日々雑感

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クリシュナ神0

2018年12月09日 | Weblog

            

バリンダーバン
 
ニュデリーのホテルの前からバスに乗って、アーグラとマツーラの観光に行った。途中交通事故が有ったので渋滞がおき、マツーラ到着は夜8時過ぎだった。

マツーラ近郊の、ブリンダーバンというところは、クリシュナ神 が幼少を過ごした所で、とりわけ宗教に関係の深い街である。日本で言うならさしずめ、遍路巡礼都市とでもいうところだろうか。夜のこと、どこをどう通ったのかわからないが、ツアー客は一団となってガイドの後をついて行った。
 
日本では神さんは、お宮・神社に祭ってあるから、さしずめお宮さん、神社参りということになる。日本のように別棟になっている訳でなく、軒を接していたように思うが、夜道のことでよく分からない。劇場のような感じのする所へ入って行く。

入り口を入ると幅2間くらいの土間の通路が有り、奥に向かって左手には、70から80センチの高さの床が作られて、一段高くなっている。奥ではローソクを一本灯して、御詠歌だろうか、粗末な身なりをした年寄りが二人、高低のない単調な歌を歌っている。近づいてみるとそれは老女だった。
 人々は靴を脱いでローソクと、裸電球と、薄暗い蛍光灯の光を頼りに、床に上がり腰を下ろした。
 
僕はといえば、神さんを拝む訳ではない。あくまで観光、冷やかし気分で来ている。上り口のところには寄付を求める賽銭箱があった。賽銭箱といっても日本でいう、あんな大きなものではなく、三宝さんの足のないやつ、というところか。
 賽銭の額が知りたかったのでこそっと覗いて見た 。100ルピー札が何枚も見えたので信仰の篤さがわかるような気がした。

確かに日本と違った信仰への思い入れが感じられて、インド人の信仰熱心の篤い思いが伝わってきた。
それはそうだが、賽銭の額など見えない方が良い。見た後で僕はそんな感じも持った。
見えると催促がましく感じたからである。
 寄付の看板は、勿論字が読めないからわからないから、推測するほかはないのだが、瓦のご寄進は1万円という風に書いてあるのだろう。
                
 クリシュナ神

 日本では、仏像は見えても、神像はめったにお目にかかることはない。というより神像は仏像のように数多くは存在しない。
 
僕がお目に掛かったのは、神仏習合時代の東大寺の僧形八幡神像くらいのもので、普通ご神体は鏡であったり、剣であったり、山や、岩であったり、自然の大木であったりして、像にお目にかかるチャンスはほとんどない。

ところがである。クリシュナという神様に、これからご対面できるというのである。僕は期待した。
 一般にアジアにおける神像は僕が見た限り、日本のそれに比べて作りが軽い。つまりおっちょこちょいなのである。少なくとも手を合わせて拝む対象であるならば、もう少し荘重で、威厳があり、荘厳な趣が必要ではないか。
 
ボダガヤのマハーボーテイ寺院で見たお釈迦さんだって、軽い作りだった。
あんな偉大なお釈迦さんを軽く作ってどうする。
見たり、飾ったりしておくならば別、少なくとも拝む対象であるからにはそれにふさわしい格調や貫禄が必要であると僕は思う。
これは文化の違いだと割り切って納得した。こう解釈することによって、自分が拝む対象にしたかったのだ。
 
いよいよご開帳がはじまった。ざわついていた場内は、水を打ったように静まり返った。 神殿即ち、舞台の袖にいた人が綱をひっぱると、カーテンがあいて神様が姿を現した。見たとたん、僕は空いた口が塞がらないだけでなく、キョトンとした。「なーんだ。これ。へえ、これが、、」
一瞬僕は我が目を疑った。「これが神様か。へえ、。」
 
身の丈、70から80センチくらいの大きさの、人形がたっているのである。全身はまっくろで、漆塗りか、黒光りしている。ちょっと目には、大きめの黒猫そっくりで、おまけに真っ赤な舌をベローと出している。そのうえ、首にはよだれ掛けをしている。 これじゃ猫のお化けじゃないか。

僕は失望した。いや呆れた。僕はこの猫のお化けの神像に見とれてはいたが、静まり帰った場内には突然地上から吹き上げるような、大きな歓声が沸き起こった。いっせいに祝詞を唱えるのか、むにゃむにゃいう人、手をあわす人、歓声を出す人。それが歓声の源だった。
 
そして次には大きな拍手が起こった。なにごとかと思ったらツアーのメンバーの一人が
かなり多額の寄付をしたようだ。拍手は寄付した本人に向けられていた。
 
次いで、紐が引っ張られて黒猫のお化けが、そろりそろりと前へ出て来た。じっと見つめている人。合掌して祈る人、真剣な眼差しからは、光のようなエネルギーの放射さえ感じられる。

へえ、これがインドの神様か。僕は改めて神様をまじまじと見つめた。
ものの10分も経たないうちに、クリシュナ神は紐に引かれて後ずさりを始めて、カーテンの位置から、中に入ると、カーテンも引かれて舞台は閉じてすべては終わった。
クリシュナ神は元の座に鎮座したのである。

日本流の仏像を見慣れてる僕はインドのみならず、東南アジアの荘重さを欠く釈迦像には、なにか物足りなさと違和感を感じて来た。ところが、このクリシュナ神には徹底的に驚いた。いやもう違い過ぎて嫌気が差し、更にこんな姿の神を拝み、うつつを抜かすインド人の信仰に腹がたってきた。

本家本元よりも、それを伝えられて自分なりのものにしている日本の方が余程宗教的雰囲気を持つ像を造り、もっと静かにおがんでいるじゃないか。

陽気なのは良い、賑やかなのもいよい。が、像はあくまで礼拝の対象物である。
黒猫のお化けみたいなふざけた神様など拝む気がしない。僕は今行動を共にしているインド人とクリシュナ神を共有しているのだが、心の中は全く空々しい。完全に一人だけ浮き上がっている。ついていけないのだ。
 
メッカの方を向いて1日に何回も頭を地面にすり付けて拝むイスラム教にも違和感を感じるが、このインドの宗教も到底受け入れることは出来ない。
 
先ほどからインド人の神に対する想いが色々な形を取って表現されているのをこの目で見てはいるが、我々日本人のそれとは大凡かけ離れたものである。
ただ、人々の神への想いは日本人のそれと比べて、大仰に表現されるので篤い想いだけは伝わってくる。
 
一体礼拝などというものは、心を静めて、出来る限り落ち着いた状態の心をもって、神様を静かに拝んでこそ、礼拝したことになる。心を騒がせて、興奮状態の心で、果たして心のこもるお祈りが出来るのか。僕は率直にそう思った。

バスに戻ってからも、人々の興奮はさめやらないのだろう、席をたって大勢の人が興奮気味に話している。

違うな、確かに違うな。深いところまでは分からないが、日本とインドは神様1つをとってみても大きな違いがあることを僕はしっかり心に刻み込みながらつぶやいた。 

勿論インドにはカーリー神やクリシュナ神しかいないわけではない。インドにおわす八百万の神々総てがこうだとは思わないが、今でも鮮明な記憶として残っているのを見るとやはり余程大きな違和感だったんだろう。

インドは貧しい国だ。だが民衆の神に対する想いは熱狂的なものがある。現世が貧しく苦しいから人々は熱狂的に神を求めるのか、それとも来世の幸福を求めて熱狂的になるのか、その辺の所は分からないが、いずれにせよ、日本とは大分違うなという感じが残った。