京都大原紫葉工房便り

京都洛北・大原の里のしば漬屋から、毎日!情報発信。

わが故郷の広島城 パート2。

2012-01-08 17:11:59 | 中国・四国地方の石垣。

前投稿「わが故郷の広島城 パート1」からの続きです。

 

天守閣東側に連なる石垣群の上を散策した後、天守閣に上がってみました。

天守閣は、鉄筋コンクリート造りになっており、内部は資料館になってます。

お城や藩・郷土の歴史などが展示してあります。

子連れですので、飽きない程度にさらさらっと見学し、最上階へ・・・

 

落ちないように柵がしてあり、360度眼下を見渡すことが出来ます。

 

(通ってきた、本丸北東方面) 天守閣からは、東向きになります。

 縮景園や広島駅・東照宮のある二葉山があります。

 北側小天守跡の土台があり、北東角にかけて、石垣が続いています。

 

 

(本丸西側方面) 天守閣からは南向き

 南小天守台・護国神社・遠くに二の丸が見えます。

爆心地は、南西あたりになると思います。

遠くに広島湾・宮島の弥山が、見えます。

 

(天守閣から北方面)

 

お堀のすぐ北側に、県立基町高校

写真中央の後ろの、プリンみたいな山・・・武田山

安芸の守護・武田氏の本拠地であった銀山城がありました。

毛利元就・・・厳島の戦いの前哨戦として、銀山城を攻略し、支配下としたそうです。

 

ちなみに、写真には入りきりませんでしたが

写真のちょうど右中央あたりに、

毛利輝元御一行が築城地を選定するために登ったという見立山(牛田山)があります。

 

武田山では不便だったために、交通の便の良い、太田川の下流域を選んだそうです。

 

天守閣を出た後は、南側小天守に連なる石垣の観察をしました。

この、本丸西側部分においても、前投稿での東側部分のように、二重の砦が築かれていたようです。

内堀(西方向)  ←   こんな感じ(奥に天守閣)

 

その石垣群の途中・・・

元からそうだったのか、近年便宜的に作られたものなのか、分かりませんが、

お堀に下りていく階段があり、

その石垣の途切れた部分が、むき出しになっていました。

 これは、意図的? 

どうして、代表的観光地のメインルート部分が、こんなにむき出しなのか?

やっぱり意図的に見せているのでしょうか?

 

個人的には、石積みの構造が見て取れるので、残しておいてほしい部分であるが・・・

 

過去の水害か原爆の際に破壊された部分に、遊歩道(お堀沿いに歩くための)を設置した、

というのが、正しい解釈か?

勝手な想像にすぎませんが・・・こういう遊びのある部分が大好きですね~

時間があるので、天守閣の周りをぐるりと歩くことにしました。

ドングリが沢山落ちていたので、長女を誘導するのに便利でした。

そうでないと、お母さんのワガママ全開になってしまいますからね

  ↑                        ↑

北西角                   南西角

 

  ↑  北西角 ・・・石落としがあります。

 

          ↑

        北東角              奥に、本丸北側石垣群(勝手に命名)

 

         

        ↑                      ↑          ↑

東側小天守との接続部分            北東角     北西角

 

  ↑  小天守の北東角

 

本丸北側のお堀沿いをしばらく歩き、振り向くと・・・

ナイスビュー

                            ↑      ↑

                 小天守・北東角     天守閣の北東角

 

本丸北側石垣群のナイスビュ~      とくとご覧あれ 

毛利輝元築城当時の、野面積みだそうです。

近江穴太衆を連れ立っての築城だったそうですが、それほどコッテコテの穴太積みは見受けられません。

 

←東方面                  →西方面(天守閣)             ↓ 内堀(本丸北側)

 

そして、この石垣群・・・

東方面に歩いていくと、お堀の東側畔の手前で、石組みの状態が一変します。

 ↑  もひとつ前の石垣と比較してもらうと、よく分かりますが・・・

ひとつ前の写真の石垣が、あまり成形してなくて、優しくて素朴な印象なのに対し、

こちらは、かなり人工的でシャープな印象であるのが分かります。

「打ち込みハギ」・・・こちらは、福島正則治世時に改修された石垣だそうです。

 

そ~です

噂の、幕府の怒りを買って改易する羽目になったという、不吉?な石垣です。

幕府に無許可で石垣の改修をしたから…っていう、アレです。

 

ど~も、よくよく聞いてみると、ほんと言いがかりっぽい話で、

ある年の水害で、ここの石垣が崩れてしまったから、改修・・・

(ちゃんと改修届を出したんだけど、途中で握りつぶされてたとかいう説もあるらしい)

幕府に注意を受けて、石垣を元通り崩したら、許してやる、と言われたんだけど、

それをしなかったから、罰として改易になってしまったらしいです。

 

とっても不運だ。

広島は、住んでたらよくわかるんですが、(発達した現代でさえ)水害や高潮被害の多い土地。

それなのに、まともに改修が出来ないようでは、ほんま不便でたまりませんね。

よくよく江戸時代とは窮屈な時代だったんですね。

 石垣横の大きい木 ・・・あの辺から、野面積み~打ち込みハギに変わってます。

「ごめんなさい、私のせいで・・・」  てとこですかね。

 

ここも、説明書き何にもなし、ですが、かなり重要なポイントです。

不自然に崩れているので、すぐに分かります。.

本丸北東角です。

 

しかし、まあ、天守閣以外、ほとんど何の看板もないお城でしたね。

人様のブログで勉強するしかありませんね。

 

下記のPDFパンフレットは、石垣の貴重な資料となりました。

ぜひご覧ください。

www.rijo-castle.jp/rijo/pdf/sirouya26.pdf. 

 

中国地方石垣百選に選ばれてるのだそうです。

(石垣を讃える会という団体があるそうです

ぜひ制覇してみたい!

 

良い目標が出来ました