京都大原紫葉工房便り

京都洛北・大原の里のしば漬屋から、毎日!情報発信。

広島わがまま旅行の続き その4。

2010-04-26 14:12:44 | 中国・四国地方の石垣。
旅行が終わって、一ヶ月以上が経過してしまいました

記憶もおぼろになってきましたが
旅行記完結まで、あとわずか・・・
頑張って書きたいと思います



3月23日
広島県北広島町
芸北高原に宿泊

翌日24日
希望もむなしく、朝起きても、雨は続いていました

(折り畳み傘・レインコート完備です)

晴天なら
だだ広い芝生広場で走り回ったり出来る
子達の喜ぶ場所だったんですけどね~



母!のワガママ
いつもの石垣めぐりがバレバレじゃないか・・・
今回の旅行の最大の目的地へと向かうことになりました。

宿泊地からは、交通環境もよく
30分もかからない場所でした

目的地は
広島県山県郡北広島町海応寺
中国自動車道千代田インターもしくは浜田自動車道大朝インターから
車で15分ほどのところです。

といったら
歴史好きの人には分かるかな?

広島の戦国武将といえば
言わずもがな
毛利元就公ですが・・・

三本の矢の話で有名な三人の息子のうちの一人
次男・吉川元春の本拠地が
ここ北広島町だったのでした。

じゃ~ん!!



と、いきなり大きな石垣

お城?と錯覚してしまうほど大きな石垣ですが

こちらは、
吉川元春が長男元長に家督を譲った後に
1583年ごろ、隠居所として建てた居館跡です。
(この石垣は、その入り口)

*隠居の遠因?

備中高松城の戦い・・・1582年、羽柴秀吉の中国征伐で攻撃された高松城(岡山県)
           その救援に向かった毛利勢(元春・輝元・隆景ら)
           秀吉の水攻めによって膠着状態が続いたのは有名ですね。
そんな戦いの最中、秀吉に加勢するために京を出ようとしていた織田信長が、
明智光秀の謀反により、暗殺される。(本能寺の変)
そのことを知った羽柴秀吉は、毛利側にはこれを隠して・・・
毛利氏の外交僧・安国寺恵瓊を通じて毛利家と和睦、京へと引き返し
明智光秀を討ちとる。

和睦の後、事実を知った元春らは「秀吉に騙された!」と憤慨
元春は追撃して敵軍を壊滅することを主張したが、隆景に止められたらしい・・・

以来、秀吉アレルギー?となったのか
秀吉に仕えることを嫌った元春は、隠居の道を選んだらしい・・・です。

(ウィキペディア参照)
真偽はともかく、時代背景をつかみやすい話の流れです



さて
毛利元就関連の史跡は、あまり残っておらず
規模の大きさなどピンときませんが

こちらは
お城は別の場所、すぐ向かいの山にあるにもかかわらず
あくまで隠居所として、この規模です。

いかに権力が絶大であったかが分かります。
(由緒・歴史的には、本家の毛利家よりも格上だった吉川家)

とはいえ、元春が実際に居所として生活することはなく
建設半ばで病没しています。

実際に住んだのは、元春の三男の広家。
家督は長男・元長に譲られたのだが、彼もまた夭逝し、
(次男の元氏は、仁保氏の養子に入っていた)
広家が家を継ぐこととなりました。

1591年に豊臣秀吉の命で出雲富田城に転封されるまで
広家夫妻の居所として機能しました。

(北広島町教育委員会発行・吉川氏城館跡ガイドブックを参照)

ちなみに、広家が出雲へ転封された後は
この居館は、まったくの廃墟と化し
自然と朽ちていくに任せていたようです。

だから、人為的に破壊されることなく
これほどに昔のまま残された、というわけだそうです。

江戸以降、現在に至るまで
江戸への一極集中が進み
山中のこの地が再び脚光を浴びることはなく・・・

今に至って
歴史史跡として、新たによみがえったというわけです。


こちらでは、居館跡を見学することができ
ここで発掘されたものは
隣の「戦国の庭 歴史館」に展示されています。

*次の投稿で詳しく説明しますが
 こちらは、石垣王国ですよ~
 一度の滞在では、全部見れません~



てことで
(いえいえ、実際は、着いてすぐ、歴史館のほうを見学したのですが
歴史館に入ると・・・

じゃ~ん!!


(歴史館の入り口にど~んと立っている、さすがにレプリカでしょう

3メートルほどはあるでしょうか
赤の十三馬簾(ばれん)が目立つ
『婆々羅の馬印』

吉川元春の三男
吉川広家が
名将・加藤清正から譲られたもの
(ちなみに、広家と清正は一才違い、広家のほうが上ではあるが・・・)

馬印とは
戦場で大将の位置を知らせるために
のそばに立てられた目印
味方の戦意を高揚するために掲げられます。

ですけど

なんで、また加藤清正から?
(あまり接点がなさそうじゃないですか
 尾張・京住まいの人と、中国地方の人)
で、もって、なんでこんなにデッカイわけ?

と率直な疑問が芽生えたのですが

ここにも、れっきとしたドラマがあったようです。


(豊臣政権下での朝鮮出兵において・・・)

敵国・明と朝鮮に、「日本で一番強い奴」と恐れられていた加藤清正
慶長の役では、順調に出兵をすすめ、新たに蔚山倭城を築いていたところ
明・朝鮮の大軍に急襲された・・・
*蔚山(ウルサン)城の戦い

わずかな軍備で応戦した清正
援軍の来るのを待ったが、なかなか来ない・・・

あかんわ、もう、これまでか・・・
と死をも覚悟した頃
毛利秀元らの援軍、総勢2万の兵が現れた!
(秀元は、毛利元就の4男の子、本家の毛利輝元や吉川広家のいとこであり
 慶長の役では病気の輝元に代わって毛利軍3万を率いて右軍の総大将となった)

とはいえ、まだまだ予断を許さない状況
双方にらみ合いが続いていたが・・・

毛利秀元の軍勢から
二引両の馬印を掲げた一軍が、反撃に転じた!

見事な勢いに、あとの軍も続き、一気に形勢逆転 

明・朝鮮軍を敗走させた

戦いの後
先陣を切った大将が吉川広家と分かると
清正は彼を招いて礼を言い、勇猛果敢ぶりを褒め称えたという。
そして「あなたの二引両の馬印は、小さくて目立たないから、大きいものに変えた方がいい」とアドバイス?をしたそうで・・・

「だったら、貴方の馬簾の馬印を賜りたい」と願い出た広家
清正も、喜んで使用を許し、・・・
清正が銀の九本馬簾にしていたところ、
広家は、赤の十三馬簾(婆々羅)にして使用した
馬印いろいろ

というわけで
超ド派手な馬印が誕生したようです

悪評高い?関ヶ原出陣においても
この馬印をはためかせていたそうです。

(内通していた東軍・徳川家康に向けて、
 「戦わないよ~」と大きくアピールしたのでしょうか
エピソード「宰相殿の空弁当



何はともあれ
今まで「知略の武将」のイメージだった吉川広家公でしたが
この馬印の逸話は、
父・元春公譲りの猛将ぶりと義理深さを印象付けるエピソードなのでした。



(史実かどうかは、もうちょっと調べてみないといけませんが
 清正公から贈られたことは確かなようで
 元春公が再建した龍山八幡神社という由緒ある神社の宝物になっています)