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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

罪と道徳

2019-02-28 21:59:26 | 言語


>■心が育たない環境を作っていませんか?
>心を育てる教育というと、学校での道徳教育を思い浮かべる人もいるかもしれません。 >道徳教育には、どんな心を育てるかという目標がいくつかあり、それを様々な方法で子供たちに教えていきます。 >でも、道徳教育さえしっかりとやっていれば、「思いやる心」や「感謝の心」などが身に付くのでしょうか。

‘身に付け’ と叫んでも身に付かないでしょうね。

>親御さんたちが幼い子供だった頃であれば、そんな道徳教育も、子供の心育てに一定の効果をもたらしていました。 >しかし現代は昔とは状況が変わっています。
>情報化や国際化が進み、技術はすごいスピードで進化しています。 >現代の子供たちはそのような中で過ごしています。 >昔と同じ教育のやり方で効果が上がるとはいい難いでしょう。

無為無策では、環境の変化に追いつきませんでしょうね。

>ただ単に「人に優しくしよう」「決まりを守ろう」と言葉で教えることで学ばせようとしても、子供の心に響くものではありません。 >大人たちがどんなに「人間らしい心をもった子供に育てたい」と思っていても、そんな心をもたない大人たちの姿が、子供たちの周りにはあふれています。

そうですね。子供の自立心が大切ですね。’人のふり見て我がふり直せ’ では心もとないですね。

>テレビをつければ、そんな大人たちが引き起こす、目をそむけたくなるような事件の報道ばかりが映し出されます。>東日本大震災の際には、福島第一原子力発電所に事故が発生しました。>テレビのニュースでは、電力会社や電子力安全保安院の代表者たちが情報隠蔽・情報操作する姿がさらされていました。>高齢者の方々を狙った汚い手口の詐欺は、ますますやり方が巧妙になり、弱い立場の人たちから平気で財産を奪う人間の姿が浮き彫りになっています。>特定の誰かに恨みをもって殺すのではない無差別殺人の類の事件も、次から次へと起こります。>自分の子を虐待する問題も、一向になくなりません。>最近では、殴ったりけったりという暴力による虐待だけではなく、面倒くさい、かわいくないなどという信じられない理由による、育児放棄という形の虐待のケースも増えています。

日本人には、罪を憎む心がないからでしょうね。

>自分勝手としか言いようのない大人たちによって、理解しがたいひどい事件が次々と引き起こされています。

‘建前 (言い訳・口実) と本音 (私意・我儘・身勝手)’ が幅を利かせる日本人の社会では、道徳を進めることは難しいようですね。

>こんな現実の中では、道徳教育をいくらやっても効果が低いと言えるでしょう。

そうですね。根本的な対策が抜けているようですね。それは、言語の問題です。

>命を大切にする心、思いやりの心といった精神は、学校で道徳教育を受けたり、大人から何度も聞かされたりすることによって育つ時代ではなくなってきています。>子供が生まれ育った環境や、子供の実体験によって自然と身に付いていく必要があります。

そうですね。我々は、実体験に基づいて考えることのできる人になる必要がありますね。

>子供の心を育てようと思ったら、健全な心が育つような環境を用意し、実体験を多く積ませてやらなければならないということです。

健全な心が育つような環境を用意している人の話は、聞いたことがないですね。

>人間であれば当然持っているはずの道徳心が身に付いていない子供たちは、そのような心が自然と育まれる環境にいないと言えるのです。

意思のある人は、加害者意識を経験する。’悪いことをした’ 、‘ああ、やらなければよかった’ と反省する実体験をもっている。反省が強い場合には、罪の意識になる。’どうかして、この罪を償いたい’ と考えるようになる。さらに深刻な場合には、本人の人生の方向すら変えるものになる。だから、意思のある人々の住む社会では、贖罪の宗教 (キリスト教) が力をもっている。
日本人には、意思がない。意思は、未来時制の文章内容として表現されるが、日本語文法には時制 (tense) というものがないので、日本語の脳裏には未来時制もない。それで、日本人には、意思がない。
大の大人でありながら、罪の意識のない人々を見るのは恨めしい。英文法には時制があり、英米人には意思がある。だから、’恨めしやー’ と言って化け物が出て来ることもない。
人々に意思のある社会では、罪の話が出てくる。心に突き刺さる深刻な話である。罪がなければ、我々は自由である。日本人の社会では、およそ罪の話は出てこない。罪の観念が無ければ、心から犯罪を抑えようとする使命感も出てこない。だから、我が国の道徳教育は ’百日の説法屁一つ’ になる。幾多の聖人と法王の下で凶悪犯罪が絶えないのは、罪の意識のない人間のいる事実の証明である。しかし、彼らは少数派であることにかわりない。


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メディアの戦争責任

2019-02-27 11:57:00 | 言語

(略)
>要は、NHKも軍の共犯として戦争を遂行に加担した加害者だったのである。

驚くことは、何もありませんね。過ちもなく、人生を無事に過ごす人はまず居ないでしょうからね。自己の過ちを知ることは、進歩のチャンスです。

>上の動画は2011年のNHKスペシャル「日本人はなぜ戦争へと向かったのか」第3回 「"熱狂”はこうして作られた」だが、NHKが番組でメディアの戦争責任に言及したのは、私が知る限り、これだけである。>毎年のように繰り返される軍部批判とは比べ物にならない。>NHK元職員・池田信夫氏は、NHKの戦争責任について番組を作る提案して上司に怒られたエピソードをツイートしている。

国策に加担していながら、 ‘悪い’ と結論付けることなど上司には考えられないでしょうからね。

>戦争は悲惨であり、日本の軍人に酷いのがいたのは事実である。 >だが、高潔な軍人、潔く責任をとった軍人も数多くおり、牟田口の例だけを殊更に喧伝して軍人だけを悪者にするような印象操作は間違っている。

そうですね。風流・歌詠みでは、なかなか通じませんね。

>戦争を戦った側より、金儲けの為に戦争を煽った側の責任の方が遥かに重いのは自明の理。>世論に著しい影響力を持つメディア自身がその責任を認め、その危険性を視聴者に伝えない限り、未来の戦争を防ぐことなど不可能であろう。

同感です。人間には、リーズン (理性・理由・適当) が必要です。’過ちはくりかえとませぬから’ という歌詠みだけでは、未来の戦争は防げませんね。

>(中略)
>イギリス軍は日本軍に勝ったが、戦後、インドとビルマの両方を失った。>その後、マレーも放棄し、大英帝国は解体への道を辿る。>世界恐慌後、膨大な植民地帝国を有するイギリスがアメリカと組んで保護貿易に踏み切ったことが世界大戦の遠因となったが、戦争の結果、大英帝国は崩壊し、帝国主義の時代そのものが終焉を迎えた。

さすがの大英帝国も崩壊しましたね。

>自由貿易を満喫する戦後の日本人は、戦前、なぜ日本が資源地帯を確保するべく必死になったのか、その理由を全く理解できない。>植民地が無ければ貿易さえままならない、そんな時代がかつてあったのである。

日本人は、勉強が足りないのでしょうね。がり勉だけでは追いつきません。このことは、今も昔も変わらない。

>そうした複雑な歴史の紋様を、視聴者に説明する努力を怠り、只管、戦争の悲惨さにだけ焦点をあてて、情緒的、勧善懲悪的に「日本は悪」「日本軍は無能」とだけ報じ続けても、歴史の教訓とはなりえないし、そもそも未来の戦争を防ぐ効果さえないだろう。>寧ろ、中国、韓国の反日感情を煽る燃料となり、北東アジアの対立と緊張を招く危険さえあるのだ。

そうですね。メディアは、気分・雰囲気に酔いしれているばかりですね。中国人も韓国人も、同じ状態でしょうね。

>メディアの偏向した報道のせいで、日本の無能な指導者層が勝手に戦争を始めたと勘違いしている人が多いが、軍部が独走し、新聞が戦争を煽り、弱い内閣がそれを抑えられなかったというのが実態。>軍部とは、軍人とは、要は軍服を着た役人。>国民から選ばれたわけでもない権力が国民に選ばれた政府権力を凌駕する危険性。

深刻な民主主義の乖離ですね。為政者は、優柔不断・意志薄弱でありながら、恣意 (私意・我儘・身勝手) に走る人間ですからね。

>現在、「報道の自由」「権力監視」を盾にし、役人と結託して内閣を潰すことに夢中になっているメディアは、「統帥権干犯」を振りかざして政府の方針を軽んじた戦前の軍部とそっくりである。

そうですね。何ら、反省の色もない。‘歴史は繰り返す’ (History repeats itself.) のですね。この道は、いつか来た道。

>メディアは歴史から何も学んでいない。

そうですね。学問は、日本人には難しいからでしょうね。
全ての考えは、文章になる。文章にならないものは、考えではない。
現実は、頭の外に存在する。現実は、見ることができる。見ればわかる。
非現実 (考え) の内容は、頭の外に存在する。非現実は、見ることができない。ただの話である。わかる為には、文章の理解が必要である。
日本人の判断によれば、見ることのできる内容は ‘本当’ のことである。見ることのできないものは ‘嘘’ である。誰も、見て来たような嘘をつく人間にはなりたくない。だから、自己の非現実を内容として語らない。これが則ち思考停止の状態である。思考停止の日本人が多弁なのは、偏に受け売りを専門にしているからである。これが、とりもなおさず危険な状態である。無哲学・能天気の状態であるからだ。
イザヤ・ベンダサンは、自著<ユダヤ人と日本人>の中で、我が国の評論家に関して下の段落のように述べています。
評論家といわれる人びとが、日本ほど多い国は、まずあるまい。本職評論家はもとより、大学教授から落語家まで (失礼! 落語家から大学教授までかも知れない) 、いわゆる評論的活動をしている人びとの総数を考えれば、まさに「浜の真砂」である。もちろん英米にも評論家はいる。しかし英語圏という、実に広大で多種多様の文化を包含するさまざまな読者層を対象としていることを考えるとき、日本語圏のみを対象として、これだけ多くの人が、一本のペンで二本の箸を動かすどころか、高級車まで動かしていることは、やはり非常に特異な現象であって、日本を考える場合、見逃しえない一面である。 (引用終り)


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行動あるのみ

2019-02-26 14:52:37 | 言語

>堀江貴文氏の心に響く言葉より… >とにかく、まずは「行動あるのみ」だ。 >僕はいつも、そうやって生きてきた。 >だから、痛い目も見たし、成功もした。

そのように、お見受けしております。 七転び八起きですね。

>時には耐え難いような苦しみも経験した。>しかし、その全てにおいて言えることは、「周囲の声を言い訳にせず、僕の選択で、僕の生きる道を選んできたから、何も後悔はない」ということだ。

そうですね。自主的な行動には後悔がありませんね。

>自分の選択で一歩踏みだしてみれば、大失敗することもある。 >大恥をかくこともある。 >しかし、それによって失うものなど、よくよく考えてみれば、何もないのではないだろうか。

そうも考えられますね。

>それによって傷つくものなど、あなたの「小さな小さな」プライドだけに過ぎないのではないだろうか。 >そして、そんな小さなプライドなんて、実は周囲は気にしてすらいない。 >失敗したときの周囲からの嘲笑(ちょうしょう)が怖いという人は多い。 >けれど、あなた以外の人間なんて、所詮あなた以外の人間だ。 >無責任なものだ。

そうですね。誰も他人のことに責任はとれませんね。

>あなたの悪口を言ったって、陰でバカにしたって、そんなことは次の日にはケロッと忘れている。>あなた以外の人間なんて、所詮そんなものだ。

そうですね。所詮、他人事ですね。

>そんな人間の目を気にして、あなた自身が自分の人生を無駄にしていいわけがない。

そうですね。同感です。人生を無駄にしてはいけません。

>自分の人生は、自分の責任でもって、自分自身で決めてほしい。

同感です。でも、日本人には意思がない。意思のないところには、方法 (仕方) がない。だから、日本人は、自分で自己責任が取れない。決められない。

>そして、一寸の後悔のないよう、いや、後悔したとしてもそれが自分の決断による後悔だから受け入れられるよう、そんな生き方をしてほしい。

それは、そうですね。

>そう、これまで僕は、著書はもちろん、あらゆるメディアを使って、行動することの大切さを訴えかけてきた(それが自分が本当にやりたいことなら)。>とにかく、うだうだ考えないですぐにやりなさいと。

そうですね。’ああでもなければ・こうでもない’、’あれではいけない・これではだめだ’ とばかり考えないことが大切ですね。

> 「言い訳」を並べたてて口を動かしている暇があったら、一歩を踏み出しなさいと。

ちょっと待ってください。考えもなく一歩を踏み出すことは危険ですよ。我々は、考える人にならなくてはなりませんね。

>しかし、これは僕の感覚だが、もし僕の著書を10万人が真剣に読んでくれたとしたら1000人ぐらいか。 >いやそう考えると1000人もいない気もするが…。 >まあ、人数のことはいい。 >実際、極端に少ないのは確かだと思う。

そうですね。考える人は、極端に少ないですね。

>一時的には、意識、気持ち、モチベーションを比較的多くの人が変えてくれる。 >でも、やらない、続かない、行動で示してくれない。

意識・気持ち・モチベーションは、感情的なものですね。一時的なものですね。日本人には意思 (未来時制の文章内容) がない。だから、優柔不断・意志薄弱に見える。’・続かない・行動で示さない’ ということになります。

>ある人が僕の講演を聞きにきてくれる。 >自分の貴重な時間を割いて聞きにきてくれて、僕の話に共感してくれて、その場では表情を変え決意を新たにしてくれる。 >だが、少したつとまた僕の講演を聞きにきている。 >この間にその人自身なんにも変わっていない。 >こんな人が多いのが本当に寂しい。

そうですね。変わらないのは、我々の民族性でしょうね。
非現実 (考え) の内容は、頭の中にある。それは、見ることができない。ただの話である。わかる為には、その文章の理解が必要である。文章の理解には、文法を覚えなくてはならない。だから、西洋人は、子供のために文法学校 (grammar school) を作った。日本人のように、バラバラな単語 (小言・片言・独り言) で生活していると、文法には焦点が当たらない。文章を理解する必要性も少ない。それで、人間は、歌詠みになる。バラバラな単語を取り扱う歌詠みには、理解というものが難しい。
司馬遼太郎は、<十六の話>に納められた「なによりも国語」の中で、片言隻句でない文章の重要性を強調しています。
「国語力を養う基本は、いかなる場合でも、『文章にして語れ』ということである。水、といえば水をもってきてもらえるような言語環境 (つまり単語のやりとりだけで意思が通じ合う環境) では、国語力は育たない。、、、、、、ながいセンテンスをきっちり言えるようにならなければ、大人になって、ひとの話もきけず、なにをいっているのかもわからず、そのために生涯のつまずきをすることも多い。」

>既存のレールに乗って生きていくことは、これからの時代、通用しなくなる。>僕が言う1%の人にならなければ、本当の意味で仕事に没頭することはできなくなる。

寂しいことですね。

>あらゆる分野において皆さんの想像以上のスピードでテクノロジーが発達しAIが進み、これまで普通にあった職業がなくなる。 >稼げなくなる。 >与えられた仕事だけこなしていれば安泰の時代はもうすぐ終わる。

心配なことですね。

>そんなことはありえないと思っているあなたが一番危険だ。 >自分から動き、何かを見つけ、仕事を生みだしていかなければならない。 >そうしないと人生を楽しむことができなくなるということをわかってほしい。>『好きなことだけで生きていく。』ポプラ新書

それはそうだが、言うのは易しく行うのは難しいです。

>『10年後、君に仕事はあるのか?―未来を生きるための「雇われる力」』(ダイヤモンド社)という藤原和博氏の本がある。 >それには、3つのポイントがあるという。 >1つめは、今の中・高校生が社会人になる2020年代の半ばには、多くの親が体験した「標準的な人生モデル」は追求できないということ。

すると、個性的な生活を送ることになりますね。

>会社で正社員にはなれないかもしれないし、大手企業に入社したとしても一生そこで働くのは珍しくなる。

そうですね。社畜の生活は、難しくなりますね。

>2つめは、言わずと知れたスマホと、それにつながったネット世界の広がり。 >いまの高校生は1998年以降の生まれになるが、グーグルも1998年生まれ。 >グーグル以前とグーグル以降は人種が違うと思ったほうがいい。  >この世代の若者は、人生の半分をネット上で暮らすことになる。

そうですね。情報の時代ですね。

>3つめは、人生の長さ(ライフスパン)が決定的に異なること。 >つまり医療が進み、平均寿命100年の時代に突入するということ。 >そして、 あらゆる面倒なことや手間のかかる仕事もロボットやAIがやる時代になる。 >すなわちこれからは、親とは全く違う価値観を持たなければ、生きていけない時代になったということ。

そうですね。立身出世の価値観は、下落しましたね。

>だからこそ、新たな仕事を生み出すという「創造」をしなければ生き残れないし、楽しく生きることはできない。

そうですね。非現実 (考え) の内容を現実の世界で実現すれば、それは創造力を発揮したことになります。そのためには、非現実 (考え) の内容を文章 (論文) にして表す必要があります。

>そのためには、まずは「行動あるのみ」。

ちょっと待ってください。考えもなく行動することは、危険ですね。
意思のあるところに、方法 (仕方) がある。Where there’s a will, there’s a way. 日本人には意思 (文章内容) がないから、仕方がない。それで、無為無策でいる。おとなしい。
暴挙に出たとしても、その説明責任 (文章内容) がとれない。だから、とかくこの世は無責任となる。

行動しなければ何も変わらない。

日本人に行動を強調すると、精神主義に走る危険があります。この道は、いつか来た道。
日本人には、意思はないが、恣意 (私意・我儘・身勝手) はある。恣意は文章内容にならないので、意味がない。だが、意思がないのだから、恣意を利用するに限ります。これは、アニマルと同じである。
わが国の指導者は、恣意を鍛えて意地・根性・大和魂とする。これが、わが国の精神主義である。武術を利用して精神の鍛練をする。すると、動作の機敏な人が生まれるが、リーズン (理性・理由・適当) のある人間にはならない。これが、日本語脳の持ち主の問題点であります。
我々日本人は、日本語と英語の両言語を学び、時制の大切さを十分に理解して自己の意思の表現方法を獲得し、世界の人と意思疎通を図ってゆかなくてはならないと思います。



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現実・非現実

2019-02-26 05:59:40 | 言語


>今日も暇でネットを見てみたら、ホリエモンが井筒監督を「人間として最低”という記事が飛び出す。>提供者は日刊スポーツ。>スポニチにはもっとまともな日本語が書ける記者はいないのかね?>それはともかく内容は井筒が何処かの雑誌に「最近の映画は売り上げ重視で表面だけとらえた虚像作品ばかりだ、もっと実のあるものを」と述べたのが、ホリエモンのカンに触ったらしく「虚像が未来の産業を作って行くんだ、虚像批判は過去の遺物」と反論。>さてここで筆者が述べるのは、堀江/井筒対立の発端となった虚/実の違いは何者か、ということです。

虚 (非現実・考え) と実 (現実・実験と観察) を組み合わせて使うと、我々の生活は豊かになるのではないでしょうか。これは科学的な手法ですね。

(略)
>現在問題になっているメーカーの検査データねつ造。>一般にはこれを”実”の問題と思うかもしれないが、これこそ”虚”が作った犯罪なのである。>検査済証など幾らでも偽造できる。>これこそが意味のないヒラヒラなのだ。>このヒラヒラをありがたがることこそが”虚”なのである。

実 (現実) は、頭の外にある。見ることができる。見ればわかる。
虚 (非現実・考え) は、頭の中にある。見ることができない。ただの話である。わかる為には、理解が必要である。
虚を実の内容に変えることができれば、それは創造である。
実を実で再現すれば、それは模倣である。
特亜三国の人々は、模倣が得意で創造が苦手である。模倣の競争は参入者が多くて、過酷なものになりがちです。

わが国には何でもある。だが、夢・希望だけがない。
何でもあるは、現実の内容である。夢・希望は、非現実の内容である。
だから、わが国には、’現実があって非現実がない’ ということになる。

全ての考えは、文章になる。文章にならないものは、考えではない。
矛盾のない文章は、すべて正しい考えを示している。だから、正しい考えはただ一つではない。幾らでもある。人さまざまである。
矛盾を含んでいる文章も、その矛盾を除去すれば正しい考えになる。だから、対話・議論は正しい考えを得るための役に立つ。

非現実 (考え) の内容を文章にするためには、文法に時制 (tense) というものが必要です。時制は、英語にはあるが日本語にはない。
時制のある文章は、非現実の独立した三世界 (過去・現在・未来) を表すことができる。
夢・希望の内容は、未来の事柄である。だから、未来時制の文章内容で表すことができる。時制がなければ、夢・希望もない。日本語脳の脳裏には時制が無いので、非現実の内容が思考停止の状態になっている。そして、暗記と受け売りの学習ばかりが盛んになっています。
我々日本人は、日本語と英語を共によく学び、時制の大切さを十分に理解して自己の考えを表現できるように努力する必要があります。
そうすれば、外国人との意見交換も円滑になるものと考えられ、実力をさらに伸ばすことが可能になります。世界に影響力を及ぼすことのできる人間が生まれます。



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今ここ

2019-02-25 13:31:13 | 言語

>精神年齢が低いというと、「ワガママを言う」や「好き勝手な行動をする」という特徴がイメージしやすいですが、実際には、対象世界が「自分だけ」、「見える範囲だけ」なので、相手の期待を捉えることができず、仕事の成果が上がらないという欠陥があります。

そうですね。対象となる世界が目の前の現実に限られていますね。

>仕事の成果も人間関係(そこで育まれた充足体験)と親や学校からの解放度(脱管理度)に規定されるといっても過言ではありません。

我々の人間関係は、序列関係でしょうね。序列順位に従って、恣意 (私意・我儘・身勝手) の自由度も変化しますね。

>リンクより引用します。
>1精神年齢が低い人の特徴 >・1-1基本的に他力本願 >[精神年齢が低い=中身が子供]ということなのでそのまま年齢だけを重ねると、親がやってくれる代わりに他人がやってくれるのを望みます。

そうですね。日本人には、意思がない。意思は、未来時制の文章内容であるが、日本語文法には時制 (tense) というものがない。だから、日本語脳裏には未来時制がなく、日本人には意思がない。
意思のあるところに、方法 (仕方) がある。Where there’s a will, there’s a way. 意思のない人は仕方が無いので、無為無策でいる。それで、他力本願、・神頼みになる。

>・1-2被害者意識の塊 >自己中な困った行動の根底にあるのは「私は悪くない。私は被害者。私を守って。」という被害者意識になります。

そうですね。意思のない人には、加害者意識がない。あるのは、被害者意識ばかりである。だから、恨みっぽくなる。

>・1-3自己責任の意識が全く無い >「周りがそうしろと言ったから」>「あの人に言われた通りにしただけ」などと、自分に落ち度が無いように立ち振る舞います。

そうですね。自分に意思がなければ、他人の指示に従うしかありませんね。意思のない人には、責任がありませんね。ちょうど、死刑執行人のようなもので。人は死んでも彼らは殺人罪に問われない。彼らには、殺意というものがないからです。

>2精神年齢が低くなる原因 >・2-1両親からの愛情不足 >子供は親の愛情が感じれないとそれを受け取るために色んな手を模索します。>その注目の集め方として自分が被害者になることによって親からの注目を集めるパターンがあります。

そうですね。被害者意識と恨みですね。すねて見せる。

>・2-2両親の過保護
>本当ならば子供の自立を促さなければならない部分も親が干渉してしまい、子供が親に頼りきったまま大人になってしまう訳です。>社会に出るまでずっと親の判断、親の保護下、親の責任の下で育ってきたので、いざ自分の判断を求められた時に決断できません。

そうですね。先輩たちの庇護のもとに育てられれば、現実生活には対処できません。世間の相場というものが、わからないからです。

>・2-3他人と正面から向き合ったことが無い >自分の気持ちが中心で、自分の感情に支配されて、自分の基準が世の全てだと思っています。

井の中の蛙ですね。

>本来は他人と向き合う経験をすると「自分の基準は他人には通用しない」というのが分かるはずなんです。

そうですね。同じ現実の内容を見ても、一方は号泣するし、他方は歓喜します。

>・2-4自己理解が甘い >精神年齢が低い人は自分の感情に支配され、ワガママになったり、すぐに感情的になったりします。

精神年齢の低い人は、恣意 (私意・我儘・身勝手) の人ですね。恣意の自由は、’自由のはき違え’ となります。社会活動に支障をきたしますね。

>他人と深く関わるには/相手の気持ち/相手の立場/自分の伝え方/自分の感情などをしっかり考える必要があり、その体験がとても重要です。

そうですね。

>3精神年齢が低いとどうなるか > ・3-1見える範囲が狭くなる >子供って自分の感情や欲求が全てですよね。>つまり視点が「自分の感情と今ココ」しかないんです。

そうですね。ナウな感じのする人ですね。

>周りにいませんか?仕事や上司などの愚痴しか言わない人。

居ますね。’あるべき姿’ の内容とその方法論に欠けています。

>こーいう人はまず経営者の視点がありません。>人の上に立つ上司の視点もありません。>職場環境も長期的に考えたらプラスかもしれなくても、長い目で見る視点がありません。

視点のない人は、指導者に向いていませんね。
矛盾を含まない文章は、すべて正しい考えを示しています。考えは、人さまざまですが、正解は一つではありません。たくさんあります。
矛盾を含んでいる文章も、その矛盾を取り除けば正しい考えになる。だから、対話・議論は、正しい考えを得るための有効な手段になります。

>今ココの感情だけで生きているので、今イライラするならそれだけで不幸だと感じます。

そうですね。’まだか、まだか、まだか’ と待っているのですね。

>3-2相手の立場や気持ちが分からない >要は相手を冷静に見る余裕が無いので、自分の感情のままに行動し、空気の読めない言動をしてしまいます。

彼は、自己中心的ですね。現実しか頭にない人は、浅薄であります。非現実 (考え) のある人は、思慮が深い。
非現実の内容を文章にするためには、文法に時制が必要です。時制は、英語にあって、日本語にはない。
だから、我々日本人は日本語と英語の両言語を良く学び、時制の大切さを十分に理解して自己の意思を示す手段を獲得しなくてはならない。
さすれば、外国人とも意思の疎通を図ることが可能になります。

> ~後略~