日々雑感

心に浮かんだこと何でも書いていく。

心の枠組み

2009年10月15日 | Weblog
心の枠組み

何によって決まるか,希望も夢,性格、価値観などによって決まる.
心の枠組みが形成されて固定されてしまうと、人はその枠の中にいて行動し思考し、発想する。そしてそのフレームが余り上等なものでなければ、壊すなり改善する必要がある。そのためにはどんな手段があるか。
それはフレームに揺さぶりをかけてショックを与えることである。生起してくる諸々の観念に反抗することである。そしてそれを克服してしまうことである。
序序にでもいい。自分が悪いと考えるものを改善して前向きの構えをした心のフレームを作ることである。

お誘い

2009年10月14日 | Weblog
   東京大学ホームミカミングデイへの
        お誘いとご案内

この度私は東京大学同窓会連合会と関西東大会のご推薦をうけて
、東京大学 銀杏芸術祭 に出演することになりました
下記要領で講演と演奏を行いますが、どなた様でも入場できます(入場無料)ので皆様お誘いあわせて、ご来場いただけるのを、お待ち申し上げております

            記

日時  平成21年11月14日 土曜日

午前10時から10時20分まで (20分間)   

場所  東大安田講堂

演目 鼎談「山田耕筰先生の思い出と歌」 武田圭史
              
    演奏 1平家物語序章 武田圭史作曲
2,赤とんぼ   山田耕筰作曲
3,この道  山田耕筰作曲
演奏者  ピアノ伴奏  古川五巳
ソロ ソプラノ 古川博子
    (バックコーラス) 
       ソプラノ  安藤優子  金永美
メゾソプラノ 今井梨紗子 近藤智子

PS  古川五巳についてはインターネットに詳しく掲載されています

          以上
    武田圭史 (S39年教育卒)

晶子と山川登美子

2009年10月12日 | Weblog
今書いているのは、鉄幹をめぐる2人の女、すなはち晶子と山川登美子の恋愛もので、これを登美子サイドから書いてみょうと思っています。

彼女については、かなり調べたので後は、作詞して曲をつければ良いのですが、さて歌手を誰にするか、が問題です。

恋争いで晶子に破れはするが、彼に対する思いは決して負けるものじゃないと言うところを強調して書くつもりです。人間の真実なんて誰にもわかったもんじゃない。ただ調べるほどに彼女が気の毒な運命にあったようです。

僕は彼女の実家のある福井県小浜まで車で行ってきました。1人の人間の命が掛かっている作品だけにふさわしい作品を作らなければとはりきっています。

登美子に限らず恋愛は成就したほうの数が圧倒的に少なく、人は切なく苦い思いを経験させられる方が多いような気がします。何故なら人生は自分の思うようにならない側面が多いからです。だから登美子のことを書いても実は大多数の庶民感情をすくい上げてると考えています。どんなものが出来るか楽しみです。
人生の様相は人様ざまです。しかしなべて人生は思うようにならない上に孤独です。これは当たり前の話しですが、気もちとしてそう思いたくありません。
サビはこんな感じです
ああー貴方は今も  私を愛している
誰よりも誰よりも  私を愛している
私を愛している

ニューオーリンズ・ジャックソン広場にて

2009年10月11日 | Weblog
ニューオーリンズ・ジャックソン広場にて


人が大勢集まってきて、散策したりし、食事したり、コーヒーを飲んだりしている。スニーカー、ジーンズ、ジャンパー姿の人が多い。
大道芸人、サックスをふく人、風船を作る人、パフォーマンスをする人、絵描き、曲芸をする黒人の大人と子供、

ここは激しい戦闘のあったところで、反逆者処刑の場でもある。つまり死者が多くの生者を呼び集めて行くところは、大阪南の繁華街 千日前と同じか。 

泉北狐

2009年10月10日 | Weblog
泉北狐

池があったり、小高い丘があったりした時分はこの地域は動物たちの格好の住み処であった。鉄道が敷かれ、その下を車がひっきりなしに走る。
物音ひとつせず、たまに吹く風の葉音のみが、唯一の騒音だったのに、いったいこれはどういうことだ。昼と言わず、夜と言わず、ワーンと地鳴りがしている
このワーンには切れ目がなく、大小とりまぜた車の洪水の音である。
これだけ通ると狐はノイローゼにならざるを得ない。

世の中えらく変わってしまったなぁ。これから先一体どうなるのだろう。

泉北陶器山にあった住み処を人間に奪われた泉北狐はひとりでつぶやいてとぼとぼと安住の土地を求めて小走りに走り出した。終の棲家を探すために。

ひょっとしたら人間に占有されて自然が開発され、永遠に住み処が無くなっているかも知れないが。それでも生活の場を見つけなければならない。キツネは途方に暮れた。

「ふん。共生だなんてうまい言葉で俺らをだましやがって」キツネや狸が人間をだますというのは判るが、人間が狐や狸をだますなんて。世の中ひっくり返ってしまっている」。

ぼやいてはみたものの良い智慧は浮かばず、すごすごと闇の中に消えていった。

歌の付属品へ

2009年10月09日 | Weblog
歌の付属品へ


近ごろの歌を聞いていると、歌の善し悪し以上に歌の付属品が問題にされているようだ。
たとえば衣装、、例えば服装、ぎんぎらぎん、茶髪、など非日常性の異様な風体、衣装を求められている。 そしてそれは歌というよりは、踊りのバックグランドミュージックになり下がっている。

心情に感情を歌い載せて伝える本来の歌のあり方からすれば、大きく逸脱している。
歌というものは、詞を味わいながら、メロディーやリズムを聞いて心を震わせたり、感動したりしてこそ初めて、歌になりうるのである。良い歌にはぎんぎらぎんの服装や、茶髪など付属品は要らない。

常識 と非常識

2009年10月08日 | Weblog
 常識 と非常識

世に常識というものあり。

人々が経験的な智を積み重ねて作りだしてきたもので、人々はこれを日常生活の立ち居振る舞いの指針として使っている。

常識は哲学的次元に掘り下げて、理解した知識ではないから、常識の間違いということもあるが、かといって、この常識のはみ出しには、たとえそれがよくとも悪くとも、社会から白い目で見られることは必定である。

そして人は大きく常識から外れた言動には拒否反応を示すから、他人を納得させるためには、常識の線に沿ってなければならない。

しかし常識に埋没してしまうと何もできないから、そこの落とし穴には十分注意する必要がある。「そんな非常識な」と片づけてしまうことには気をつけるべし。非常識の中にはどんな宝物が隠されているかわからないから。

心に心配事があると空まで曇って見える。

2009年10月07日 | Weblog
心に心配事があると空まで曇って見える。


町をみると心がワクワクしたのは10代から20代。60代になると輝きを失ってすべてに灰色の記事霧がかかっで ぼやけて見える。
の希望のない日々はものすべてがダルである。

置かれている状況がどんな悲惨なものであれ、幸せ感を持って生きる人たちがいる。人類は究極において楽観的な心情になるように作られているのかもしれない。
思う通りにはならない
その原因は運命的なものであり、あるいは意思伝達がうまくいかない誤解であるかもしれない

物の中に自分がいては何もわからない。常に自分を埒外に置くこと

弱気からは何も生まれない。弱気と悲観主義は悪だ。人々の心から追放すべし。。
1200年の時の風雪にさらされ、その間に多くの人から検証され、その結果、 
今に残っているのだから弘法大師のいうことは本物だ。弱気は大師の教えにもそむくことになる

なぜインドへ心が向かうのか

2009年10月06日 | Weblog
なぜインドへ心が向かうのか

実のところ気が重い。カルカッタ、バラナシ、デイリーなどをへ行ったが
落ち着いたのサルナートぐらいである 。それでも再びインドへ行きたくなるのは、本当のインドに触れていないという思いがして、インドを知りたいという探求心がわき起こっているから。

親切心なのか、下心ありの親切心か、その判断が難しい。親切心あるいは下心であろうと価値観が違うので理解の仕方には差生じる

生きることの意味を求めて人生という旅を続け、何かが見えるころには幕が降りるそんなことを感じるインド旅である。

常磐先生はバラナシのガンジス川に骨を埋められたが、ヒンズー教徒が信じるあの来世を信じておられたのだろうか。

タージマハールホテル
金持ちの豪華なホテル。それがどうした。否定的な感情が生まれる。
これらは別世界で、縁のないところである。現在の自分とは離れすぎている。
建築、絵画、華麗には興味なし。
居心地がよいということを知らない僕は哀れな存在だ。貧乏に生まれつき、行方を庶民の心に重ねた。
体制の底辺にいるものが体制にぴったりている必要はない。自分なりの主張をせよ。

メロデイ作り

2009年10月05日 | Weblog

メロデイ作り


名曲のアナリーゼは出来てもそのアナリーゼの要素を寄せ集めて合成しても名曲は生まれない。ある音が次の音に進行する必然性は特殊な場合をのぞいてほとんどない。

次に進行する音を選択する自由は全く作家の自由意志に任される。その作家の自由意志に重大な影響を及ぼすのは神仏の御意である。
こういうことに思いを致すとき、作曲家は「音楽は神仏の啓示」と言う言い方をする。そして作家の立場煮立ってみると」自分が作曲する場合に
まさにそう実感するすることが出来るからこのことは本当だと思う。



責任感と正義は何処にあるのだ

2009年10月04日 | Weblog
責任感と正義は何処にあるのだ

インターネットから引用すると、
JR福知山線脱線事故の調査報告書案が公表前に漏えいした問題で、JR西日本は2日、被害者への説明会を17、18日に開くことを決めた。航空・鉄道事故調査委員会(現・運輸安全委員会)の元委員から報告書案を事前に入手した山崎正夫前社長ら幹部が謝罪し、経緯を説明する。

JR福知山線脱線事故の調査報告書案が公表前に漏えいした問題の意図するところは読めている。
責任を少しでも軽くするためには、あるいは最もらしい言い訳をするにはどうすればいいか。と言うことにヒントを得たり活用したりするところにある。
これは別に被害者家族だけでなく市井の常識人だったらそう読むだろう。

自己責任や自社責任を如何に重く受け止めて、深く反省し今まで以上に被害者やその家族の意に沿うように、真摯に向き合うことに利用するためと思えるだろうか。

理屈ではない遺家族の感情問題に、またそれまで以上の不信感を生んでこじらせてしまったのではないか。

人の命を預かっている大会社がこの程度の低いモラルと責任感でこれだけ大きな事故によって発生した不信感をぬぐおうとするのは、無理である。

一歩前進二歩後退 。現場で遺族と直接対話している職員の気持ちを考えて見たらどうだ。謝るのは遺家族だけではない、足を運びお詫びに廻る自社の社員に対してもだ。

雑感1

2009年10月03日 | Weblog
雑感1


苦しみ
命を削るような思いをしても何も見出せない苦しみがある。その先に何の光も見えない苦しみもある。

言葉の限界

生徒たちに色をできるだけ詳しく解説して、その色を画用紙にぬるように指示する。

先生の意図した色   先生の主観
生徒たちが塗った色 。生徒個人個人の主観

先生と生徒の違い、と、生徒間同士の違い。 色はめいめいの主観によって微妙に違う。 

自分が他人に意図するところを伝える難しさ。


井戸は、水がわくまでほれ

2009年10月01日 | Weblog
井戸は、水がわくまでほれ。

ある程度の事前調査で、水脈があると信じたならば井戸は水がわくまでほれ。
せっかく、水脈が、あっても、そこに達するまで掘らないと水はわかない。
水がわかないと、それまでの作業はすべて徒労に帰す。
新製品、あるいは、新しい方法や手段などを開発する場合において、ここに問題がある。
第1に、水脈の存在が確認できるのか、
第2、水脈に達する作業の適否
において十分の検討を加えることはもちろんだが、はたして、人知で、感知できるものばかりだろうか。
結果が、出る場合は分かり易いのだが、その過程で、的確に結果を、予測できるのだろうか。
どうも、この辺のことは、、神の領域のような、気がしてならない。