日々雑感

心に浮かんだこと何でも書いていく。

 アジャンタ

2007年11月15日 | Weblog
 アジャンタ   
 
 エローラを見学した翌日、バスを利用してアジャンタに行った。
アジャンタはデカン高原の北西、アウランガバードから北へ100キロほどのところにある、仏教の石窟寺院である。
 馬蹄形をえがいて流れるワゴーラー川に沿って、600メートルにわたる岩の断崖をくりぬいて、塔院窟5つと25の僧院・ビハーラからなっている。サルナートの根本香積寺の壁画を描いた野生司香雪も、大正時代にここを見学したとか、日本とは、古くから付き合いの有る遺跡だなと感慨深かった。
バスの発着所前から少し階段を上って入り口に到着。入り口には、入場料のオフィスがあって、ビデオカメラの使用料は大した額ではないが、また別に徴収される。

 エローラに比べると、穏やかで静的である。最初から最後まで、すべて仏教に関するものであった。 
 作りは大きく分けて前期、紀元前1世紀から1世紀にかけて、と後期5世紀中頃から7世紀にかけての、2つに分かれる。おとなしい感じがしたが、その中に秘められた力強さは不気味なほどであった。
 到着したのが11時過ぎで,ものすごく日差しが強く、暑い。ところが窟院の中に入ると極暑を忘れる。これは極楽と地獄じゃないか。
大袈裟だが、僕は本気でそう思った。ここにいて仏道に励んだ修行者達も、きっとそう思ったことだろう。たしかに酷暑を避ける人間の知恵には、
違いないが、これを作る段階では、どれほどの苦労があっただろうか。
その大変さが偲ばれた。
 
前期には仏陀の姿を表すものはなく、卒塔婆や舎利などが、仏陀のシンボルとされていた。
後期になると、仏像が刻まれて鎮座している。特に第1窟のライトに浮かび上がる壁画は、これが日本の法隆寺壁画の原画かと感動した。
この遺跡の壁画は日本に直結している。
第1号窟と第二号窟の壁画をみて、法隆寺の金堂に描かれた壁画そのものが、ここにあるとも思った。こちらのものは法隆寺のそれに比べると、
かなり大きい。しかし実に良く似ている。
それに何番か忘れたが、大きな釈迦の涅槃像がある。僕はこの前に立って、こっそり写真を写してもらった。そしてこれがアジャンタの唯一の記念になった。
この当時の仏教芸術は、ここからはるばる、日本までやってきて、日本で止まった。太平洋は渡らなかった。
ブッダン サラナン ガッチャミー   (仏に帰依したてまつる)
ダンマン サラナン ガッチャミー   (法に帰依したてまつる)
サンガン サラナン ガッチャミー   (僧に帰依したてまつる)

 断崖にほられた洞窟の奥に、祭られた釈迦像の番をし、説明していた中年の女性は、この三宝に帰依し奉るという経文を、ソプラノの美しい声で唱えた。それは洞窟の中で反響し合い、神秘で荘厳さを増した。よく問題にする仏の世界の音楽とはこのことか。
それだけではない。疲れた僕の心に甘露の雨を降らせた。聞きほれるというわけでは無いのに、疲れた体はくぎ付けになった。 
 外は猛烈に暑い。しかし今の僕には暑さも、小商人がまつわりつく、
あのうるささも何も無かった。
あるのは耳の奥でわーん、わーんと響くこの経文の響きだけだった。
 僕は三帰三きょうを唱えてみた。
でし、むこうじんみらいさい 帰依仏 帰依法 帰依僧
でしむこう じんみらいさい 帰依ふっきょう 帰依ほうきょう 帰依そうきょう
意味は同じだが、響きの美しさには雲泥の差があった。
女性は続けて三回歌った。いや唱えた。

 お釈迦さんの説かれたお経には、なん曲か、メロデイをつけて合唱曲を作曲した経験のある僕だが、これほど単純な節が、これほどまでに心に染みるとは思ってもみなかった。きっと今後作曲する際に1つのクライテリオンになるだろう、そんな気がして、そこを立ち去るのは勿体無いような気がした。
もし僕が現地の言葉に堪能なら、心からお礼をいったことだろう。しかし僕はお礼の言葉もかけずに、そして僕の感動を伝えることも無く、またドネーションもせずに、そのままそこを立ち去った。沈黙を保ち、感動を逃がさないように、他の事に気を奪われないように、自分を覆い囲んだのだが、あの女性に感動を伝えなかったのは、返す返すも残念なことだった。

 アジャンターの見学は3時間ほとで終わった。
エローラのカイラーサナータ寺院が持つ、男性的で迫力のある作りには、否応無く圧倒されて感動した。それは心臓が波打ち、呼吸が荒くなるような激しいものだった。それに比べてアジャンタの石窟で受けた感動は、低周波の振動のように、大きなうねりであった。波長が長いために深い海の底から伝わってくる、あの大きなうねりで、感動が体全体を包んでしまうようなものであった。動的と静的、と対照的に表現しても、その感動の大きさは優劣の差がでるものではない。
ブッダン  サラナン  ガッチャミー  (仏に帰依したてまつる)

ダンマン  サラナン ガッチャミー   (法に帰依したてまつる)

サンガン  サラナン ガッチャミー   (僧に帰依したてまつる)

421号室

2007年11月15日 | Weblog
話はバンコクの中央駅の西の、ごみごみした所にあるkホテルの421号室のことである。ここのホテルで殺人事件があったらしいという噂が流れたことがある。
 
なんでも金を持ち逃げした犯人が見つかって、ここにつれてこられて、リンチを受け死亡したという話しで、それから3ヶ月ほど、此の部屋は開かずの部屋だったとか。

 彼はソウルから乗り込んできて、飛行機の中では、僕のひとつ前の席に座った。
日本人のよしみで、気安く、お互いに話を交わしたが、彼はドンムアン空港に着くなり、そのまま夜行列車に乗って、ノンカイ迄行くそうである。ノンカイからは川を渡ってラオスに入る。

その列車が8時にバンコク空港駅・ドンムアン、出発するのだという。わずか30分ほどしか時間がないのだけれど、トライしてみると張り切っている。

飛行機は7時40分に空港に着いた。大急ぎで、彼と僕は入管のところまで走った。手続きを待っている間に彼は次のような話をした。

 「最近kホテルに泊まったが、噂によると、このホテルで殺人事件があったらしい。なんでも、金を持ち逃げした奴が捕まって、このホテルに連れてこられ、421号室でリンチを受け、殺害されたらしい。

そうとは知らずに彼は、その部屋に泊まった。別段異常も何も感じなかったけれども、あとでそのうわさを聞いて、ぞっとした。
 
 やはり、値段が安いだけのホテルを探すのは問題がある。小さくとも信頼がおける、なじみの安宿をバンコク市内で探して、決める必要がある。」
と言うような意味のことを彼はいった。これには僕も同感だった。
いくらバックパッカーだといっても、何が何でも、安ければいいというものではない。
 
 以前僕は窓もない囚人部屋のような、ゲストハウスに泊まったことがある。
 普通の所は200バーツほどしているのに、そこはたった70バーツだった。その日はあいにく、どのゲストハウスも満員で、仕方なく、泊まらざるを得なかったのだ。
 
結論から先に言えば、そこはダニの巣のような所だった。あちこちかまれて、方々の体で逃げ出した経験がある。あれ以来僕は清潔第一にして宿を探している。例えば毎日必ず掃除はされていて、
シーツは洗濯されたものかどうか、風通しはよく、ベッドのシーツは色柄模様や、色つきのものでなく、真っ白な病院のベッドのようなものかどうかなど、チエックポイントにしている。

ところがその部屋で、もしくはそのホテルで殺人事件や自殺があったかどうか、チエックを入れると言う事までは、今まで気が付かなかった。
ホテルで、人が死ぬということはたまにはあることだ。病気の場合もあるし、自殺することもある。
 日本ではよく、ラブホテルが殺人の現場になっている。痴情や物取りのあげくの犯罪である。

 確かに、日本と違って警察制度が確立されていても、その機能が不備なために、人口1000万人のこの大都会の場末では、犯罪者が殺されたって、表ざたになって事件になるよりは、闇に葬り去られることの方が多いのかもしれない。
 
 つまり、そのような、無法で危険な部分も影として、この大都会は、その中に内蔵しているのである。めったに表面上に浮かんでこない事件なのかもしれないが、ひとり旅の僕は気を付けなくてはと心を引き締めた。しかし具体的にはなんの手だてもなかった。

実はその噂のホテルには、僕は何も知らずに、泊まったことがあった。何か異様な感じがして、目が覚めた。部屋は明かりを消しているので真っ暗だが、見れば廊下の蛍光灯の光が真っ暗な部屋に漏れてくるのであるが、ドアの隙間から漏れてくる明かりが波を打つと言うのか揺れているのである。

 おかしいなとは思ったが、しばらく様子を見るために、体を横にしてその扉を見ると、光はそのままで動かなかった。やっぱり僕の寝ぼけか、勘違いだったのかと思って、寝ようとすると、廊下と扉のすき間から漏れてくる光が、また波を打つ。それはドアの向こう側て懐中電灯を揺しているみたいである。そこで僕はカバっと跳び起きて、急いでドアを開けて、廊下の方を見た。

 廊下には人は誰もいない。いつものように、天井には蛍光灯がついているだけで、その蛍光灯が、チラチラしているわけではない。蛍光灯は天井でじっといつものように、光を放っている。
外国に来ると、日本では見ないような夢を見ることがあるので、きっと、疲れているのだろうと思って、またベッドの上に寝た。

そして以前と同じように、すき間の光を眺めていると異常はなく、光はじっと漏れてくるだけである。先ほどのように、その漏れてくる光が波うついうことはない。きっと疲れていたのだろう、これは気のせいに違いない。僕はそう思って目をつぶらうとした。

 ところがまた漏れてくる光が波打ち出した。気味わるかったが、
その光の揺れを、見ないようにして放っておいて、ぼくは眠ることに専念した。
 
 何のサインかは知らないが、その光が自分の体にまとわりつくとか、馬乗りになって息苦しくなるとか、そういうことは一切なかった。だが僕はこの経験もだれにも話さなかった。
ところがこの若者の話がきっかけになって、あの夜の不思議な体験を思い出した。

件の部屋が421号室だったかどうかは記憶にないが、いずれにせよ、殺人という犯罪が、その部屋で行われたという事は根も葉もない噂ではない、とぼくは思った。
それから、僕は、そのホテルには一切泊まらない事にした。

 僕の経験と、彼のうわさを付き合わせて考えるならば、どこかで符合しているように思えてならなかったのである。

 ここにもう一つの体験談がある。僕の体験と似たような体験をした人の話である。彼は香港ではかなり高級なホテルに泊まった時に体験したことらしいが、やはり、廊下の蛍光灯がドアのすき間から漏れて、波うったというのである。彼は、気持ち悪くなって、夜が明けると同時に、早速とそのホテルをチェックアウトした。後で聞いてみると太平洋戦争で、香港に進駐した日本軍が、スパイとおぼしき現地人を何百人か殺して埋めてたそうである。つまりそこは刑場であり、墓場だったのだ。

 その上にこのホテルが建ったということである。観光ブームによって、香港では土地がないために、古いものは全て壊して、そこに新しい、ホテルやビルを建てたらしい。

 この話を聞いたときに、ひょっとしたら、僕の泊まったホテルも都市の膨張に従って、もとは墓場だったのかもしれない。あるいは単に彼が言ったように、ひとりの人間が殺害された、その現場だったのかもしれない。

 いずれにせよ、旅で疲れた神経を休めるためのホテルが、薄気味悪いようでは話にならない。
あれ以降、僕はできるだけ調べるようにして、安宿を決めることにしている。
同じ宿に10回も泊まれば、こういう話しはどこかから聞こえてくるものである。

幸いなことに、僕の定宿は今のところそう言う気配も噂もない。眠れないのは、僕が勝手に興奮して、神経を立てているせいだ。