力を出しきったとして自己を正当化しているということだけであろう。(引用終り)     

 

>日本の教育の問題点その②「偏差値重視の勉強」  >「入試に合格するため」または「偏差値が高い学校に入るため」の教育がまさしく日本スタイルです。 >偏差値や有名大学のブランドばかりを気にして、そこが最終目標のゴールと認識しており、そのゴールを目指すための勉強が日本では実施されています。>日本の親御さんや先生の多くは子供の志望校を選ぶ時も、偏差値を基準として判断し、偏差値重視で決定します。 

 

そうですね。日本語には階称 (言葉遣い: hierarchy) というものがある。だから日本語を発想する場合には、‘上と見るか・下と見るか’ の世俗的な判断が欠かせない。上下判断 (序列判断) には、通常、勝負の成績が用いられる。近年では偏差値なども都合の良い資料として利用されている。だから難関出身者たちが社会で幅を利かせている。わが国が学歴社会であるというのも、実は序列社会の言い換えに過ぎない。だから、わが国の学歴社会は学問の発展には何ら貢献していないことを知っている必要がある。      

日本人の礼儀作法も、序列作法に基づいている。だから、序列社会の外に出たら序列なきところに礼儀なしになる。礼儀正しい日本人になる為には、世俗的な序列順位を心得ている必要がある。'人を見損なってはいけない' という想いが強迫観念の域に達していて、人々は堅ぐるしい日常生活を送っている。こうした観念は天皇制・家元制度・やくざの一家の構造にまでつながっている。

日本人は序列の存在を知れば、それが一も二も無く貴いものであると信ずる共通の序列メンタリティを有している。その程度は序列信仰の域に達している。日本人の尊敬は、序列社会の序列順位の単なる表現に過ぎないため、個人的精神的には意味がない。下々の衆は上々の衆の祟り (仕返し) を恐れて神妙にしている。上々が無哲学・能天気である事については、下々にとって何ら気になることではない。だから、日本人の尊敬には浅薄さが付きまとう。   

日本人の政治家にも、政治哲学がない人が多い。だから、我々の未来社会の有様を相手に言って聞かせる術がない。それは非現実 (考え) の内容を盛り込むための構文が日本語に存在しないからである。序列人間は人間の序列を作っていて、上位の者 (先輩) と下位の者 (後輩) の間に自分を差し挟むことにより自分たちの存在を確認し合っている。だから、自己の所属する序列に並々ならぬ帰属意識を持っていて義理 (序列関係から生じる義務) を果たすことに懸命になる。そして、この種の仕事にやりがいを感じている。無哲学と序列メンタリティの相乗作用により派閥政治は無くならない。周囲の序列仲間が自分たちの序列に対する貢献度を評価する。これにより自己の順位は上昇する可能性がある。それが日本人の人生における楽しみである。だが正一位の獲得は難しい。    

我が民族の序列メンタリティは国がひっくり返った後にも変わりませんでしたね。新憲法の前文には、 ‘・・・・・国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思う。’ と高らかに宣言しています。地位とは国際社会の序列順位の事で、国際問題に関する問答には関心を持たずにひたすら順位の向上を待ち続ける奇異な民族の代表として存在します。序列メンタリティが邪魔になって問答ができないのか、問答ができないために序列メンタリティから離れられないのか。英語の習得力が不十分なためか。  

 

>その子供の個性を見るのではなく、偏差値を基準として学校選びをするという現状です。 >試験で成績や点数の高かった生徒が「優秀なすばらしい生徒」と考えられているため、試験で高い点数を取るための教育を保護者も求めているのです。 >このような教育スタイルでは子供の個性が重視されず、試験のため、偏差値のための勉強という、本来の「自ら学ぶ」という勉強の姿勢からはかけ離れているという意見もあります。 

 

そうですね。日本人には意思 (will) がない。意思は英語の未来時制の文章内容であるが、日本語の文法には時制 (tense) というものがないので、日本人には意思がない。

意思のあるところに方法 (仕方) がある。Where there's a will, there's a way. 日本人には意思がない。仕方がないので無為無策でいる。おとなしい。優柔不断・意志薄弱に見える。能動がなくて受動ばかりの生活を送っている。だから戦時中は、玉砕するまで戦い抜いた日本兵であった。困った時には '他力本願・神頼み' になる。生きる力 (vitality) が不足している。

 ' やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かず' 山本五十六 (やまもと いそろく)

どうやら '指示待ち人間' ができあがったようですね。   

日本人には意思がない。だから意思決定はできない。意思決定が必要な時は、恣意決定に頼ることになる。つまり、事の次第・自然の成り行きで決着をはかる。このやり方は、アニマルも同じである。

恣意 (私意・我儘・身勝手) はバラバラな単語のままで存在するから文章にならない。だから、意味というものがない。行為・言動の本人にその説明責任はとれない。恣意の人間は指導者になっても権力は持たせられない。人人はできるだけ権力の少ない指導者を望んでいる。すると、指導者は床の間の置物のようなものになる。彼の唯一の業績は '任期中に何もしなかった' ことであると任期終了時にいわれている。  

日本人はなれ合っている。なれ合いとは、真の意味での検討や意見の交換などをせず、お互いに「なあ、いいだろう」ぐらいの話し合いで全てを済ませること。日本人には、恣意疎通 (阿吽の呼吸・つうかあの仲) があって、意思疎通 (相互理解) がない。恣意 () の探り合い (談合) があって、意見の交換 (議論・対話) がない。恣意決定 (盲目の判断) があって、意思決定 (理性判断) がない。だから、日本人の責任者は説明責任が取れない。無責任でしかない責任者の権力はできるだけ小さいほうが良いので、日本人は権力の所在についての考えがない。

カレル・ヴァン・ウォルフレン氏は、<日本/権力構造の謎>の中の <とらえどころのない国家> で、次の段落のように述べています。

国会両院以外に、国家の中核として権力を持っているらしく見える組織は、官僚と大企業である。だが、この両者のどちらにも、究極的な権力はない。ボスはたくさんいるが、ボス中のボスといえる存在はないし、他を統率するだけの支配力のあるボス集団があるわけでもない。…… どの国についても、国家の実態をとらえるのは容易ではないが、日本の場合はとくに、バケツの中のウナギを素手でつかまえる、ということわざのたとえそのものである。指令の流れる経路、責任の中心、見え隠れする政策決定上の実際の動きなどが、すべて気が変になるほど、とらえどころがない。(引用終り)

日本人の未来は一寸先が闇である。危険が一杯である。だから、お変わりのないことが何よりなことである。ノー・アイディアで暮らすことに不便を感じない。 

 自由とは、意思の自由の事である。だが、日本人には意思がない。恣意 (私意・我儘・身勝手) の自由は何処の国でも認められていない。恣意の自由は ‘自由のはき違え’ になって許されない。だから、’不自由を常と思えば不足なし’ となって、日本人の生活は以前の生活と変わることがない。  

日本人には意思がない。意思の無い人には責任がない。ちょうど死刑執行人のようなものである。人は死んでも彼らは殺人罪に問われない。彼らには殺意という意思がないからである。意思の無い世界には、西洋流の責任も無い。イザヤ・ベンダサン=山本七平訳の<日本教について>の中で、日本語の責任について述べられています。

‘、、、、、「責任」という日本語には、「応答の義務を負う=責任(レスポンシビリティ)」という意味は全くないのみならず、「私の責任だ」といえば逆に「応答の義務がなくなる」のです。、、、、’ (引用終り)

‘兎角、この世は無責任’ という事か。

自己の意思を表せば、その人は当事者・関係者になる。表さなければ傍観者にとどまる。意思表示の無い日本人は常に傍観者にとどまっていて、孤高の人になっている。孤立無援になりやすい。わが国は、世界の中にあって、世界に属していない蚊帳の外。

日本人には罪がない。意思の無い人には罪がない。意思の無い人は能動がなくて、受動だけの生活をする。被害者意識はあっても、加害者意識がない。だから日本人は加害者意識が高じて体験する罪悪感に苛まれることがない。これはアニマルも同じです。だから、日本人には罪がない。罪の意識におびえる人たちが日本人に謝罪を勧めたらどうなるか。それは自虐行為の勧めと受け取られて恨みを買う事必定である。 日本人は罪を語らない宗教である神道・仏教の周辺に集まっている。とにかく、罪の匂いのするものは日本人の体質に合わない。それは陰気のもとになる。だから日本人は罪の話は嫌いです。罪の意識のない人には、病める魂もなく、その救済も必要としない。だから、贖罪の為の宗教 (キリスト教) も、わが国では力を持つに至らなかった。

戦後の占領軍のWGIP ( War Guilt Information Program: 戦争についての罪悪感を日本人の心に植え付けるための宣伝計画) という奇特な計画も見事に失敗しました。これは、アフガンに民主主義を植え付けようとするアメリカ人のようなものか。日本人に対する罪悪感の宣伝はカエルの面に小便の状態になったのです。 

各人に哲学は必要である。Everyone needs a philosophy. 欧米人は哲学と意思により人間の行動を説明する。日本人には、哲学と意思がないので、人の行為を ‘建前と本音’ を使って説明する。建前は ‘口実・言い訳・言い逃れ’ である。本音は、’私意・我儘・身勝手 である。だから、現実の中に行為がうずもれてしまい低俗な感じは避けられない。意思は未来時制の文章内容になるので意味があるが、恣意はバラバラの単語 (片言・小言・独り言) のままで存在するので意味がない。

 

>日本の教育の問題点その③「暗記学習に重点」  >日本の教育では「記憶する学習」=「暗記学習」に重点を置いているため、勉強内容は暗記することがほとんどで、子供が自ら考えたり疑問に思ったり、提案したりする能力が伸びないと言われています。>暗記する項目の背景や経緯などはあまり触れることは無く、ただそれを大量に覚えれば良いというスタンスです。  

 

日本人は思考を停止している。だから、知識を増やすためには暗記しかない。かくして受け売り専門の人となる。    

イザヤ・ベンダサンは、自著<ユダヤ人と日本人>の中で、我が国の評論家に関して下の段落のように述べています。

評論家といわれる人びとが、日本ほど多い国は、まずあるまい。本職評論家はもとより、大学教授から落語家まで (失礼! 落語家から大学教授までかも知れない) 、いわゆる評論的活動をしている人びとの総数を考えれば、まさに「浜の真砂」である。もちろん英米にも評論家はいる。しかし英語圏という、実に広大で多種多様の文化を包含するさまざまな読者層を対象としていることを考えるとき、日本語圏のみを対象として、これだけ多くの人が、一本のペンで二本の箸を動かすどころか、高級車まで動かしていることは、やはり非常に特異な現象であって、日本を考える場合、見逃しえない一面である。 (引用終り)    

  

>英語に関しても同じことが言えて、スピーキングやリスニングよりも文法から学ぶことに重点を置いています。 >日本史についても同じです。「〇年〇月に○○の乱」が起こったという事実を覚えることが先行し、その背景や何故そのような事になったのか、それで日本はどう変わったのか、などはほとんど勉強しません。 >日本の教育ではテストの点数を上げることが一番重要とされているので、テストのために全て丸暗記してテストに備えるという学習方法なのです。

>これではテストが終われば忘れてしまうことが多く、社会人になった時には学校で学習した事はほとんど覚えていない(役に立たない)という結果になってしまうのです。 

 

残念ながら日本人の勉強は学問につながっていませんね。単なる処世術 (損得勘定) に過ぎないのです。人間序列形成の一過程に過ぎないのです。      

 

>日本の教育と海外の教育の違い  >海外の教育スタイルは、日本の教育とは大きく異なります。 >1つ例を言えば、アメリカなどでは日本には存在しない「飛び級」ができる制度があったりしますよね。 

 

年功序列の社会に飛び級は歓迎されませんね。それはずるい処世術になります。        

 

>それぞれの国の教育スタイルは背景に宗教や文化などが大きく影響しており、日本が丸ごとマネをすることが不可能な部分もありますが、参考になる部分などはたくさんあります。  

 

外国には猿真似の通用しない風習が多くありますね。     

 

>参加型の授業形式  >授業形式で言うと、海外では日本と違い「生徒参加型の授業」が一般的です。 >小学生でも全員の前に一人で立ち自分の意見をプレゼンテーションして、その後クラスメイトとディスカッションします。 >そうやって自ら発信する力をつけ、自分という人物に自信を持つことができるのです。 >海外では日本のように先生が前に立ってずっと話をしているのをノートにとるという一方通行的な授業スタイルではありません。 >日本のような授業スタイルでは子供が自ら発信する力が全く養えませんし、意見交換もできません。 >その子がこの内容についてどう思っているのか、この内容の疑問点はどこなのか、みんなはどう感じているか、先生もそれを把握できないまま流れるように授業だけが進んでしまうことが懸念されます。 

 

日下公人氏は、<よく考えてみると、日本の未来はこうなります。> の中で、日本人に関するW.チャーチルの感想を以下のごとく紹介しています。

日本人は無理な要求をしても怒らず、反論もしない。笑みを浮かべて要求を呑んでくれる。しかし、これでは困る。反論する相手をねじ伏せてこそ政治家としての点数があがるのに、それができない。

 それでもう一度無理難題を要求すると、またこれも呑んでくれる。すると議会は、今まで以上の要求をしろと言う。無理を承知で要求してみると、今度は笑みを浮かべていた日本人が全く別人の顔になって、「これほどこちらが譲歩しているのに、そんなことを言うとは、あなたは話のわからない人だ。ここに至っては、刺し違えるしかない」と言って突っかかってくる。

 英国はその後マレー半島沖で戦艦プリンスオブウェールズとレパルスを日本軍に撃沈され、シンガポールを失った。日本にこれほどの力があったなら、もっと早く発言して欲しかった。日本人は外交を知らない。(引用終り)   

 

>「不得意な事」よりも「得意な事」に注目する教育  >誰にでも得意、不得意はあります。>子供も算数の掛け算は苦手だけれど、図形問題は得意など・・ありますよね?  

 

得意も不得意も個性の中にありますね。   

 

>海外では「○○が出来ていない」ということよりも「この子は○○が得意で優れている」ということに注目します。 >出来ない事よりも、得意な優れた能力をさらに伸ばすことに注視します。 >日本とは少し違うと思いませんか? >日本では「出来ない、苦手なこと」をマイナス評価される傾向がありますよね。

 

日本人は減点法ですね。揚げ足取りに専念していますね。他人を潰すことにより自分の相対的な順位が上がるという計算ですね。          

 

>マイナス評価されるのを避けるために勉強します。 

 

苦手なことの学習は能率が悪いですね。得手に帆を揚げる学習は楽しくて能率が上がります。      

 

>不得意で苦手なことも、全く出来ないでいると困ることもあるかもしれませんが、それよりも海外のようにその子の得意なことをさらに伸ばしていく、やりたいことをさらに追及していく方が良いと思いませんか?  

 

そうですね。その方向が正しいですね。   

 

>個性を生かすことに重きを置いた教育をすることが海外では実施されています。

 

日本人は没個性ですからね。型に嵌ることが大切です。    

 

>【まとめ】日本の教育の問題点を改善するには?   >日本の教育はこれからどう変化していくべきなのでしょうか。 >センター試験が廃止され、小学校では英語が科目として導入されるなど、日本の教育も少しずつ変わりつつあります。 >ですが、偏差値重視の教育制度や暗記型学習、受け身スタイルの授業、将来使えない英語の授業など、まだまだ改善すべきことはたくさんあるように感じます。 >一流の大学に行き、一流企業に就職すれば一生安泰という固定概念は問題です。

 

そうですね。日本人の活動には儀式 (作法) があって教義 (教え) がない。だから、儀式に囚われて変革ができない。       

 

>一流大学を出て一流企業に勤めたとしても、その一流企業は突然、破綻してしまうかもしれないという時代なのです。 >実際に「2020世界の会社時価総額ランキングTOP50では日本の企業は僅か1社(トヨタ自動車)しか入っていません。 >もはやこれからの時代、日本だけを視野に入れていてはいけないような気がします。

 

そうですね。我々日本人は井の中の蛙ではいられませんね。   

 

>海外の教育制度を受け入れ、それを日本スタイルに変えて取り入れることが重要なのではないでしょうか。   

 

そうですね。 我々日本人は日本語と英語の両言語を良く学び、思考における時制の大切さを十分に理解する必要がありますね。英語にある時制 (tense) を使った考え方を会得すれば、我々は自己の意思 (will) を明らかにすることも可能になるし、自分自身の世界観 (world view) を持つことも出来ます。さすれば我々は国際社会において相手の理解も得られ、未来社会の建設に協力することも可能になります。かくして、我々日本人は、人類の進歩に一層の貢献が可能になるでしょう。  

 

『有能な人材が世界から日本に集まり、ここで世界に向けてサクセスストーリーが生まれるという国家を目指すべきです。 このための具体的な政策課題として (1)英語を第2公用語にする (2)定住外国人に地方参政権を与える (3)インターネットの接続料はじめ知的生産活動の基本コストを諸外国並みにする (4)日本の制度やシステムの中で国際基準と合致しないものを一括して見直す―の4点を提案したいと思います。』 (茂木敏充外務大臣)   

 

>海外の教育制度のように、子供が「自ら学習したい」という意欲を高める指導の方法にして、個性を生かした教育を重視する。 >子供たちの多様性を理解し、それぞれ一人一人の可能性を伸ばす教育がこれからは必要なのではないかと私は感じます。 

 

日本人には個人主義 (individualism) の理解が必要ですね。    

 

>航空業界で働く夢をかなえてみませんか?

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>この記事を書いた人 >てんゆう

>てんゆう >世界中を飛びに飛び回っていた元添乗員の関西人「てんゆう」です。  >学生時代に1年の海外留学で14㎏太った経験あり。 >海外の情報や留学の悩み・英語学習のことなど何でも私にお任せあれ。>エスニック大好きで近年はアジアにどっぷりハマリ中。      

 

結構な暮らしぶりですね。    

 

 

 

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おおたとしまさ氏  

2021-11-24 21:47:47 | 文化

>中学受験「いい大学へ行くため」の考えが危ない訳 >歯止めがきかない中学受験過熱の背景 >次ページ » >おおたとしまさ : 育児・教育ジャーナリスト  >著者フォロー >2021/11/17 12:00

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>受験生の負担は3割から5割増し  >中学受験が過熱している。 >特に最難関校を狙う受験生の負荷は年々増している。 >ある大手塾講師は「6年生の内容が、この数年で3割増しから5割増しになっている」といまの状況を危惧する。 >なぜそこまでして最難関校を目指さなければならないのか。  

 

我が国では難関の出身者が訳も無く尊敬されていますからね。    

 

>拙著『なぜ中学受験するのか?』でも詳しく解説しているが、背景には、東大合格者数ランキング上位校の顔ぶれに男子私立中高一貫校が多いことから、東大に合格するようなノウハウが、これらの学校の中だけに門外不出で蓄積されているのではないかという早とちりもあるようだ。 >しかしこれは、歴史的経緯の結果でしかない。 >東大の合格者数は毎年約3000人。 >3000脚の椅子取りゲームに例えられる。

>どこかの学校が合格者を増やせばどこかの学校が減らす。 

 

ゼロサム・ゲイムですね。  

 

>これが大規模に起きたのが、1967年の都立高校による学校群制度導入だった。 >1960年代までは、日比谷高校をはじめとする都立高校が東大合格者数ランキング上位を寡占していた。 >東大合格者が一部の都立名門校にあまりに偏るのを解消する目的で、都立高校の入試に学校群制度が導入された。 >受験生が選択できるのは複数の学校で構成される「学校群」までで、仮に入試に合格しても、その学校群の中のどの学校に割り振られるかがわからないしくみにしてしまったのだ。 >たとえば日比谷高校は三田高校と九段高校と同じ学校群になった。 >その学校群の入試に合格しても、日比谷高校に入れる確率は3分の1しかない。 >それを嫌って、特に学力上位層が、都立高校を避け私立中高一貫校を選ぶようになったのだ。

 

それは処世術 (損得勘定) の問題ですね。教育の努力が学問につながらないところが問題ですね。問題の根本原因を考えることなく小手先の対応に終始するところが日本人の情けないところですね。          

 

>効果はてきめん。 >1970年代半ばにはトップ10から都立高校の名前が消えた。 >代わりに浮上したのが私立中高一貫校だった。 >先の大学入試改革しかり、いわゆる「ゆとり教育」の右往左往しかり、良かれと思って打った施策が見事に裏目に出ることがある。 >施策の利点ばかりを強調し、副作用を抑える策を講じていないからだ。

 

日本人社会の序列順位の競争が根底にあるからですね。この原因除去が肝心なところですね。       

 

>東京都の学校群制度は1982年に廃止されたが、一度できてしまった流れは変えられなかった。 >1990年代には私立高校からの東大合格者総数が公立高校のそれを追い抜き、みるみる差を広げていった。 >「大学進学には私立のほうが有利」という印象が世に広まったのも、このころからである。 >東大は昔からお金持ちが通う大学だった  >東大生の出身家庭の年収の高さが話題になることがときどきある。 >そこから「私立に行くお金があるから東大に合格できるのだ」と解釈される言説も見かける。 >しかしこれも結論を急ぎすぎである。 >教育社会学者の苅谷剛彦氏は『大衆教育社会のゆくえ』(中公新書)で、数々のエビデンスを示しながら、「私立の6年制一貫校の普及によって、東大入学の階層的な閉鎖性がはじめて作り出されたというわけではないのである。 >私立高校が優勢になる以前から、専門・管理職の子弟たちは、日比谷や西などの公立高校を経由して、やはり東大にたくさん入学していた」ことを明らかにしている。 >私立が人気になるずっと前から、もともと東大という大学は、「上層ノンマニュアル(医師、弁護士、大学教授などの専門職や、大企業、官公庁の管理職、および中小企業の経営者など)」と呼ばれる特定階層の子弟が集まりやすい大学だったのだ。 >東大合格者に男子校出身者が多い理由も単純だ。 >もともと東大合格者に占める女子比率は異常に低い。 >2021年に初めて2割を超えたという程度。 >これが社会に根強いジェンダー・バイアス(無意識の性差別)によるものであると考えられる。 

 

人間の序列は同次元の比較によるものでなければ公平性が保てない。だから、男組・女組となる事が多い。男女七歳にして席を同じゅうせずか。スポーツ競技で男子と女子は別の比較なっている。  

 

>だから女子校のトップ10入りは、1994年の桜蔭が初めてだったし、以後も桜蔭以外の女子校は一度もトップ10に入っていない。 >一方で、前述の通り、1960年代半ばまでは都立高校が上位を寡占していた。 >実際の合格者の大半は男子ではあったが、形式上、これらはすべて共学校である。 >そのままであれば男子校が有利とはいわれなかったはずだが、学校群制度によって都立共学校がランキング上位から姿を消した。 >都立共学校が勝手に沈んでいったあと、ふるいの上の砂利のような形で残ったのが、男子中高一貫校だったというだけの話である。 >難関大学の合格者の多くが一部の有名私立中高一貫校出身者で占められてしまうことも問題だが、むしろ私が根本的に問題だと思うのは、このような有名私立中高一貫校の生徒たちの進路に多様性が乏しいことだ。>これは日本式エリートの呪縛といえる。

 

同次元序列の励行によるエリートの呪縛ですね。

 

>「腐っても東大」「腐っても旧帝大」の悪循環  >毎年3月中旬に、東大合格者数ランキングを速報する週刊誌は売れる。 >東大に対するただならぬ国民感情の表れと見ていいだろう。

 

日本人は煮ても焼いても序列人間ですからね。    

 

>明治につくられた日本の学校制度は、全国で唯一の大学であった原初の「東大」に、全国から選りすぐりの秀才を集めるネットワークとして構築された。 >現在では全国に約700の大学があるが、なかでも東大には特別な感情を抱いてしまうDNAのようなものを私たちがもっているのはそのためだ。

 

英国の教育専門誌のタイムズ・ハイヤー・エデュケーション (THE) 2022年版によれば東大は35位でした。世界ジェンダー・ギャップ報告書によれは、日本のGGI (Gender Gap Index) は156か国中120位でした。大学の国際的ランクの低さと女子の社会進出の低さはわが国の後進性DNAを表していますね。    

 

>美しい花はほかにもたくさんあるのに、なぜか桜に特別な感情を抱いてしまうのと、どこか似ている。

 

それは日本人の帰属意識によるものですね。序列を見れば尊さを感じるようなものでね。

 

>春になるとつい東大合格者数ランキングを見てしまうのは、文字通りの風物詩なのである。 >さらにそれを教育行政が実の部分で維持してしまう。 >大学運営のために国が支出する予算は、国立大学86校に対して年間約11000億円であるのに、私立大学615校に対してはたったの約3000億円だ。>国立大学の中でも、いわゆる旧帝国大学と呼ばれる名門大学に配分が偏る。

 

官尊民卑ですね。我が国とは対照的に米国には国立大学はありませんね。   

 

>「腐っても東大」「腐っても旧帝大」と言わんばかりの社会的バイアスが、中高生の進路選択にいまだ強い影響力をもっている。

 

そうですね。日本人の序列思考は信仰の域に達して頭の奥にまで焼き付いていますね。   

 

>人生を不幸にする「受験エリートの落とし穴」 >“いい学校“を目指すのは人生の選択肢を増やすためだと言うひともいるが、私はあまり賛同できない。 >“いい学校“に行けば、たしかに就ける職業の種類が増えたり、就活の書類選考で有利になったりはするかもしれない。>しかしそのために努力を重ねて“いい学校”に入ったとすると、それによって増えた選択肢の差分からしか人生を選べなくなることがある。>無限にあったはずの人生の選択肢をむしろ減らしてしまう。

 

そうですね。個性・専門性を生かすことのない人生になりますね。    

 

>私はこれを「受験エリートの落とし穴」と呼ぶ。 >中学受験だけでなく、地方の高校受験や大学受験でも見られる。 >選択肢が少ないぶん、地方のほうがシビアな面もある。 >この理屈で中学受験を始めると、望みの学校に合格できたとしても、「せっかく□□中学校・高等学校に来たのだから、できれば東大・京大、最低でも早慶くらいには進学しなければ」という呪縛に囚われる。

 

俄然話が小さくなりますね。   

 

>自分の選択未満の選択肢を選んだひとたちのことを、無意識で自分未満だと見下す視点をもってしまう危険すらある。 >そんな貧しい人生観を身につけてしまったら、たとえ経済的にどんなに成功したとしても、豊かな人生など送れるはずがない。

 

そうですね。   

日本語には階称 (言葉遣い: hierarchy) というものがある。だから日本語を発想する場合には、‘上と見るか・下と見るか’ の世俗的な判断が欠かせない。上下判断 (序列判断) には、通常、勝負の成績が用いられる。近年では偏差値なども都合の良い資料として利用されている。だから難関出身者たちが社会で幅を利かせている。わが国が学歴社会であるというのも、実は序列社会の言い換えに過ぎない。だから、わが国の学歴社会は学問の発展には何ら貢献していないことを知っている必要がある。      

日本人の礼儀作法も、序列作法に基づいている。だから、序列社会の外に出たら序列なきところに礼儀なしになる。礼儀正しい日本人になる為には、世俗的な序列順位を心得ている必要がある。'人を見損なってはいけない' という想いが強迫観念の域に達していて、人々は堅ぐるしい日常生活を送っている。こうした観念は天皇制・家元制度・やくざの一家の構造にまでつながっている。

日本人は序列の存在を知れば、それが一も二も無く貴いものであると信ずる共通の序列メンタリティを有している。その程度は序列信仰の域に達している。日本人の尊敬は、序列社会の序列順位の単なる表現に過ぎないため、個人的精神的には意味がない。下々の衆は上々の衆の祟り (仕返し) を恐れて神妙にしている。上々が無哲学・能天気である事については、下々にとって何ら気になることではない。だから、日本人の尊敬には浅薄さが付きまとう。   

日本人の政治家にも、政治哲学がない人が多い。だから、我々の未来社会の有様を相手に言って聞かせる術がない。それは非現実 (考え) の内容を盛り込むための構文が日本語に存在しないからである。序列人間は人間の序列を作っていて、上位の者 (先輩) と下位の者 (後輩) の間に自分を差し挟むことにより自分たちの存在を確認し合っている。だから、自己の所属する序列に並々ならぬ帰属意識を持っていて義理 (序列関係から生じる義務) を果たすことに懸命になる。そして、この種の仕事にやりがいを感じている。無哲学と序列メンタリティの相乗作用により派閥政治は無くならない。周囲の序列仲間が自分たちの序列に対する貢献度を評価する。これにより自己の順位は上昇する可能性がある。それが日本人の人生における楽しみである。だが正一位の獲得は難しい。    

我が民族の序列メンタリティは国がひっくり返った後にも変わりませんでしたね。新憲法の前文には、 ‘・・・・・国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思う。’ と高らかに宣言しています。地位とは国際社会の序列順位の事で、国際問題に関する問答には関心を持たずにひたすら順位の向上を待ち続ける奇異な民族の代表として存在します。序列メンタリティが邪魔になって問答ができないのか、問答ができないために序列メンタリティから離れられないのか。英語の習得力が不十分なためか。  

 

>迷ったら「なぜ中学受験するのか?」を考える  >ますます勢いを増す中学受験の大きなうねりの中で、「本当にこれでいいのだろうか?」と疑問をもつご家庭は少なくない。 >私も、「中学受験のメリットとデメリットは何か?」と聞かれることは多い。 >申し訳ないが、私の答えはいつも、にべもない。 >「中学受験の何をメリットと感じるか、何をデメリットと感じるかにそのひとの教育観、幸福観、人生観などの価値観が表れる」である。 

 

 国民が思考を停止している国にはどのような特徴があるでしょうかね。

'どのような状況にも普遍的に通用する真理や法則、基本概念や倫理がありうるという考え方が、日本にはほとんど存在しない。' (カレル・ヴァン・ウォルフレン)    

周りの影響を受けずに、真に独立した考えができる知識人がいない。 ( グレゴリー・クラーク)

'日本人は政治にそれほど関心がないのに政府に依存し、国からの発言を待っている。'  (ウスビ・サコ)   

 

>結婚のメリットとデメリットを尋ねられても一般論としては答えようがないのと同じだ。 >ただし少なくとも私の考えでは、中学受験をするのは、“いい学校”に行って“勝ち組”になるためではない。 >一部の“勝ち組”だけでなく、誰にとっても得られるものがある。 >それが何なのかを問い続けることが大切だ。

 

そうですね。     

言語は伝達の手段であるばかりでなく、思考の重要な手段でもあります。ですから我々の考えの疎かな所は日本語のせいであることもあります。   

非現実 (考え) の内容は、英語の時制のある文章により表される。非現実の内容はそれぞれに独立した三世界 (過去・現在・未来) の内容として表される。その内容は世界観 (world view) と言われている。これらの三世界は時制により構文が異なるので、同次元で語ることができない。それで独立した三世界になっている。この規則を the sequence of tenses (時制の一致) と呼ぶ。日本人の初学者が英論文を書くときに難渋する規則である。 

世界観は、人生の始まりにおいては白紙の状態である。人生経験を積むにしたがって、各人がその内容を自分自身で埋めて行く。自己の 'あるべき姿' (things as they should be) もこの中にある。来るべき世界の内容を語ることは、時代を先取りすることである。

自己のその内容 (非現実) を基準にとって現実 (things as they are) の内容を批判 (縦並びの比較) すれば、批判精神 (critical thinking) の持ち主になれる。批判精神のない人の文章は、ただ現実の内容の垂れ流しになる。全ての事柄は他人事になる。これは子供のようなものである。日本人も英米人も子供の時には非現実 (考え) の内容というものがない。だから ‘話を告げる’ (to tell a story) ということは、’作り話をする’ とか ‘嘘を吐く’ という風に受け取られて悪い子供とされている。この判定がわが国では一生涯続く。

日本語の文法には時制がない。だから、日本人には世界観がない。そして、日本人には批判精神がない。残念ながらマッカーサ元帥の '日本人12歳説' を否定できる人はいない。  

意見は比較の問題である。現実の内容と非現実の内容があれば批判精神が発揮できる。英米人の意見はこれである。これは縦並びの比較ということができる。建設的である。進歩が期待できる。希望が持てる。現実の内容だけであれば、その比較は '現実' '現実' の上下判断 (横並びの比較) になり、'どっちもどっちだ' がある。無力感に苛まれる。この種の比較は復讐に復讐を重ねる民族同士の争いの原動力にもなっていて進歩が期待できない。

非現実の内容は人様々である。非現実の内容がなければあるのは現実だけで、その正解は一つである。日本人がともすれば異口同音の内容を語るのはこのためである。    

わが国のマスコミも現実の内容をただ垂れ流す。個人の価値判断が抜け落ちている。現実の正解はただ一つであるから、どんぐりの背比べで個性がない。それで、日本人は個人主義が何であるかを理解することが難しい。本人にも相手にも何を考えているのかわからない。だから、誰からも信頼されない。世界観に基づく協力者が得られないので社会に貢献する度合いが限られる。  

イザヤ・ベンダサンは、自著 <日本人とユダヤ人> の中で ‘自らの立場’ について以下のように述べています。   

何処の国の新聞でも、一つの立場がある。立場があるというのは公正な報道をしないということではない。そうではなくて、ある一つの事態を眺めかつ報道している自分の位置を明確にしている、ということである。 読者は、報道された内容と報道者の位置の双方を知って、書かれた記事に各々の判断を下す、ということである。 ・・・・日本の新聞も、自らの立場となると、不偏不党とか公正とかいうだけで、対象を見ている自分の位置を一向に明確に打ち出さない。これは非常に奇妙に見える。 物を見て報道している以上、見ている自分の位置というものが絶対にあるし、第一、その立場が明確でない新聞などが出せるはずもなければ読まれるはずもない。・・・・・ (引用終り)    

 

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>中学受験に関する相談を受けていると、「なぜ中学受験するのか?」に立ち戻ることで解決の方針が見えてくる場合が少なくない。>逆に言えば、なぜ中学受験することにしたのかを忘れてしまうから、あるいはそもそもその問いを突き詰めて考えていなかったからこそ、中学受験の大きなうねりにのみ込まれてしまうのだ。>いくら「なぜ中学受験するのか?」を考えても、偏差値を上げる方法やお得な進路がわかるわけではない。  

 

そうですね。手段の目的化が起こると毎日の励みが苦痛でたまりませんね。   

 

>でも、できるだけ高い視点から中学受験の意義をとらえ胸に刻み込んでおけば、不安にさいなまれたときにも慌てずに、自分たち親子にとっての本質的な優先順位を思い出し、ちまたの中学受験本をいくら読んでも見つけられない、自分たちだけの解決策を見いだすことができるようになるはずだ。>結果として、子どもの最高のパフォーマンスが引き出される可能性はある。 

 

各人に哲学は必要である。Everyone needs a philosophy.   

 

>教育に関する選択に、正解はない。 >つまり、不正解もない。 >大切なのは、自分の選択の意味を正しく理解することだ。   

 

そうですね。すべての考えは文章になる。文章にならないものは考えではない。

矛盾を含まない文章は、全て正しい考えを示している。だから、正解は一つではない。考えは人様々である。だから、正解は幾らでもある。      

 

 

 

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