日々雑感

心に浮かんだこと何でも書いていく。

ネパール行き

2018年04月11日 | Weblog
       
目的
 

ネパール行きの目的は確たるものがなかった。無目的ではなかったが、さりとてなにかを目指してというものは何もない。
 確かにヒマラヤの山を見たいとは思ったが、行ったのが九月で、まだ雨季であ・ 幃から期待はしてなかった。ただインドと比べると天国だという話はよく聞くのでそれならばという思いぐらいである。 実際にカトマンヅに来てみて、確かにインドとは違う。だいいち人情がネパールの方が日本人に近いような気がする。インドで味わったあのいやな思いがなく、ネパールの人とは気を許して付き合える。それにインドのあの暑さはなく、風は限りなくさわやかでやさしい。やはりお釈迦様が生まれなさった国である。ルンビニは時間がなくて行く事は出来なかったけれども、さわやかで親切な人が多いような気がした。
 

インドでいやな思いをした時には、貧しいから人を騙したり、脅したり、嘘を平気でついたりするんだろうと思って、ある程度は仕方がないと自分なりに解釈をして、納得していたが、ネパールへ来てみて、必ずしもそうではないということが分かった。貧しさの点から言えばネパールの方が上であるから、インド以上のことがあっても良い筈だ。しかしわずか1週間の滞在だったが、北東インドで味わった、あの不愉快さはたったの1回もなかった。こんなによい人の集まった国でありながら、貧しいというの・ 6ヘ何が原因しているのだろうか。


知恵がないのか、技術がないのか、教育がないのか、いろいろあろうけれども、自分なりの結論は工業国でないからだということであった。
農業や観光収入ではいつまでたっても豊かにならない。そんな事は百も承知はしていても、現実には何かが足りなかったり、社会がそこまで成熟していない上に、宗教上の禁忌などが重なって、社会の発展のテンポを遅々たるものにしているのだろう。やはり時間が必要という事なのだ。
仕方がない。大それた事を考えないで、自分の甲羅の大きさにあわせて、何か出来ることがあったらさせてもらおう。僕がネパールへ来て考えたことはこの程度の事であった。

東南アジア
 インドでは生死の問題について考えた。特に生きること、漫然と生きることではなくて命のほむらを燃やして、一生懸命に生きることを真剣に考えた。
  ベトナムではフランスに代わって、アメリカ流のビルディング・ +ェ建ち初め、サイゴンはそこに住む人々の発するエレルギーの溢れんばかりの大きさに、気後れすると同時に積極的に勇気づけられた。
カンボジャでは無実の中で、無残に殺されていった百万人以上の人々に、同情の涙を流し、タイ、バンコックでは日本以上の経済成長に目を見張った。
 五十階建てのビルがあちこちに散見されるので、大阪以上の経済力かと評価したが、それはバブルであったことが近ごろ分かり、これから先、十年の苦難が想像出来る。
総じて、僕が歩く東南アジアは二一世紀に向けて元気がよい。押し寄せる大波の地響きのようなあの活気が感じられるが、それが何ともいえない魅力である。その活気やエネルギーを身にうけて、僕も大いにやる気が出るのである。すくなくとも日本に帰り着いて三ケ月間は、やる気が体内に充満している。三月は持つ。その間に取材の整理をして、それからまた出掛ける。治る事のない海外旅行病にかかっているのかもしれない。いやきっとそうだろう。 

小学校

2018年04月11日 | Weblog
                  
 小学校
 話に夢中になりながら、スワヤンブナート寺院を降りたので、どこをどう通ったのか分からないが、彼女の務めていた小学校はレンガ作りの三階建の校舎で、ビシュヌマチ川のすぐそばにあった。僕は最初、門の外で彼女が用事を済ませるのを待っていようと考えていたが、彼女が誘ってくれたのをいい

ことにして、遠慮もせずに中にはいった。

彼女の来訪を知った先生方は肩を抱き合 ナって喜んで迎えていた。ここで僕は彼女がこの学校で、すべての先生方から愛されていることを知った。そしてわずかな会話を交わしただけだが、僕が推量していた通りのお人柄のよさが裏付けされたようで、うれしかった。

この小学校は日本人と深い関係があり、子供たちには日本人の里親がついているという。ネパールでも恵まれない子供たちの教育を引き受けて、先生たちも奉仕のような薄給でありながら、ここの子供達の教育に生きがいを見いだしている人ばかりの集団だと側聞した。僕は先月なくなったマリアテレサの例を引き合いに出しながら、利他の精神がどれほど貴いものか、それゆえに先生たちの活動が非常に貴いもので、僕は心から先生たちを尊敬すると、思っているままをお世辞抜きで、率直に伝えた。校長先生をはじめ先生方のもてなしに感激した僕は、子供達に歌をプレゼントすることを約束して皆に別れを告げた。
この学校で僕は彼女の美しさを再発見した。最初あの急な石段の最後の1つの足を懸けたときに見た、彼女の美しさはゆっくり味わう程の余裕がなかった。石段を上るのがやっとのことで、彼女の美しい輪郭が分かった程度だった。しかし今見る彼女・ フヘ利他の精神の輝きを醸し出して心の底から美しい。すらっと伸びた長身のスリムなスタイルに長い髪がそよいでいる。

加えてうつくしいハートの持ち主にちかいないと自分勝手に想像しているソプラノのはっきりした声、そのどれもが僕を魅了した。僕は彼女と並んで歩いたが、なんだか気恥ずかしくなってうつむき加減になって足は地についてなく、ふわふわした感じで自分の胸の騒ぎを眺めていた。
  学校のすぐ横にかかっている吊り橋をわたり、ダルバール広場に通じるところで別れたが、彼女後を追いかけたくなる自分を必死で押さえ込んだ。
いつかまた会いたい。それは多分日本でだろう、そう期待して僕は住所と電話番号、それにフル、ネームを聞いておいた。僕は今彼女に自分のことをなんと自己紹介したか覚えていない。