私は、日本人であるから、毎日、日本語を使って話をしているが、あまり高尚な話はできない。
知的な話は、理屈を合わせる必要がある。つまり、矛盾の淘汰が必要である。
日本語では、非現実の文章はできないから、考え (非現実) と言うものが脳裏で発展しない。
私は、論文を英語で書く。そして、英米人に査読してもらう。矛盾が無ければ、それで良い。他人と違うことは、問題にならない。考えは、人・人により違うから独創もありうる。ただ、矛盾があれば、それは考えにならない。だから、矛盾は必ず除去しなくてはならない。そのためには、矛盾を発見できる人と接触を保たなければならない。だから、専門誌への投稿は必要である。独りよがりの文章では、頭脳労働にはならない。
日本人だけで理屈に関する事柄を話し合うのは良くない。矛盾が排除できないからである。日本人は、考えの矛盾というものは気にならない。現実の矛盾は理解される。だが、非現実の矛盾は理解されない。それは、非現実の内容を入れる構文が日本語にはないからである。文章が無ければ、意味もなく、矛盾もなく、矛盾の排除もままならない。だから、英米人のいないところで、'日本は必ず勝つ' と叫び、たとえ全会一致が得られても、その内容は矛盾だらけで、その実現はあてにはならない。日本語で未来・非現実を話し合うと言うことは、そういうことになる危険性があるということである。'やってみなければわからない'。'なってみなければわからない' の一点張りでは、洞察力は働かない。予期せぬ光景を目の前に見て、'あっ' と驚くのでは、時すでに遅しである。
山本七平は「『空気』の研究」のなかで、そのことを指摘している。
「驚いたことに、『文藝春秋』昭和五十年八月号の『戦艦大和』でも、『全般の空気よりして、当時も今日も(大和の)特攻出撃は当然と思う』という発言が出てくる。この文章を読んでみると、大和の出撃を無謀とする人びとにはすべて、それを無謀と断ずるに至る細かいデータ、すなわち明確の根拠がある。だが一方、当然とする方の主張はそういったデータ乃至根拠は全くなく、その正当性の根拠は専ら『空気』なのである。最終的決定を下し、『そうせざるを得なくしている』力をもっているのは一に『空気』であって、それ以外にない。これは非常に興味深い事実である。」と書いている。
戦前の日本は精神主義の国であった。精神力は、矛盾を淘汰できなかった。我が国の精神力は、米国の圧倒的な物量の前に屈した。考えなくして圧倒的な物量は備えられるものではない。我々の信頼していた精神力は、一体何であったのか。瞬間的にエキサイトする力であったのか。
'人間万事不平等' (現実) なら日本人にもわかる。だが、'人は、生まれながらにして平等に作られている' (非現実)など主張しても信じられない。'そんなこと言っても駄目だぞ。現実は、そうなっていない' と言うことになる。
'そんなこと' は非現実の内容であり、'現実はそうなっていない' も確かなことである。だが、非現実を入れる容量が脳裏にないから、とりわけそれを聞く耳を持たないのである。この点が、我が国民の民度 (文化程度)の低さを示している。
現実の内容は、千変万化する。その中に、基準を求めることは難しい。そのような努力をする人は、つかみどころのない人となる。
山本七平は、<ある異常体験者の偏見>の中で、絶対化について述べている。「日本軍が勝ったとなればこれを絶対化し、ナチスがフランスを制圧したとなればこれを絶対化し、スターリンがベルリンを落としたとなればこれを絶対化し、マッカーサーが日本軍を破ったとなればこれを絶対化し、毛沢東が大陸を制圧したとなればこれを絶対化し、林彪が権力闘争に勝ったとなれば『毛語録』を絶対化し、、、、、、等々々。常に『勝った者、または勝ったと見なされたもの』を絶対化し続けてきた―――と言う点で、まことに一貫しているといえる。」と述べている。
我が国では、'そう言い張るなら、その根拠を示せ' と要求される。世界観を持たない日本人には、この答えを出すことは難しい。非現実を、現実を語るための構文に載せて表現すれば、それは真っ赤な嘘になる。
時制がなければ、世界観が無い。現実とは別次元の世界の内容を考えることができない。また、相手から世界観を聞かせられても、それを信じることは難しい。
英語には、時制がある。時制は、非現実の内容を語る構文を提供してくれる。
過去と未来は非現実である。
過去の内容は、過去時制と過去完了時制の文章内容として矛盾なく描かれる。
未来の内容は、未来時制と未来完了時制の文章内容として矛盾なく描かれる。
現在時制の内容は、実況放送・現状報告になる。矛盾なく描かれる。日米の子供でも使っている。
だが、現在の内容は、英語では、現実と非現実がある。非現実の内容は '生まれながらにして、、、、、' のような文章である。
'我々はどこから来たか・我々は何者か・我々はどこに行くのか' は非現実の内容を求める哲学的命題である。英米人の高等教育である。
無哲学・能天気の人間は、非現実の内容を語ることはできまい。非現実を現在時制で語れば、実況放送・現状報告の内容とはならず、空想・妄想となる。だから、哲学を真面目に語ることはできない。そして、日本人は英米人にはついてゆけない。
我が国は、初等教育から高等教育まで国内で行える数少ない国の一つであるというが、あまり誇りにはならない。
カレル・ヴァン・ウォルフレン (Karel van Wolferen) は、<日本/権力構造の謎> (The Enigma of Japanese Power) の<”ジャパン・プロブレム”>の中で下記の段落のように述べています。
、、、、、日本の社会でいう “現実” (リアリティ) とは、客観的に観察した結果としての実際の事実というより、心情的なイメージに合わせて構築された、そうあるべき “リアリィティ” だからである。そしていうまでもなく、望ましいと想定されるイメージは、そのときその人の属するグループの利益と一致することが多い。 、、、、、
西洋では、現実はそうやすやすと管理されたり、意のままに作り変えられたり、相談で決められたりするものとは、考えられていない。つまり、こうあるべきだという任意の考えによって左右されるものとは考えられていない。事実、西洋の哲学または西洋の常識の基礎は、人間にはつきものの自己欺瞞をおさえるには、妄想や幻想を入り込ませないようつねづねよく注意することだと教えている。ギリシャ文明以来、西洋の知の発達の歴史を貫いてつねに強調されてきた戒めが一つあるとすれば、それは、「矛盾を育むなかれ」ということである。この戒めは、論理、数学、科学の根本法則である。(引用終り)
http://www11.ocn.ne.jp/~noga1213/index.htm
知的な話は、理屈を合わせる必要がある。つまり、矛盾の淘汰が必要である。
日本語では、非現実の文章はできないから、考え (非現実) と言うものが脳裏で発展しない。
私は、論文を英語で書く。そして、英米人に査読してもらう。矛盾が無ければ、それで良い。他人と違うことは、問題にならない。考えは、人・人により違うから独創もありうる。ただ、矛盾があれば、それは考えにならない。だから、矛盾は必ず除去しなくてはならない。そのためには、矛盾を発見できる人と接触を保たなければならない。だから、専門誌への投稿は必要である。独りよがりの文章では、頭脳労働にはならない。
日本人だけで理屈に関する事柄を話し合うのは良くない。矛盾が排除できないからである。日本人は、考えの矛盾というものは気にならない。現実の矛盾は理解される。だが、非現実の矛盾は理解されない。それは、非現実の内容を入れる構文が日本語にはないからである。文章が無ければ、意味もなく、矛盾もなく、矛盾の排除もままならない。だから、英米人のいないところで、'日本は必ず勝つ' と叫び、たとえ全会一致が得られても、その内容は矛盾だらけで、その実現はあてにはならない。日本語で未来・非現実を話し合うと言うことは、そういうことになる危険性があるということである。'やってみなければわからない'。'なってみなければわからない' の一点張りでは、洞察力は働かない。予期せぬ光景を目の前に見て、'あっ' と驚くのでは、時すでに遅しである。
山本七平は「『空気』の研究」のなかで、そのことを指摘している。
「驚いたことに、『文藝春秋』昭和五十年八月号の『戦艦大和』でも、『全般の空気よりして、当時も今日も(大和の)特攻出撃は当然と思う』という発言が出てくる。この文章を読んでみると、大和の出撃を無謀とする人びとにはすべて、それを無謀と断ずるに至る細かいデータ、すなわち明確の根拠がある。だが一方、当然とする方の主張はそういったデータ乃至根拠は全くなく、その正当性の根拠は専ら『空気』なのである。最終的決定を下し、『そうせざるを得なくしている』力をもっているのは一に『空気』であって、それ以外にない。これは非常に興味深い事実である。」と書いている。
戦前の日本は精神主義の国であった。精神力は、矛盾を淘汰できなかった。我が国の精神力は、米国の圧倒的な物量の前に屈した。考えなくして圧倒的な物量は備えられるものではない。我々の信頼していた精神力は、一体何であったのか。瞬間的にエキサイトする力であったのか。
'人間万事不平等' (現実) なら日本人にもわかる。だが、'人は、生まれながらにして平等に作られている' (非現実)など主張しても信じられない。'そんなこと言っても駄目だぞ。現実は、そうなっていない' と言うことになる。
'そんなこと' は非現実の内容であり、'現実はそうなっていない' も確かなことである。だが、非現実を入れる容量が脳裏にないから、とりわけそれを聞く耳を持たないのである。この点が、我が国民の民度 (文化程度)の低さを示している。
現実の内容は、千変万化する。その中に、基準を求めることは難しい。そのような努力をする人は、つかみどころのない人となる。
山本七平は、<ある異常体験者の偏見>の中で、絶対化について述べている。「日本軍が勝ったとなればこれを絶対化し、ナチスがフランスを制圧したとなればこれを絶対化し、スターリンがベルリンを落としたとなればこれを絶対化し、マッカーサーが日本軍を破ったとなればこれを絶対化し、毛沢東が大陸を制圧したとなればこれを絶対化し、林彪が権力闘争に勝ったとなれば『毛語録』を絶対化し、、、、、、等々々。常に『勝った者、または勝ったと見なされたもの』を絶対化し続けてきた―――と言う点で、まことに一貫しているといえる。」と述べている。
我が国では、'そう言い張るなら、その根拠を示せ' と要求される。世界観を持たない日本人には、この答えを出すことは難しい。非現実を、現実を語るための構文に載せて表現すれば、それは真っ赤な嘘になる。
時制がなければ、世界観が無い。現実とは別次元の世界の内容を考えることができない。また、相手から世界観を聞かせられても、それを信じることは難しい。
英語には、時制がある。時制は、非現実の内容を語る構文を提供してくれる。
過去と未来は非現実である。
過去の内容は、過去時制と過去完了時制の文章内容として矛盾なく描かれる。
未来の内容は、未来時制と未来完了時制の文章内容として矛盾なく描かれる。
現在時制の内容は、実況放送・現状報告になる。矛盾なく描かれる。日米の子供でも使っている。
だが、現在の内容は、英語では、現実と非現実がある。非現実の内容は '生まれながらにして、、、、、' のような文章である。
'我々はどこから来たか・我々は何者か・我々はどこに行くのか' は非現実の内容を求める哲学的命題である。英米人の高等教育である。
無哲学・能天気の人間は、非現実の内容を語ることはできまい。非現実を現在時制で語れば、実況放送・現状報告の内容とはならず、空想・妄想となる。だから、哲学を真面目に語ることはできない。そして、日本人は英米人にはついてゆけない。
我が国は、初等教育から高等教育まで国内で行える数少ない国の一つであるというが、あまり誇りにはならない。
カレル・ヴァン・ウォルフレン (Karel van Wolferen) は、<日本/権力構造の謎> (The Enigma of Japanese Power) の<”ジャパン・プロブレム”>の中で下記の段落のように述べています。
、、、、、日本の社会でいう “現実” (リアリティ) とは、客観的に観察した結果としての実際の事実というより、心情的なイメージに合わせて構築された、そうあるべき “リアリィティ” だからである。そしていうまでもなく、望ましいと想定されるイメージは、そのときその人の属するグループの利益と一致することが多い。 、、、、、
西洋では、現実はそうやすやすと管理されたり、意のままに作り変えられたり、相談で決められたりするものとは、考えられていない。つまり、こうあるべきだという任意の考えによって左右されるものとは考えられていない。事実、西洋の哲学または西洋の常識の基礎は、人間にはつきものの自己欺瞞をおさえるには、妄想や幻想を入り込ませないようつねづねよく注意することだと教えている。ギリシャ文明以来、西洋の知の発達の歴史を貫いてつねに強調されてきた戒めが一つあるとすれば、それは、「矛盾を育むなかれ」ということである。この戒めは、論理、数学、科学の根本法則である。(引用終り)
http://www11.ocn.ne.jp/~noga1213/index.htm