gooブログはじめました!

日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

勉強

2020-07-03 05:28:24 | 教育

 

> 358101 勉強って本来どういう意味?学習との違い① >前野将克 ( 22 会社員 )  20/07/02 AM10 

>勉強することが当たり前の現代。> 勉強が嫌いな人は多いと思います。> 僕自身もそうでした。

 

それは学習教育の方法が適当でないからでしょうね。普通、子供は学習意欲が旺盛なものですからね。子供の知識は遊びにより増大しますね。遊びは創意工夫の時間でしょうね。

 

>では、そもそも勉強の語源は何なのでしょうか。

> 以下リンクより引用

>■勉強

> 【意味】勉強とは、学問や技芸を学ぶこと。経験を積んで学ぶこと。商品を値引きして安く売ること。物事に精を出すこと。努力すること。 > 【語源・由来】勉強は「勉(つとめ)強(しいる)」で、本来は気が進まないことを仕方なくする意味である。> 商人が頑張って値引きをする意味の「勉強」は、学問や技芸を学ぶ意味の「勉強」よりも古く、江戸時代から使用されている。 > 明治時代以降、知識を得るために努力することが美徳とされるようになったことから「勉強」は「学習」とほぼ同じ意味で使用されるようになり、一般的に「学習」を意味するようになった。

 

べんちゃん’ (勉強) の意味は中国人も理解しているらしく、私が学習のことを ‘べんちゃん’ と言うと彼らはニヤニヤしている。きっと面白い発想だと思っているに違いない。漢字文化圏はまだ生きていますね。

 

>358102 勉強って本来どういう意味?学習との違い②  >前野将克 ( 22 会社員 )  20/07/02 PM00 

>勉強の語源は「勉(つとめ)強(しいる)」つまり、本来は気が進まないことを仕方なくする事でした。 > 多くの人が嫌いになるのも当たり前ですね。

 

古い考えでは、‘艱難汝を玉にす’ ということになりますね。

 

>そしてこの「勉強」が、いつの間にか「学習」と混同してしまいました。

 

そうですね。両者は、似ていて非なるものですね。

 

>では、「学習」とは本来どのような意味なのでしょうか。>また、勉強との違いはどこなのでしょうか。

> 以下リンクより引用

> 「学習」 とは,漢字を分解すれば,「学び」 「習う」 ことです。

 

共産中国でも ‘学習’ (しえしゅう) は流行りましたね。

 

> では,「学ぶ」 とはどういう行為,「習う」 とはどういう行為なのだろうか? > 簡潔に言えば,「人のまねをして,慣れる」 行為なのです。 >  「学ぶ」 は,もともとは 「まねぶ」 であり,「真似ぶ」 こと,つまりほかの人がすることを真似することを言ったことばでした。

 

そうですね。

 

>  古語辞典にも,「まなぶ」 「まねぶ」 の両方の見出し語があり,どちらも 「学ぶ」 の漢字が載っています。 >  一方,「ならう」 も,『広辞苑』 には,「ならう (習う) 「ならう (慣らう 倣う) が見出し語として並記されていますが,どちらも同源の語と注釈されています。つまり,「ならう」 とは,同じことを繰り返して慣れるということ,また何かを模倣することを言うことばだったのです。 

 

習う’ も ‘学ぶ’ も共に自発的な発想がない ‘後追いの作業’ ですね。模倣は特亜三国 (日本・韓国・中国) の民が得意とするところですからね。創造力に欠けるところが玉に瑕ですね。 

 

>  今の時代では,「学ぶ」 「習う」 も,教師による体系的な指導方法 指導技術によって教えられたことを身につけることと一般的に理解されていますが,昔は,そんな体系的な指導法があったわけではないので,ひたすら 「真似をして」 ,ひたすら反復して 「慣れる」 ことが 「学習」 だったのでしょう。

 

そうでしょうね。情報の一方向の流れでしたね。

 

>  では,「習うより慣れよ」 ということわざは,ちょっとおかしくならないか? 

 

‘Practice makes perfect’. ですね。 英訳ではおかしなところはありませんね。

 

>「習う」 「慣れる」 ことだから,「慣れるより慣れよ」 ということになってしまう ・・・。

 

そうですね。’習う’ は、他の ‘真似をする’ ことでしょうね。’右に倣え’ と号令を掛けるではありませんか。これを何回も繰り返せば慣れてきますね。慣れは訓練の賜物ですね。’習う’ は原因で、’慣れる’ 結果ということになるのではないでしょうか。

 

>  多分,このことわざは,「ならう」 の意味が,人に教えてもらうという意味の方が強くなって以降にできたのではないだろうか。 (この部分は,私の勝手な解釈) 

 

たぶんそうでしょうね。受動的な生活ばかりでは、子供の自主独立の精神は養われませんね。能動的な作業を教育の中心に据えて、’生きる力’ (vitality) を養いましょう。

 

 

.

 

 

 


現代の学校教育 2/2

2020-01-28 13:50:40 | 教育

> 教団の教祖とか、一国の独裁者といったような特別な立場の人でなくても、普通のお母さんや普通の先生でも、子どもを思い通りに支配しようとする人は、子どもを洗脳しようとするのです。
>そして、自分の頭で考えることや、自分の感覚で感じることを許さず、お母さんや先生の言うことに従うことだけを求めるのです。

そうですね。考えは個人個人により違いますね。しかし、思考停止の状態では人々は没個性になりますね。

>そのような人は、子どもが自分の価値観とは異なることを言ったり、したりすると、子どもの言葉には耳を傾けずに、一方的に「反抗的だ」「悪い子だ」と非難、否定します。

そうですね。信心のようなものですね。折伏あるのみですね。

>そして、叱ったり、怒鳴ったり、時には叩いたりもします。

暴力沙汰ですね。家庭内で悲劇が繰り返されますね。                                                                                                                                                    

>また、自分にとって都合の良いことをした時にはすごく褒め、そうでない時には無視することもあります。

論功行賞ですね。

>そうやって、大人の都合の良いように支配しようとするのです。

それは懐柔策ですね。

>それを繰り返されていると、子どもはお母さんや先生の顔色を見て行動したり、お母さんや先生に褒めてもらうために積極的に行動するようになります。

空気の読める人間になるのですね。立派な日本人になるのですね。

> 洗脳の成功です。>そう見ていくと、残念なことに、日本の教育の現状は「教育」というより、「洗脳」に近いものです。

そうですね。

> 日本の教育現場では、「なぜ?」「どうして?」は受け入れてもらえません。

疑問には、答えを出す必要があります。それには考える必要が生じます。考える人の出現になります。教養ある人間の出現になります。

>それを言えば、反抗と受け取られてしまいます。

思考停止の状態への反抗ですね。無哲学・能天気の国への反抗ですね。

>そして常に「お上が決めた正解」を覚えるように求められるだけで、自分の頭で考えることは求められていません。

そうですね。現実には、唯一の正解が存在しますね。

>それでもそれを「洗脳」と感じる人が少ないのは、今のところ覚えさせようとしている内容が勉強に限られているからです。>でも、その方法は洗脳と同じ方法を使っています。>それは戦争中と同じ方法です。

そうですね。方法は皇民化教育と同じですね。 覚えさせようとしている内容はグローバル (全地球的) でもなければ、ユニバーサル (普遍的) でもない。

> 戦争中と今とでは「教える内容」は変わりましたが、「教え方」は変わっていないのです。

そうですね。暗記中心ですね。暗記内容を変えての序列競争ですね。

>だから自分の頭で考えることが困難な人が増えてきてしまっているのです。

そうですね。これでは進歩がありませんね。
 <日本はなぜ敗れるのか・敗因21か条> を著した山本七平の指摘する事例からも、大和民族自滅の過程は見て取れます。その一例を以下に掲げます。
私が戦った相手、アメリカ軍は、常に方法を変えてきた。あの手がだめならこれ、この手がだめならあれ、と。 、、、、、あれが日本軍なら、五十万をおくってだめなら百万を送り、百万を送ってだめなら二百万をおくる。そして極限まで来て自滅するとき「やるだけのことはやった、思い残すことはない」と言うのであろう。 、、、、、 これらの言葉の中には「あらゆる方法を探求し、可能な方法論のすべてを試みた」という意味はない。ただある一方法を一方向に、極限まで繰り返し、その繰り返しのための損害の量と、その損害を克服するため投じつづけた量と、それを投ずるために払った犠牲に自己満足し、それで力を出しきったとして自己を正当化しているということだけであろう。(引用終り) 

>でも、方法が変わっていないのですから、為政者の判断次第では簡単にその内容を戦争中に戻すことも出来ます。>その時、「教える内容」に反対してもあまり意味がないのです。

そうですね。為政者の恣意により変えられますね。我々には、自主・独立の手段が必要ですね。

> 「何を教えるか」も大事ですが、それ以上に「どう教えるのか」ということがもっと重要な問題なのです。>でも、その議論は聞こえてきません。 

そうですね。
日本には、 ‘周りの影響を受けずに、真に独立した考えができる知識人がいない。’ ( グレゴリー・クラーク) 
 'どのような状況にも普遍的に通用する真理や法則、基本概念や倫理がありうるという考え方が、日本にはほとんど存在しない。'  (カレル・ヴァン・ウォルフレン)

>もっと根本的なところから議論を始めないと、同じ歴史が繰り返されるだけです。

そうですね。この道はいつか来た道 ああそうだよ、、、、 根本的な教育改革が必要です。

> (引用おわり)


.



国際競争力の低下

2020-01-26 04:14:45 | 教育
(略)
>大学と受験生の序列化 (略) 
>  私立大学では、センター試験を入学者選抜にどう利用するかは、各大学が個別に決めており、センター試験だけで選抜をしたり、二次試験を免除する受験生の選抜に用いたり、二次試験の結果と合計して合否判定に用いたりしている。
>いずれにしても、受験生の序列化がセンター試験で行われるため、これが日本の初等中等教育に及ぼしてきた影響は、極めて大きい。

そうですね。

>  受験生が良い大学に入るために序列を高めるには、(評判の)良い高校に入っている必要があり、そのためには良い中学校に入っている方が有利で、そのためには良い小学校に入っている方が良い、ということになって、日本の子供たちは、小さいときから受験に翻弄されている。

‘良い’ とは何かの問題ですね。それは、序列順位の高い事でしょう。

>そして、各段階での入試に合格するために、学校での勉強だけでなく、学習塾に通うことが当たり前になっている。>学習塾では、学校で教えている内容よりも早く学習内容を先に進めて、入試前に試験対策の特別指導を行う期間を確保したり、入試での問題を短い時間で解けるようにするための、学校で教えない技術や公式を教えたりしている。

それは処世術 (現実) ですね。哲学 (非現実) ではないでしょう。各人に哲学は必要である。Everyone needs a philosophy. 

>子供たちは、学習塾での序列などでお尻を叩かれて、そのような技術や公式を、理屈なしで暗記することが指導される。

現実の内容は頭の外にある。それは見ることができる。見ればわかる。答えはただ一つ。だから、考える必要がない。楽ちんである。

>  こうして、自分の頭で考えるよりも,覚えこまされた技術や公式を素早く用いて、回答を導き出す指導が行われる。>このようして、本来初等中等教育で何を教育すべきかという理想とは別の要因で、教育の道筋が曲げられてきた。

日本語には階称 ‘言葉遣い’ というものがある。’上と見るか・下と見るか’ の序列判断が疎かであると、日本語の日常会話にもことを欠く。だから、世俗の上下判断の基準となる人間の序列順位表が必要である。かくしてわが国の学歴社会はもたらされた。
その上わが国の礼儀作法は序列作法になっているために、世俗の上下判断が疎かであっては ‘礼儀正しい日本人’ にもなれない。序列なきところに礼儀なしである。
人を見損なってはいけないという想いが強迫観念の域に達していて、日本人は堅ぐるしい日常生活を送っている。だから、向上心とか出世欲が湧いてくる。入試地獄が激化する。

> 大学で何を学んだかが問われない社会
>  センター試験での序列に従って入学した大学を卒業すれば、大学で何を勉強したかは問われずに、「○○大学卒業」という肩書と面接技術で企業に就職でき、社会に出ていくことができる。

そうですね。
‘(略) しかしいったん、大学に入れば、控えめに表現しても、成績と出席の基準はたるんでいる。大学を含め、日本の子供たちが習うものごとの中核は、主として十八歳までに吸収される。’ (フランク・ギブニー)  

>入試や塾で与えられる序列は、それぞれの人の多様な価値の、ほんの一側面であるのにも関わらず、それが絶対であるかのように受け入れられ、与えられた場所と仕事で、他人任せの人生を送るようになる。

そうですね。わが国の知識人に問題がありますね。
‘周りの影響を受けずに、真に独立した考えができる知識人がいない。’ ( グレゴリー・クラーク)

>  大学は本来、プロフェッショナルとしての知識や能力を身に着ける、重要な場所であるはずである。>従って、センター試験のような手段で、おおざっぱなレベル分けが行われたとしても、どこの大学に行けば何が学べるか、何が身に着くかによって、受験する大学が選ばれるのが、本来の姿であろう。

そうですね。

>  筆者が働いているアメリカでは、学生は、学部の4年間で基礎学問を広く学び、通常、別の大学の大学院に進学して、専門能力を身に着け、修士あるいは博士の学位を取得し、社会で働くことになる。>筆者の学術分野である人工知能(AI)では、学部で物理を学び、大学院でAIを学んだというような専門家が多い。

そうですね。彼らは、大学で哲学 (非現実) を学び、大学院で ‘高度な職業人’ になる為に技術 (現実) を学びますね。

>  日本では、大学教員として働くような場合は別として、一般社会で働く場合には、大学で何を学んだかが問われない。>会社や役所では人事異動が定期的にあって、一人一人の専門性が重視されない。

そうですね。わが国は序列社会ですし、我々は序列人間ですからね。外国の非序列社会にまで出かけて行って専門家になろうとする意欲もありません。

>これが、あらゆる分野での日本の国際的競争力の低下の原因になっている。

そうですね。序列人間ばかりでは、国際競争力は高まりませんね。


.




津田大照氏 2/2

2019-12-21 21:50:45 | 教育

>  就活でも評価されない、入社しても大して評価されない、大学に残ってもポスドクになるか非正規しかない。>そんな状況でわざわざ高い授業料払ってまで日本の大学院に行くわけないですよね。

知的な評価が欠けていると、日本人の外国留学も不人気になりますね。

>  こんなことをやっていたらますます世界から取り残されて行くのに…。>残念です。

同感です。日本人は、知的な世界に今なお気づいていないのですね。

>  そして、このような問題が報じられると決まって「だから年功賃金が悪い!」「だから終身雇用が悪い!」と言い出す人たちいますが、そもそもの問題はそこなのでしょうか? >いいえ、違います。 

年功賃金・終身雇用は、わが国の序列制度に基づいていますね。序列制度は日本語の階称 (言葉遣い) から発していますね。
知的な問題は日本語の無時制から発していますね。日本人には世界観 (非現実) の内容がない。


>  学問の府である大学が就職予備校化しているのが問題であり、もっと言ってしまえば、自分たちが「使いやすい人材」=優秀な人材と勘違いしている企業の問題です。

企業の側からの個性の選択が必要ですね。

>  経団連が加盟各社に毎年実施している「新卒採用調査」を見ると、2001年時点では、「誠実性」「協調性」「主体性」「チャンレジ精神」「コミュニケーション能力」はほぼ同じ程度、採用時に重視されていました。>  ところが2005年以降は、「チャレンジ精神」が低下傾向に転じ、一方で「コミュニケーション能力」がダントツトップに躍り出ました。

チャレンジ精神は個人の興味に深く関わりますが、コミュニケーション能力は個人の興味とはあまり関係ありませなからね。

>  その引き金になったのが、経済産業省が2006年2月に「社会人基礎力に関する研究会」の中間とりまとめの中で提唱した「社会人基礎力」にあると、私は考えています。 >  この研究会では、社会に出るまでに身につけておいて欲しい能力を議論。 >かつては、職場や地域社会で活躍するために必要な能力は、大人になる過程で自然に身につくものと考えられていました。 >しかし、家族の形が変わり、地域の結びつきが弱まり、日本社会の中でこうした能力を身につけることが難しくなり、「社会人基礎力」を定義することで大学のキャリア教育に生かそうとしたのです。

キャリア教育とは、医師や弁護士など高度の職業人を育てる教育のことですね。

> 社会人基礎力は、 1.人との関係を作る能力 (例)コミュニケーション能力、協調性、働きかけ力 等 2.課題を見つけ、取り組む能力 (例)課題発見力、実行力、創造力、チャレンジ精神 3.自分をコントロールする能力 (例)責任感、積極性、柔軟性 の3つの能力に分類されます(2006年2月8日公表の経済産業省「社会人基礎力に関する研究会」の「中間とりまとめ」より)。 > 繰り返しますが、これらの基礎力はキャリア教育のための指針です。

そうでしょうね。

>  ところが、企業側が採用を行う際、その人材の良しあしを測る、“モノサシ”に用いているようになった。

企業側がキャリア教育を行うのですね。

>「コミュニケーション能力」という実に曖昧な能力で人材の良し悪しを測り学業の成績や専門性を軽んじる超ガラパゴス採用が続けられているのです。

企業側が無哲学・能天気では話になりませんね。各人に哲学が必要です。Everyone needs a philosophy.
歴史に関する考えは歴史哲学になる。政治に関する考えは政治哲学、宗教に関する考えは宗教哲学になる。科学は科学哲学、人生は人生哲学などなど。

>  海外で名刺交換をすると、大抵そこには「Ph.D」という肩書きがあります。>Doctor of Philosophy、学術博士、博士号です。>経営をするにも、人をマネジメントするにも礎となる専門性が必要不可欠です。

そうですね。博士 (Doctor of Philosophy: Ph.D., 哲学博士) 号が無ければ、外国では研究者とは認められませんからね。

>  二言目には「競争力をつけなければ世界で勝てない!」と経団連のお偉い方達はおっしゃりますが、まずは自分の目で世界を見た方がいい。

個性の分野での競争が必要ですね。経営者は従業員の個性を見分ける必要がありますね。

>世界の企業がどんな人材を重視し、そのために世界のトップ自身がどれだけ学びを続けているか。>その努力を怠っている人たちが、日本を低学歴な国に沈没させている。>そう思えてなりません。

そうですね。
‘(略) しかしいったん、大学に入れば、控えめに表現しても、成績と出席の基準はたるんでいる。大学を含め、日本の子供たちが習うものごとの中核は、主として十八歳までに吸収される。’ (フランク・ギブニー)

.




通知表

2019-12-21 18:07:51 | 教育

>相対評価も絶対評価もどうでもいい
>通知表の付け方が変わり相対評価から絶対評価が主流になりましたが、こんなことはどうでもいいのです。>通知表の成績が良ければ「優等生」で、悪ければ「劣等性」などという馬鹿げた階級意識を子供に根付かせている現実は何も変わっていません。

そうですね。階級意識は、序列意識ですね。序列の存在を確認すれば、日本人はそれが何か有意義なものと思い込んでいるようですね。

>「成績=金」の幻想から覚めるべき

そうですね。序列は金。日本人にとって序列制度は金科玉条になっていますね。

(略)
>しかし私は通知表の評価方法云々などというもの自体どうでもよく、通知表自体が心底下らないものとしか思えない人間です。>通知表の成績が高いことが「良い」とされ、低いことが「悪い」とされているなどということは単なる等級付けに過ぎません。>そして、通知表の成績やテストの点が良かったかどうかなどという話題が活発に騒がれるのは学校という狭い檻(おり)の中だけです。>卒業してしまえば誰も話題になどしないでしょう?

そうですね。しかし、日本の国全体が序列社会であることを考えれば、日本人の考え方は至って小規模ですね。全世界 (global) でもなければ、万人 (universal) でもない。

>確かに大学生などは就職する間際になって成績の提示を求める企業も増えてきたと言われますので、就職先によっては重要になるかもしれません。>「それならやっぱり成績は大切じゃん!」 >・・・という考えの人もいるでしょうが、冷静に考えて見て下さい。>一度の就職活動のために良い成績を取り続けたとして、その会社に生涯残り続けることができる保証が有るでしょうか。

学問は、一つの会社のために存在するものではありませんからね。学問は、universal ですね。

>ましてや成績の開示を求められるのは新卒とよばれる卒業生くらいだというのが世間一般の風潮です。

日本人の成績は、しょせん付け焼刃のようなものでしょうね。
‘(略) しかしいったん、大学に入れば、控えめに表現しても、成績と出席の基準はたるんでいる。大学を含め、日本の子供たちが習うものごとの中核は、主として十八歳までに吸収される。’ (フランク・ギブニー)

>自分が本当に将来なりたいもの・職業などに進むために成績を高くする必要があるのであれば、どんどんそうした方がいいでしょう。

そうですね。各人に哲学は必要ですね。Everyone needs a philosophy. 我々は、無哲学・能天気ではいられませんね。

>しかし、何の目的も無いような人間に対して相対評価だの絶対評価だのと訳の分からない基準を持ち出して、目の前の成績だけを上げさせればいいという風潮はおかしくないでしょうか。

おかしいですね。深刻なのは、その序列社会の風潮ですね。

>小学生・中学生・高校生などの学生たちが、目先の数字だけを高くしなさいと言われ続けて育つというのは明らかに異常だと考えます。

そうですね。日本人にはそれしかない。この事態が重大な問題ですね。

>「学校の成績がお金や将来の安定につながる」などという感覚で、学校の教育関係者らは子供たちを競争に追い立てます。

そうですね。学校での序列競争ですね。

>しかし、競争の中では必ず残れる人と残れない人が出てくることは誰もがわかることでしょう。

そうですね。我々は、Win-Win の関係にはなれませんね。

>そして、その競争に疲れ果てた子供たちは本来の学ぶ事の楽しさや素晴らしさなどに気が付くでしょうか? > 私にはとてもそうは思えません。

空しさでいっぱいですね。

>————————————
>学校の中だけでしか通用しないテストの成績による評価。>子供たちはこれが唯一絶対だと思い込まされて12年間を過ごしている、何と異常なことでしょう。>「成績=金」はすでに幻想。
>むしいい成績を取ることだけに特化した脳は、社会の変化についていけない「社会の落ちこぼれ」を生み出す可能性が大です。

そうですね。思考停止の状態ですね。

>成績信仰を捨て、本来の学ぶ楽しさすばらしさを感じ、社会で生き抜く力をつけていく教育へ、根本的な転換が必要です。

そうですね。成績信仰は日本語から派生する序列信仰の別名ですね。
日本語には、階称 (言葉遣い) というものがあります。’上と見るか・下と見るか’ の世俗的判断に疎い人間は日本語の日常会話も満足にはできません。その上、日本人の礼儀作法は序列作法になっているので、世俗的な序列判断ができないと礼儀正しい日本人になることもできません。序列なきところに礼儀なしです。人を見損なってはいけないという想いが高じて強迫観念の域に達しています。ですから、日本人は堅ぐるしい生活を余儀なくされています。’頑張って’ とか、’お疲れ様’ とかお互いに声を掛け合って励ましています。’張り切るな’ (Take it easy.) とか、うまくやれ (Good luck.) などの雰囲気にはなれません。英米人を見習いましょう。


.