日々雑感

心に浮かんだこと何でも書いていく。

記事のタイトルを入力してください(必須)

2014年09月17日 | Weblog
アメリカの9,11
人々は想像を絶する.テロだというけれども、よくよく考えてみるとこのテロを許したということはやはりぬかっていたとしか言いようがない。9月11日歴史上経験のなかったテロ攻撃を受けてアメリカは騒然となった。いや世界中が驚愕と恐怖の渦の中に巻き込まれた。
テロや犯罪を未然に防ぐ役目を持つCIAは完全にメンツをなくした。

テロリストたちはアメリカ国内定期便の航空機を使ってニューヨークにある二つの貿易センタービルを攻撃し完全に破壊した。犯人はもちろんのこと、飛行機の乗客やふたつのビルで働いていた人たち、約6000人と言われる人々を巻き込んで大惨事をひき起こした。
それにとどまらずアメリカの国防をつかさどる国防省にも同じく、飛行機を激突させて建物を大きく破壊させた。ここでも約200人の犠牲者が出た。
後の1機はおそらくホワイトハウスか議会の建物を狙っていたに違いないが、これはピッツバーグ郊外に墜落した。この事実・同時多発テロが報じられると全世界が騒然となった。
特にアメリカでは大統領がホワイトハウスを避けて別の場所から指揮するという異例の事態となった。
僕は日本のテレビ局が放映するテロニュースだけでは満足せず、アメリカのテレビ局たとえばCNNやABCの放映に目と耳をそばだてた。この冷酷無悲で冷徹な計算し尽くされたテロの計画と実行に激しい憤りを覚えると同時に罪もなくこの災難に巻き込まれて命を失った人々に対する哀悼の気持ちに心を奪われて寝つきが悪かった。

中秋の名月
あれから三週間がたった。今日は 10月1日。仲秋の名月である。
秋ばれの夜空に煌々と輝く満月は、ここ京都の秋の夜空をロマンチックに染めあげている。
水面を渡る風はかすかに頬をなでて通りすぎるが、半そでシャツ姿では寒い。

1960年代のことだからもう30何年も前のことになるがアメリカはアポロ11号によって月に人を送り込んだ。
そこはウサギが餅をつくようなロマンチックな場所ではなくて、ごつごつした岩肌や冷たい砂があるばかりでこの地上にたとえれば、それは人のすすめない砂漠のようなところであった.
それでも地球上から眺めると、何とも言えないロマンチックな雰囲気を醸し出すもので、昔から人々に多くのロマンチックな気分を与えてきた。平安時代の竹取物語から月の砂漠まで
月は見る者をロマンチックな気分に誘い込んだ。
平安貴族は大覚寺の隣にある広沢の池に船を浮かべて、澄み渡った秋の夜空に輝く満月を見るのに平安貴族特に女性は衣装にも凝った
緋の色に白い衣を重ね着して月見の雰囲気を盛り上げた。趣があるといえばそうだが
現代の生活テンポに重ねあわせてみると、ちょっと間抜けのような気がしないわけでもない。
優雅とはこういうことを言うのかもしれないが、気分的にはついていけないところがあるのは、現代という時代にどっぷり浸かってしまっているからかもしれない。
そうはいうものの、池に船を浮かべ、夜空に輝く満月と、池に姿を映す満月を両方を堪能するまで味わうというのは、なかなかの趣向である。
少なくとも現代のビジネス感覚が染みついた多くの人々が考えもしなさそうな発想である。
女性にしゃくをさせて酒を飲む平安貴族の姿が目に浮かぶ。

今回のの同時多発の首謀者は、アルカイダというテロ組織の頂点に立つ、ウサマ・ビンラビンという男とこの一派と言うことが判明した。確たる証拠は無いが、状況的には彼らが犯人と推定できる状況証拠はアメリカによって判明している。
一体なにを目的にこんな無法、非情なテロを起こすのだろうか。彼らはアメリカの世界支配に反対するための、または超大国
アメリカの覇権によって虐げられたイスラムの人たち、の恨みを晴らす復讐とする大義名分を建てるかもしれない。しかし今回の事件の結果を見ると、彼らの行動によってとりたてて何かが変わったと言うことは無い。ましてや彼らの主張が世界的に認められて
と言うことはなにもない。それどころか、彼らの主張ややり口は世界中から反感さえ買っている。
彼らの主張と行動は単に彼らの自己満足でしかなかったのだ。
彼らはこのテロを正当化するために聖戦・ジハードという言葉をよく使った。聖戦はイスラム教が他の宗教によって攻撃を受け、それを撃退するための聖なる戦いを意味するとすれば、彼らの主張する聖戦はもって非なるものである。何の罪もない大勢の一般市民を殺傷して無いが聖戦か。生きている人々をよりよく生かすためにあるのが、宗教で、多数の市民を巻き込んで死傷者を出し、人を不幸のどん底に陥れる聖戦なんてあり得ない。人の命を奪ってなにが宗教か。
宗教と言う次元からはあまりにもかけ離れた便宜的な主張でとても容認できるものではない。

今度のテロの結果としてアメリカでは貿易センターで働いていた人々を中心に、アフガン難民や戦争の巻き添えを食らって死亡したアフガンの人々など、また今回の戦争に参加して命を失った多くの兵士、犠牲者はどのくらいまで広がるかしれたものじゃない。このような事態を引き起こしたイスラム原理主義過激は責任を問われて当然である。
ウサマ・ビンラデインおよび彼に同調した者たちが、裁かれるのは当然のことである。
己を認め、彼を認めてこそ共存できると言うこと、それが現代の世界常識であり、世界のルールであると言うことをわきまえずに、大勢の人を苦しみの奈落に突き落とした ウサマ・ビンラデインは世界中から指弾されるのが当然である。

結論。
過激な主張には真実はなく、その主義主張を行動に移したところで、この世はなにも変わらなかった。ただそこには大勢の人々の命の犠牲が残っただけだった。