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日本哲学入門  

2024-06-30 14:49:30 | 文化

>現代ビジネス   >仏教はなぜここまで日本で受け入れられたのか…私たちの根源に埋め込まれた「空」というメッセージ   >藤田正勝の意見・   >1日・   

>明治維新以降、日本の哲学者たちは悩み続けてきた。   

>「言葉」や「身体」、「自然」、「社会・国家」とは何かを考え続けてきた。   

>そんな先人たちの知的格闘の延長線上に、今日の私たちは立っている。   

>『日本哲学入門』では、日本人が何を考えてきたのか、その本質を紹介している。   

>※本記事は藤田正勝『日本哲学入門』から抜粋、編集したものです。   

>「空」とは何か   

>「空」という概念をめぐって、西谷啓治が「空と即」(『講座仏教思想』第五巻、一九八二年)という論文のなかで興味深いことを記している。   

>西谷によれば、「空」の概念はインドで──たとえば先ほど見た「色即是空」の場合のように──すべての事物がそれ自体として存在しているのではないということを言い表す理論上の概念として成立したが、それが日本に伝えられたとき、純粋に理論的な概念としてではなく、むしろ感情や情緒と結びつく仕方で受け入れられた。   

>その背景には、そもそも日本では「死」というものが、「はかない」とか「むなしい」といった感情と深く結びついたものとしてとらえられていたことがあったと考えられる。   

>もちろん人間の有限性、あるいはすべてのものが移ろいゆくということは、日本でも、インドでも、あるいはヨーロッパでも同じであって、日本においてだけとくに人間の有限性ということが言われるわけではない。   

>無常感、そしてそれを基礎とした無常観という世界観は、どこにも共通して見られる。   

>たとえば、よく引用されることばであるが、『旧約聖書』の「伝道の書」には、「空の空、すべては空なり」ということばがある。   

>しかし西谷は──これは別の論文「芭蕉について」においてであるが──東洋と西洋とでは、無常というものが感じられる地盤は同じではないと言う。   

>西洋においては、すべてが移ろうと言われる場合にも、その根底に、何らかの意味で移ろわぬもの、永遠なものが考えられているというのである。   

 

そうですね。西洋人には現実(事実)と非現実(考え・哲学)がありますからね。  

 

>たとえばイデアというような考え方もそうであるし、キリスト教の神もそうである。   

>西洋の無常というのは、そういう永遠なものに支えられた、あるいはそれに基礎づけられた無常である。   

 

そうですね。西洋には永遠 (考え・哲学) もあれば無常 (現実) もある。   

 

>それに対して東洋の場合には、そういう移ろいゆくものの背後に永遠なるものが見られず、そのために、その無常感、あるいは心の「むなしさ」といったものがどこまでも深くなっていくところがあると西谷は述べている。

 

そうですね。日本語は写生画の言葉ですからね。万物は流転しますね。   

 

>私たちはたとえば自然の諸事物を見たり、聞いたりする場合でも、それを単なる知の対象としてではなく、むしろ情意の対象として、つまり気分的なものと結びついたものとして受けとっている。   

>晴れ渡った青空を見れば、さわやかさを感じ、心も晴れ晴れとするし、無邪気にほほえむ赤ちゃんの顔を見れば、見ているこちらの心もおのずから和んでくる。   

>知るということと、気分、感情、情緒というのは深く結びついているのである。

 

そうですね。全ては気分・雰囲気・感情と結びついていますね。   

 

>西洋と東洋の違い   

>一般的にそのように言えるが、仏教の「空」という概念が日本に受け入れられたときにも、──蓮如の『御文章』の「はかない」とか、「あわれ」という表現に端的に見られるように──単なる理論的な概念としてではなく、情緒と深く結びつくような仕方で受けとられた。   

>そのように情意のレベルで受けとられた「空」を西谷は「情意における空」ということばで言い表している。   

>もちろん、「空」という概念は中国においてもすでに情意的なものと結びついて受けとられたということも言える。   

>空、つまりシューニヤ(śūnya)というインドで成立した概念が「空」という中国語に移されたとき、純粋に理論の上でというよりも、「空」ないし「虚空」のもともとの意味である「目に見えるそら」と結びつく形で受容されたと西谷は指摘している。   

>目に見えない永遠無限なものであるシューニヤが、人間にとって目で見ることのできる唯一の永遠なるものである「そら」と結びつけて受容されたのである。   

 

そうですね。目に見えない者は信じられませんからね。    

 

>概念の受容の歴史という観点から見たときたいへん面白い点である。   

>異なった文化のなかの新しい概念に接したとき、それをどのように受容するかというのは、つねに大きな困難を伴う作業であるが、中国の人たちは、目に見えない無限である「空」を理解するために、目に見える無限を手がかりとしたのである。

 

日本人も中国人と同じですね。国文法に時制がない。   

 

>「空」ということばは中国でも、いっさいは空であると観取することから生じる特有の「気分」をも言い表すことばとして使われた。   

>しかし日本ではより強く「はかなさ」や「むなしさ」、そういった気分と結びついたものとして「空」の概念が受け入れられていった。   

 

そうですね。日本人は感情的な国民ですからね。   

 

>西谷はそうした例の一つとして、次の西行の歌を挙げている。   

>「風に靡くふじの煙の空に消えて行方もしらぬわが思ひかな」という歌である。   

>ここでは自分の思いのはかなさ、あるいは自分の存在の虚しさが、空に消えていく煙のはかなさと、それを消していく空の虚ろさに重ねあわされている。   

>その背後には、もちろん仏教の「空」の思想がある。   

>それがここでは空に消えていく煙のはかなさと、そして自らの存在の不確かさと重ねあわされている。   

>そのように「空」が受けとめられたということは、本来なかったものがそこに付け加えられたということでもあるが、しかしそれによって教理がゆがめられたとは単純には言えないであろう。   

 

日本語は写生画の言葉である。現実 (事実) の内容は頭の外にある。

非現実 (考え・哲学) の内容は頭の中にある。日本語の文法には時制 (tense) というものが無いので文章にならない。だから頭の中のモノは意味をなさない。空にも意味がない。ただもやもやしたものになる。そして日本人の気分・雰囲気・感情にその効果を及ぼす。   

何事のおわしますかは知らねども かたじけなさに涙こぼるる。 (西行法師  

 

>仏教の理論がこのように気分的なもの、情緒的なものと深く結びつく仕方で受けとめられたために、日本では仏教が人々のあいだに受け入れられ、深く浸透していったということも言える。   

 

そうですね。日本人には非現実はわからないが、気分・雰囲気・感情ならわかる。無哲学・能天気は治らない。      

 

>そうでなかったら、仏教は日本でこれほど深く根を下ろすことはできなかったかもしれない。   

 

そうですね。生まれた時には宮参り、結婚式はキリスト教会、葬儀の時は仏式のご厄介になる。これは、教義に依る効果ではない。良い気分・雰囲気を追及した結果ですね。   

マッカーサ元帥は1951年5月5日の上院合同委員会で日本人を以下のように評していました。  

‘もしアングロ・サクソンが人間としての発達という点で、科学とか芸術とか文化において、まあ45歳であるとすれば、ドイツ人もまったく同じくらいでした。しかし日本人は、時間的には古くからいる人々なのですが、指導を受けるべき状態にありました。近代文明の尺度で測れば、我々が45歳で、成熟した年齢であるのに比べると、12歳の少年といったところ like a boy of twelve でしょう。’ (ジョン・ダワー 増補版 敗北を抱きしめて )  

マ元帥の発言はどの駐日大使よりも率直でしたね。外交辞令がない。彼は知日派の人であった。   

 

(略)

 

 

 

 



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3 コメント

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マルテンサイト千年ものづくりイノベーション (サムライ鉄の道)
2024-09-01 00:27:10
最近はChatGPTや生成AI等で人工知能の普及がアルゴリズム革命の衝撃といってブームとなっていますよね。ニュートンやアインシュタイン物理学のような理論駆動型を打ち壊して、データ駆動型の世界を切り開いているという。当然ながらこのアルゴリズム人間の思考を模擬するのだがら、当然哲学にも影響を与えるし、中国の文化大革命のようなイデオロギーにも影響を及ぼす。さらにはこの人工知能にはブラックボックス問題という数学的に分解してもなぜそうなったのか分からないという問題が存在している。そんな中、単純な問題であれば分解できるとした「材料物理数学再武装」というものが以前より脚光を浴びてきた。これは非線形関数の造形方法とはどういうことかという問題を大局的にとらえ、たとえば経済学で主張されている国富論の神の見えざる手というものが2つの関数の結合を行う行為で、関数接合論と呼ばれ、それの高次的状態がニューラルネットワークをはじめとするAI研究の最前線につながっているとするものだ。この関数接合論は経営学ではKPI競合モデルとも呼ばれ、様々な分野へその思想が波及してきている。この新たな科学哲学の胎動は「哲学」だけあってあらゆるものの根本を揺さぶり始めている。こういうのは従来の科学技術の一神教的観点でなく日本らしさとも呼べるような多神教的発想と考えられる。
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日本人の誇り (特殊鋼流通関係)
2024-09-19 11:28:23
「材料物理数学再武装」といえばプロテリアル(旧日立金属)製高性能特殊鋼SLD-MAGICの発明者の方で久保田邦親博士(工学)という方のの大学の講義資料の名称ですね。番外編の経済学の国富論における、価格決定メカニズム(市場原理)の話面白かった。学校卒業して以来ようやく微積分のありがたさに気づくことができたのはこのあたりの情報収集によるものだ。ようはトレードオフ関係にある比例と反比例の曲線を関数接合論で繋げて、微分してゼロなところが最高峰なので全体最適だとする話だった。同氏はマテリアルズ・インフォマティクスにも造詣が深く、AIテクノロジーに対する数学的な基礎を学ぶ上で貴重な情報だと思います。それと摩擦プラズマにより発生するエキソエレクトロンが促進するトライボ化学反応において社会実装上極めて有効と思われるCCSCモデルというものも根源的エンジンフリクション理論として自動車業界等で脚光を浴びつつありますね。
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刃物用鋼の聖地 (特急やくもファン)
2024-09-20 08:15:50
安来の日立金属さんプロテリアルに変わったですね。山陰の鉄の道文化圏は鉄の歴史を知る上でも貴重な地域でかつて司馬遼太郎氏が現在の和鋼博物館の前身の和鋼記念館をおとづれたときこういうものを作る企業というものはなかなか大局観があるといっていましたね。最近はアニメ鬼滅の刃関連で天馬山というところに奇岩、巨大割石という卵状の岩石が日本刀でスパッと割ったような不思議な岩が有名になってきていてインバウンド観光でも盛り上がっているようですね。いちど旅行にいってみたいところですね。
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