木の中に鎮まります仏達
神戸の六甲山の西側に再度山がある。その山中に大龍寺というお寺がある。
この寺でお不動様を新しく彫刻されて、安置され慶讃法要が営まれた。
もう30年ばかり昔の話だが、大龍寺のお嬢さんが声楽家でフランスかイタリアに留学した、ぱりぱりの声楽家だった。当日僕の音響がいまいちで声楽家の力が十分発揮できていなかった。悪いことをした。
法要も何とか無事に済んで、大広間で宴会になった時、運良く僕は仏師と隣り合わせになった。仏師は僕に説明した。
彼が言うにはこの尊像を彫像するのに、朝4時に起き、般若心経を100回以上唱えながら、井戸水を何百回かかぶり、その行がすんでから、彫刻に取りかかると言う。
そういう修行を幾日か続けているうちに、この不動尊像は、大きさが直径約2mの大木の中に鎮まっておられるお姿が、木の中に見えてくる。その見えている像を木から取り出したものだという。見えている姿に合わせて、余分な木を削り取れば、中からお不動さんがお出ましになる。それをここまで運んで、今日は台座に座っていただいた。まあざっとこんな話だった。
僕もこの不動讃歌を作るにあったっては、ご真言を何回か唱え、浮かんできたメロデイを五線紙に乗せて作曲した。心の耳を澄ませばなんかしら聞こえてくる。
身を清め潔斎をしてと言うことはしないが、この曲をお不動さんからいただいた。もちろんここのお不動さんについては、弘法大師が遣唐使になって船出されるときから、帰国されるまでの航海の安全を祈願されたという言い伝えはよく調べたと、作曲に関する説明はした。
木の中にお不動さまが鎮座され、その姿に合わせて、余分な木を取り除くと像になるという話。恐らく一般人にはわからないだろう説明で、恐らく実感としては受け入れがたい話であろう。
ところが昨日図書館で借りた西岡常一さんの「木の心仏の心」に出てくる松久仏師も木の中に仏様があり、それが見えるので、余分な木を削り取れば仏様(仏像)が現れると書いてあるのを読んで、究極の職人は心眼でものを見るのだと納得した。
仏師のみならず、特別な職人は魂でものを見ながら、仕事を完成させるものだと感心した。
昨今はすべてコンピュターに頼り、同じようなものを短時間で安価に作り上げるシステムが一般的だが、同じものを作っても、人間の手によるものと、機械が作るものとでは魂がこもっているか、いないかの違いが出てくる。
職人魂から生まれたものには生命が宿っている。西岡棟梁が言いたかったことはこういうことではなかったか。 近頃にない感動を覚えながら「木の心仏の心」を味読した。なお西岡師は代々続く法隆寺の宮大工の棟梁である。