今年を振り返って 2010年12月31日
我が家族には、なにもない平穏な年だった。これは幸福な事だから、幸福の年だったといえなくもない。
今年は作品の整理ををして、ラジオで放送してもらった。FM大阪の「大人の文化村」に出演して、音楽活動や考え方を披露出来たのは、近年にない出来事だった。
異常に暑い今年の夏、しかも風邪を引いて、かなり疲れていたが、いつものイチビリ精神のおかげで、何とか無事にやり過ごした。
義弟がこの世を去ったのは、悲しい出来事だった。僕よりも一回りも若いのに、召されて逝ってしまった。取り返しのつかないことだけに、やりきれない思いに、心が痛む。
忘れかけた頃に、悲しみがやってくる。
肉親を失ったのは、1993年母が亡くなったとき以来で、心は落ち着かずにうろたえた。
彼は最後に言った「織田信長も、徳川家康も、太閤秀吉もみな死んでいった。人間はいつかは死ぬ。早いか遅いかだけだ。」死の当日彼は他人ごとのように、つぶやいた。間近に迫った自分の死を予感して言ったのだろうか。それとも一般論として言ったものだろうか。
30余年も身近に暮らした人は、血が通ってない人であっても、同じ遺伝子を持っている兄弟よりも、親近感や信頼感は大きい。それだけに悲しみが心の底にへばりついている。
さて来年の展望だが、自分のことに関しては先が見えない。すべては幸運の女神に期待する意外には、なにもない。それでも宝くじのような籤を持っているから、希望は持っている。その籤が大化けするのを、祈るのみだ。そこが僕が恵まれている所だ。空くじでも籤は籤。それは未来に向かって不確実な希望の光である。光ならば、ないよりあった方がいい。
なんだか知らないが、国が閉塞感に陥っているから、自分の心も暗雲におおわれている様な気がする。ぴちぴちした元気さがない。気分的にはダルである。
人の幸不幸は自分が決める、とりわけ心が決めるもので、自分以外のもので決めることはないと言うことは百も承知である。だから気分の閉塞感を打ち破るのは、心持ちさえ変えればよいと言うことはわかっている。ところがどうしたことか、心が動かない。以前のように躍動感が感じられない。元気さがない。いったいこれはなんだろう。
たとえばそこをめがけて出かけてもいいというのは、本屋か電気屋位のもので、
うまいものを食べに行きたいとも思わないし、一杯飲み屋でもないし、同窓会でもない。
思うことは、同年代の他人は どう過ごしているのかと言う関心が大きくクローズアップされて居ることだ。 この程度のことで持ち時間の少なくなった今を、過ごしてもいいものか。
さらば。再び来ない今年よ。
愚痴はこのくらいにして、皆さん、よいお年を、という常套句で文を締めくくろう。
我が家族には、なにもない平穏な年だった。これは幸福な事だから、幸福の年だったといえなくもない。
今年は作品の整理ををして、ラジオで放送してもらった。FM大阪の「大人の文化村」に出演して、音楽活動や考え方を披露出来たのは、近年にない出来事だった。
異常に暑い今年の夏、しかも風邪を引いて、かなり疲れていたが、いつものイチビリ精神のおかげで、何とか無事にやり過ごした。
義弟がこの世を去ったのは、悲しい出来事だった。僕よりも一回りも若いのに、召されて逝ってしまった。取り返しのつかないことだけに、やりきれない思いに、心が痛む。
忘れかけた頃に、悲しみがやってくる。
肉親を失ったのは、1993年母が亡くなったとき以来で、心は落ち着かずにうろたえた。
彼は最後に言った「織田信長も、徳川家康も、太閤秀吉もみな死んでいった。人間はいつかは死ぬ。早いか遅いかだけだ。」死の当日彼は他人ごとのように、つぶやいた。間近に迫った自分の死を予感して言ったのだろうか。それとも一般論として言ったものだろうか。
30余年も身近に暮らした人は、血が通ってない人であっても、同じ遺伝子を持っている兄弟よりも、親近感や信頼感は大きい。それだけに悲しみが心の底にへばりついている。
さて来年の展望だが、自分のことに関しては先が見えない。すべては幸運の女神に期待する意外には、なにもない。それでも宝くじのような籤を持っているから、希望は持っている。その籤が大化けするのを、祈るのみだ。そこが僕が恵まれている所だ。空くじでも籤は籤。それは未来に向かって不確実な希望の光である。光ならば、ないよりあった方がいい。
なんだか知らないが、国が閉塞感に陥っているから、自分の心も暗雲におおわれている様な気がする。ぴちぴちした元気さがない。気分的にはダルである。
人の幸不幸は自分が決める、とりわけ心が決めるもので、自分以外のもので決めることはないと言うことは百も承知である。だから気分の閉塞感を打ち破るのは、心持ちさえ変えればよいと言うことはわかっている。ところがどうしたことか、心が動かない。以前のように躍動感が感じられない。元気さがない。いったいこれはなんだろう。
たとえばそこをめがけて出かけてもいいというのは、本屋か電気屋位のもので、
うまいものを食べに行きたいとも思わないし、一杯飲み屋でもないし、同窓会でもない。
思うことは、同年代の他人は どう過ごしているのかと言う関心が大きくクローズアップされて居ることだ。 この程度のことで持ち時間の少なくなった今を、過ごしてもいいものか。
さらば。再び来ない今年よ。
愚痴はこのくらいにして、皆さん、よいお年を、という常套句で文を締めくくろう。