日々雑感

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レコード大賞

2010年12月30日 | Weblog
レコード大賞

日本作曲家協会が主催する、日本レコード大賞は今年は、第52回目を迎える。
僕の記憶では、最初の頃は演歌やその年、流行った歌謡曲 ガ主体のショウで、レコード大賞や、それぞれの優秀曲は作詞家や作曲家つまり作る側が主体となって選んでいた。

そこには庶民が等しく感じる郷愁があった。だから年忘れのイベントと言うよりも、その年の、個人の歌に対する総決算みたいなものがあり、耳をそばだてて聴いて、行く年を惜しみ、来る年にはどんな歌が出てくるのか、心躍らせて、楽しみだった。

歌は世につれ、世は歌につれというけれど、今日の歌には世に連れ添うて居るのじゃなくて、ずっと先へすっ飛んでいる。そして質の低下したこれが歌か、と思うような作品が鼻紙のように、制作されては、消費して捨てられる。これは僕から見れば音楽業界の悪あがき以外の何者でもない。社会的にその役割を果たさないものは、消えてなくなるか、姿を変えて再登場するしかない。

レコード会社も、マスコミも、余裕を持ってよい歌を提供しようという姿勢が見られない。そういう努力をしない。媒体としての選択力もないものだから、ちょっと目新しい物があれば、すぐ飛びついて、一匹目のどじょうを狙う。

こんなことが底流になっている歌世界から、国民歌謡が生まれるはずがない。
放送回数やCDの売れ行きが歌の善し悪しを決め手にされてたまるものか。
よい歌とは、人々の心を引きつける力を持っている物であり、人々に喜びや希望や癒しを与えてくれるものである。決して売り上げだけの問題ではない。売り上げを問題にしているのは、それで飯食っている連中だけだ。

22年前に近藤正彦が歌った「愚か者}がレコード大賞に選ばれたとき、僕は歌の世界が破壊されたと思った。これは僕一人だけじゃない。以後レコタイの視聴率は、うなぎくだり?にさがり、往年の輝きを失っていった。それ以後、低落のままで、今日に至っている。

音楽界や芸能界に身を置く人だったら、こんな事百も承知だろうが、何の手も打てないままに、年越しだ。今年ちょっと風変わりなというより、目新しい歌と言えば「トイレの神様」くらいかと思う。これは曲自身が叙情的で、メロデイがきれいである。詞も素直でいい。でもこれは一服の清涼剤似すぎず、歌謡界ではダンス付き歌謡が主流だろう。

若いうちはダンス付き歌もいいだろう。しかし人間は必ず年老いていく。40代になってそういうものについていけるだろうか。リズムに乗れないし、体力が持たないし、いい年をしてきびきびした動きが出来るだろうか。その行く末は先が見えている。つまり青春時代だった頃の歌をなくすと言うことだ。20年後には歌を失った世代が誕生する。

歌というのは、基本的に人の心や、心情を歌い上げるものだ。それがどうして体の動きで表現できるのだ?。こん事ををやっている限り、よい歌は生まれない。よしんば生まれたとしてもすぐに死滅する。

今も思う。近藤真彦の歌った「愚か者」がレコード大賞に値したかどうか。近藤や歌の作者が悪いのではない。これをえらんだ連中の音楽的素養のお粗末さだ。
僕の目から見ると、このあたりから選考委員にマスコミ関係者ガ加わってきた事だ。
弁は立ってひとかどの理屈は言うが、音楽的なことは分析も何も出来ない、業界外の
ド素人が売上高の多寡を中心にして、発言力を増し、歌の有り様をひん曲げた。

作曲家や作詞家など歌を生み出す根本的なところで、力が弱まり、マスコミ、商業ベースのみが幅をきかせたことが、今日の衰退を招いた。そして間に合わせ的に昭和時代に流行った歌をちょこっといれてお茶を濁している。こんなイベントが人々の心を打つはずがない。今年も相変わらずの視聴率だろう。

歌(の心)がわかる、プロヂュサーがあらわれて、歌を正道にのせて、往年のように人々がテレビの前に釘付けになるような、歌番組を提供してほしいものだ。いやひとりプロヂューサーのみならず、歌業界にたづさわる関係者一同が、考え直さなければならない問題だ。今はその時期だ。

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