日々雑感

心に浮かんだこと何でも書いていく。

平家物語序章

2018年04月13日 | Weblog
平家物語序章


祇園精舎の鐘の音   諸行無常の響き有り

沙羅双樹の花の色   盛者必衰の理を表す

奢れる人も久しからず   ただ春の夜の夢のごとし

猛き者もついには滅びぬ 偏に風の前の塵に同じ

歌唱グループはベストメンバーだった。東京芸術大学で声楽を6年間大学院まで学び、その後、ドイツ留学後はベートーベンの第9、合唱のソプラノ・ソリストとして活躍。多くの声楽家を育てたソプラノ・ソリストをメインに、今回の演奏では藤原歌劇団関係者もバックコーラスに加わって頂いた。演奏会場(東大安田講堂)の格調の高さにあわせて、選曲も、歌唱力も最高にマッチしていたと自負している。



玄海男船

2018年04月13日 | Weblog
玄海男船 玄海男船

力強くてパワーがあり、どことなく昭和演歌の匂いがる演歌を書いてみた。

聞く人の胸に届いて欲しい王道演歌である。自作の演歌の中では群を抜いて歌われている。

joy soundのカラオケにも載っている。よろしかったらどうぞ。




ネパール行き

2018年04月11日 | Weblog
       
目的
 

ネパール行きの目的は確たるものがなかった。無目的ではなかったが、さりとてなにかを目指してというものは何もない。
 確かにヒマラヤの山を見たいとは思ったが、行ったのが九月で、まだ雨季であ・ 幃から期待はしてなかった。ただインドと比べると天国だという話はよく聞くのでそれならばという思いぐらいである。 実際にカトマンヅに来てみて、確かにインドとは違う。だいいち人情がネパールの方が日本人に近いような気がする。インドで味わったあのいやな思いがなく、ネパールの人とは気を許して付き合える。それにインドのあの暑さはなく、風は限りなくさわやかでやさしい。やはりお釈迦様が生まれなさった国である。ルンビニは時間がなくて行く事は出来なかったけれども、さわやかで親切な人が多いような気がした。
 

インドでいやな思いをした時には、貧しいから人を騙したり、脅したり、嘘を平気でついたりするんだろうと思って、ある程度は仕方がないと自分なりに解釈をして、納得していたが、ネパールへ来てみて、必ずしもそうではないということが分かった。貧しさの点から言えばネパールの方が上であるから、インド以上のことがあっても良い筈だ。しかしわずか1週間の滞在だったが、北東インドで味わった、あの不愉快さはたったの1回もなかった。こんなによい人の集まった国でありながら、貧しいというの・ 6ヘ何が原因しているのだろうか。


知恵がないのか、技術がないのか、教育がないのか、いろいろあろうけれども、自分なりの結論は工業国でないからだということであった。
農業や観光収入ではいつまでたっても豊かにならない。そんな事は百も承知はしていても、現実には何かが足りなかったり、社会がそこまで成熟していない上に、宗教上の禁忌などが重なって、社会の発展のテンポを遅々たるものにしているのだろう。やはり時間が必要という事なのだ。
仕方がない。大それた事を考えないで、自分の甲羅の大きさにあわせて、何か出来ることがあったらさせてもらおう。僕がネパールへ来て考えたことはこの程度の事であった。

東南アジア
 インドでは生死の問題について考えた。特に生きること、漫然と生きることではなくて命のほむらを燃やして、一生懸命に生きることを真剣に考えた。
  ベトナムではフランスに代わって、アメリカ流のビルディング・ +ェ建ち初め、サイゴンはそこに住む人々の発するエレルギーの溢れんばかりの大きさに、気後れすると同時に積極的に勇気づけられた。
カンボジャでは無実の中で、無残に殺されていった百万人以上の人々に、同情の涙を流し、タイ、バンコックでは日本以上の経済成長に目を見張った。
 五十階建てのビルがあちこちに散見されるので、大阪以上の経済力かと評価したが、それはバブルであったことが近ごろ分かり、これから先、十年の苦難が想像出来る。
総じて、僕が歩く東南アジアは二一世紀に向けて元気がよい。押し寄せる大波の地響きのようなあの活気が感じられるが、それが何ともいえない魅力である。その活気やエネルギーを身にうけて、僕も大いにやる気が出るのである。すくなくとも日本に帰り着いて三ケ月間は、やる気が体内に充満している。三月は持つ。その間に取材の整理をして、それからまた出掛ける。治る事のない海外旅行病にかかっているのかもしれない。いやきっとそうだろう。 

小学校

2018年04月11日 | Weblog
                  
 小学校
 話に夢中になりながら、スワヤンブナート寺院を降りたので、どこをどう通ったのか分からないが、彼女の務めていた小学校はレンガ作りの三階建の校舎で、ビシュヌマチ川のすぐそばにあった。僕は最初、門の外で彼女が用事を済ませるのを待っていようと考えていたが、彼女が誘ってくれたのをいい

ことにして、遠慮もせずに中にはいった。

彼女の来訪を知った先生方は肩を抱き合 ナって喜んで迎えていた。ここで僕は彼女がこの学校で、すべての先生方から愛されていることを知った。そしてわずかな会話を交わしただけだが、僕が推量していた通りのお人柄のよさが裏付けされたようで、うれしかった。

この小学校は日本人と深い関係があり、子供たちには日本人の里親がついているという。ネパールでも恵まれない子供たちの教育を引き受けて、先生たちも奉仕のような薄給でありながら、ここの子供達の教育に生きがいを見いだしている人ばかりの集団だと側聞した。僕は先月なくなったマリアテレサの例を引き合いに出しながら、利他の精神がどれほど貴いものか、それゆえに先生たちの活動が非常に貴いもので、僕は心から先生たちを尊敬すると、思っているままをお世辞抜きで、率直に伝えた。校長先生をはじめ先生方のもてなしに感激した僕は、子供達に歌をプレゼントすることを約束して皆に別れを告げた。
この学校で僕は彼女の美しさを再発見した。最初あの急な石段の最後の1つの足を懸けたときに見た、彼女の美しさはゆっくり味わう程の余裕がなかった。石段を上るのがやっとのことで、彼女の美しい輪郭が分かった程度だった。しかし今見る彼女・ フヘ利他の精神の輝きを醸し出して心の底から美しい。すらっと伸びた長身のスリムなスタイルに長い髪がそよいでいる。

加えてうつくしいハートの持ち主にちかいないと自分勝手に想像しているソプラノのはっきりした声、そのどれもが僕を魅了した。僕は彼女と並んで歩いたが、なんだか気恥ずかしくなってうつむき加減になって足は地についてなく、ふわふわした感じで自分の胸の騒ぎを眺めていた。
  学校のすぐ横にかかっている吊り橋をわたり、ダルバール広場に通じるところで別れたが、彼女後を追いかけたくなる自分を必死で押さえ込んだ。
いつかまた会いたい。それは多分日本でだろう、そう期待して僕は住所と電話番号、それにフル、ネームを聞いておいた。僕は今彼女に自分のことをなんと自己紹介したか覚えていない。

彼女に案内してもらう6-28

2018年04月10日 | Weblog
見下ろせる。そこから10分も歩いただろうか、寺院の正門の前に出た。寺院はここから何百段かの石段を上り詰めた上にある。しかもその石段たるや、見上げるにかなり急な勾配である。
ここまで来て、やめることはどうしても出来ない僕は、石段を数えるようにし ヌてそろり、そろりと上り始めた。
どこでもそうだが、神社仏閣には乞食がいるものだが、ここも例に漏れず身障者の乞食がいた。近付くにつれて手にもったアルミ製の器を差し出して施しを乞うてくる。僕は清しい気持ちでお寺参りをしている筈なのに、ものを乞う手が疎ましくて仕方がなかった。疎ましいというよりは、休み休み上ったとはいうものの、息切れがして呼吸を整えるだけが精一杯であったのだ。我が身をもちかねて、とても何かをする余裕はない。しかもここの石段は上に行けばいくほど勾配が急になっている。ハアハアと息を弾ませてやっとの思いで頂上についた。
               彼女
 最後の石段に棒のようになった足を懸けて踏ん張ったときに、僕は黒い陰を見た。それは日本人に見えた。
「あっ、あなたは日本人ですよね、」
僕は出会いを全く予期してなかったので、驚いてこんなことを口走ってしまった。
「ええ、日本人です。」 彼女は関東のなまりでそう答えた。
「どちらから」
「いえ、私はもう2年近くもこちらに住んでいます。ごく最近までこの下にある小学校で先生をしていました。」
「じゃ、ネパール語はしゃべれる訳だ。へー、先生です トか。」
話を聞けば聞くほど僕は彼女に興味をもち始めた。日本を出るときネパールで、うら若い日本人女性の先生に出会うなんて想像することすら難しい。
 彼女の次の予定を気にはしながら、時計とにらみっこをして、ネパールについていろいろ説明してもらった。ネパールのお葬式のこと、インドのようなカースト制度のこと、バクタプルのミトーナ像の事やネパールの歴史について、そして彼女が勤務していた小学校のことなど、僕は矢継ぎ早に彼女に問いかけた。彼女はいちいち丁寧に質問に答えてくれただけでなく、よかったら今から行く小学校に連れて行って上げてもよいと言ってくれた。僕は即座に是非連れて行って欲しいと頼んだ。
                  

スワヤンブナート寺院6-28

2018年04月09日 | Weblog
   
               スワヤンブナート寺院
  出会い
 最初の出会いは全く予期しない劇的なものであった。まさか、あんなところで、しかもまるで、出会いが運命ででもあるかのように出会うなんて誰が予想しえたであろうか。
僕は彼女と別れてからしばらく考え込んだ。いや彼女の事が頭にひっかっかってその晩はとうとう眠れなかった。
また徹夜か。わずか1週間の旅のうちでこれで3日間徹夜したことになる。
普段ならこんな生活をすれば、たちまちにしてダウンしてしまうのに。だが彼女の事を考えることは楽しいことであった。彼女の事を思っているうちに辺りが白み出した。
話では明日帰るということだったから、今頃はネパール最後の夜でひょっとしたら彼女自身も眠れない夜を過ごしているかもしれない。彼女について、たわいないことを考えながら、僕はおもむろに毛布をかぶり寝ようと努力した。しかし目はさえるばかりである。脈がヅシンヅシンと音をたてている。だめだ、今夜は眠れない。じゃ一晩・ ィ・゙女の事をかんがえるか。それがよい。そうしよう。
                   
 長い石段
パシュパチナードとボダナートは昨日見て来た。パシュパチナードでは、インドのバラナシで見たように、ヒンヅー教徒の死者の火葬を目の前で見た。だがバラナシで受けたようなショックは何もない。見慣れたものを見るかのように、感激も興奮もわかない。こんなものか。なぜだろう。僕は自問しながら次のボダナートに向かった。
ボダナートではバスを降りてすぐ左手にチベット風の巨大な塔が見えた。その巨大なものはスツーバで、その上にのぼれば、見晴らしがよくて、近郊の街の景色を楽しんだ。
スツーバは大きな円形の建物で、あちこちにマニ車があり、多くの参詣人が回すのであろう彫刻が擦り減って凹凸がなくなっているものもあった。その程度の頼りない見物で、僕は足早に市内に戻ってきた。
カトマンヅは小さな街である。端から端まで歩いても1日あれば十分見てまわれる。中心部のダルバール広場を初め、あらかた市内見物をした僕の次の目標は丘に上にあって、市内が一望できる、スワヤンブナート寺院であった。
サ 早速僕はスワヤンブナート寺院をたずねる事にした。ホテルのあるタメルから西の方に向かって歩いて行くと、小高い丘の上に何かがあるように見えた。地図で確かめると間違いなくスワヤンブナート寺院である。タメルから10分も歩いただろうか、わりに大きな川にさしかかった。
ビシュヌマチ川である。ここまでくると市内の騒音は嘘みたいである。
人の通りも疎らだし車にも出会わない。うるさいリキシャにも出会わないし、何よりも川を渡るネパールの風はさわやかで気持ちがよい。
川を渡りきると行く手は崖になっていて、急な階段がつけてある。板切れにテンプルと書いてあるから、そのほうに向かって上り出した。
 上り切った所から、また道がひらけていた。今来た道を振り返って市内の方を見ると大分上って来たのが分かる。視界は広がり、レンガ造りの民家の建物の屋根がすぐ目の下に

インドの 女子大学生とおばはん3 6-5

2018年04月06日 | Weblog
る。インド流にいうと大分セクシーになったということだ。僕は喜ばなくてはならないのだ。
これでセクシーか、へぇ。こっちは全然、性欲減退だ。
 ダイエットとかエステとかいうことを、口にするところをみると、内のかみさんはこのインド流セクシーボディを否定し ていることになる。 成長の法則か、はたまた、ホルモンの関係かどうかは知らないが、中年を過ぎると、どこの国の女性も中年太りというのか、横に太くなっていく。日本ではそれがダイエットや、エステの対象になり、インドではこれがセクシーで男が喜ぶという。
 
これはもう歴然たる違いだ。もともと女性の体は子供生んだりして体型がかわり、脂肪がついてデブ体型になるのだろう。つまり自然の法則に従えば、デブが自然なのである。自然の法則に反して必要以上にダイエットするというのは滑稽物だ。その意味では目の前のオバハンの姿は、自然な姿なんだ。
理屈じゃないところからくる嫌悪感を僕は何とか外のことに転化したかった。
 
アーリア系のみならず、スラブ系でも中年女性は、こんな体型になるところを見ると、人類は本来こうなるのが自然なんだと、思わずにはいられなかった。それに比べて俺の体型の変化のなさよ。学生時代に月賦で買った背広が、40年 J経た今でもまだ着ることが出来る。何十年間かの節制のおかげか、はたまた遺伝的な体質か。僕は自分の方に矢を向けてみた。

それはそうとして、ビヤ樽とでも表現した方が的確に言い表す事が出来るこのおばはんを旦那はどんな形で可愛がるのだろうか。胴回りだけをとると僕の2倍もありそうなこの女を抱くと想像しただけでも、気が萎えてしまうのに、インドの男はようがんばる、僕はあらぬ妄想にふけった。
 オバハンはこれみよがしにサリーの間から脂肪の塊を見せている。やっぱりこれは文化のちがいだな、僕はこう考えることによって矛を収めた。 
         

インドの女学生2 6-5

2018年04月05日 | Weblog
カーストによって職業が決められるなんて僕には考えられないことで、馬鹿馬鹿しい事だ。
欧米資本主義の原則は突き詰めていうと、安価で良質な製品を大量に作り、それを大量に販売することによって、利益を追求するということにある。それを社会システムや国家が保証しない限り、つまり、国民の一人一人が何物にも縛られず、自由に己の才能や能力を発揮 随o来る社会を作り上げない限り、インドの現状は経済発展の阻害要因になって開発はスローテンポにならざるを得ない。アメリカも、ヨーロッパも世界がしのぎを削っているときに、インドだけがその埒外にいる訳には行かない。だからインドは早急に世界に伍して行けるだけの条件を整える必要がある。それは僕が指摘したヒンズー教の負の部分以外に、ヒンズー教の教えの中にあるのかもしれん。僕には分からないが、ヒンズー教の教義の分かる人ならば、きっと見つけだすのではなかろうか。
重ねて言うが、現状は3000年の歴史をもつ差別社会が、経済発展の大きな阻害要因になっているということだ。あなたのような若い知識人が、これからのインド社会をよい意味で、大きく変えて世界の中で堂々と経済競争をして勝って、インドを経済的に豊かな国にしてほしい。」 と結んだ。
宗教については彼女の独断場だったが、貧困や差別を経済問題に搦めた話は不慣れなためか、彼女は聞き役に回り、特に異論は挟まなかったし、反論もしなかった。きっと世界的な情報化環境のなかで薄々気がついていたのだろう。
・             おばはん

先程からデブのおばはんは僕の目も気にしないで、太い胴回りの、脂肪の塊のようは体を、僕の目の前の寝台に横たえている。どうしてこんなに太っていて、しかも行儀が悪いんだろう。男の前で見てくれとばかりに横になって、サリーの間から素肌の腹をのぞかせている。脂肪の塊がだぶだぶと波打つような中年女性を見て、僕はうんざりした。何の魅力も感じなかったけど、アーリア系の中年女性はこんな体つきをしているのだなと、それなりの興味はもった。
目の前で横になるなんて、男の僕に対して失礼ではないか、せめて座る事がエチケットだよ。それとも、肉体美を僕の前でアピールしているのか、したいのか。言っておきますがね。僕は何の魅力も感じませんよ。第一、日本には男の前で肌を見せて横たわるような女はいませんよ。仮にいたとしたらその人は無教養な人間で、だれからも相手にされないだけだ。
あんたは日本にくると先ず鼻つまみで、ブーイングだね。
僕はちょっと嫌悪感を抱いた。ところが、後で聞いた話だが、インドでは既婚の中年女・ &ォは、いま目の前に横たわっているこの婦人のように、横に太いビヤ樽みたいな女性はセクシーで、とても喜ばれるし、夫の方も、女房がそうなる事を望んでいるとのこと、
「なんと、なんと。所変われば品変わると言うが、これも文化の違いか。」
僕は妙な所で感心した。だが、これで納得という訳には行かない。インドってけったいな国だなという思いはこの国を離れるまで頭の中から離れなかった。
彼女は娘と僕の会話には全く参加せず、かといって、妹と話をする訳でもなく、じっと僕のほう1点を物珍しいというような顔をして見つめていた。
新婚当初あんなに細かった、わが家のかみさんも30年もたつと確かに横に成長してい

インドの 女子大学生とおばはん6-5

2018年04月05日 | Weblog
インドの 女子大学生とおばはん
 

バラナーシーから、デリーにいく列車は比較的すいていた。3人掛けの一等寝台車は2段になっていて、日中は下の座席に降りて、景色を楽しんだ。僕の側は僕一人で向かい側は母と娘の3人連れだった。
 バラナーシーをたってしばらく走ると、日本人の僕がもの珍しかったのか、姉のほうが流暢な英語で話しかけて来た。 聞くところによると、母と娘2人で、二人は姉妹、姉21歳バラナーシー・ヒンヅー大学文学部在学中とのこと、妹は建築の専門学校の生徒だということで、おとなしく好感が持てた。
 彼女たちはラクノウというところに住んでいて、今日は彼女の大学のあるバラナーシーへ母と妹の3人で遊びに行って、今帰るところだと言う。
姉は男勝りと云うのか、気がきついというのか、不躾に矢継ぎ早に質問してくる。
頭の回転が早く、質問は核心をついていて、鋭い。日本の経済についての話題がおおかった。英語もぺらぺらで、それはインド訛りが感じられない、いわゆる英語だった。
 習慣も風習も違うから余計なことをいって、失礼になってもいけないので、僕は自分から積極的に相手のことやインドの事 ・スずねはしなかった。
彼女は僕がビデオカメラをもっているのに興味があるらしく、「金持ちか」と聞いて来た。
僕は経済的には平均的なクラスで、上流でもなければ、下層階級でもないと説明した。
次に「サラリーマンか、もしそうだとしたら、月収はいくらぐらいか」と聞いて来た。
見知らぬ人に月収を聞くなんて、失礼な話だと思ったが、インドと日本の経済力の違いを分からせるために、正直に云った方がよいと思い、年収1000万円だといった。全サラリーマンの年収は確か700万円位のはずだ、といったら、彼女の父は48歳で学卒、銀行の支店長クラスで18000ルピーが月給だといった。18000を3倍して約6万円、12倍して70万円か。それが彼女にいわせると中流の上ということになる。僕は年間に、彼女の父の15倍の金を稼いでいることになる。
はっはっはー。インドでは僕は金持ちになった。変な気分である。日本では全然光らないのに、インドでは金持ち?だ。
それから、話は宗教の方にむかった。もちろんヒンズー教の話である。これは僕が一方的に聞き役に回った。というより知識がないから、そうせざるをえなかったんだ。話題は僕があまり知識を持ち合わせていないために、途切れ、途切れになり、ぷつんぷつんと切れた。もっと 癜ラ強して予備知識を仕入れて来ればよかった、せっかくインドの若きエリートと話が出来るチャンスに恵まれているというのに。僕は不勉強を後悔した。ただ最後に

「インドと日本が経済競争をしたら、インドは日本には絶対に勝てないだろう、その根本原因はやはり差別からくる問題、すなわちカースト制度ではなかろうか。
 遠因はヒンズー教にあるように思う。これはヒンズー教をけなして、言っているのではない。ヒンズー教は立派な宗教だ。だが差別を認め、人間の絶対平等を教えないところに問題がある。 本来人間はいろいろな能力をもっている。その能力を発揮するのに、差別社会は障害になる。差別によって萎縮したり、差別の事に精力を割いたりして弱められ、インド国民が持つ力が国の繁栄や、国力の充実にむかわないのではないか

アウランガバード3

2018年04月04日 | Weblog

話はここまでで終わった。この人以外にもアジアを旅をしていると日本人に出会うがかってこんな会話を交わした経験はない。大抵は旅の情報で,安全に関するもの、食事の話,ホテルの快適さ、利用する交通手段の話、旅中でであった珍しい話や、面白い話など当たり障りの無い日常会話で終わってしまうのが普通だ。


僕は自分の部屋に戻りベッドに潜り込んだが先ほどの話が頭の中で渦巻いてとうとう一睡もしないままに朝を迎えた。
 日本の国内で遍路や巡礼をしているならまだしも、インドまできてこんな話が出来るとは想像だにしなかったことだった。しかしインドでこの話が出来たのは何か不思議な気がした。

担いで言うなら、これはきっとお釈迦様が同じような問題意識を持つ二人を出会わせお互いの胸の内を語らせ、それによって仏教をより深く考えるチャンスを与えたもうたのだということだ。もちろんこの程度までの深みのある話を旅行者としたというのは生まれて初めてのことである。


アウランガバード2

2018年04月04日 | Weblog
彼女は要旨次のようなことを話してくれた。そして僕は深く胸を打たれた。
 
「日本に帰ったら福祉の仕事をしたい。こうして巡礼の旅を続ける間にずっと思い続けていることは福祉とは何か、と言うことです。

この問題に関して私は自分自身の回答を得たいと願っています。確かにその道の学校に行けば福祉と言うものに関して教えてはくれるだろう。

が私は自分の心の中に、本当の意味での福祉というものつかみたい。そう思うからインドへ来る前に、四国八十八カ所の遍路、千四百キロを

一人で歩いて回りました。しかしまだまだつかめていないと言う感じがしたので、お釈迦様のふるさとをあるいてその御足をたどり、

出来る限り仏教精神の真髄みたいなものを心に詰めて帰りたいのです。人が人のお世話をするというのはどういうことなのでしょう。

やり方はいろいろあると思うけれど、私はまだ自分が納得できるような方法で理解が出来ていません。カルカッタのマザーテレサのホーム

にも立ち寄りました。確かに神は困った人を助けるのが人のつとめと説いています。お大師様はどのようにおっしゃってるのでしょうか。

ご存じ有りませんか。」


「いやはや、貴方の方が僕よりもずっと勉強していらっしゃいますよ。話を伺っていて感じることですが、

貴方は近頃の若い人になく深く物事を考えていらっしゃいますね。貴方のような人には滅多にお目にかかれませんよ。

こんな格好をしているけれども実は僕も同じようなことを考えて求めています。

詳しくは知らないのですが人の喜びが我が喜びに成るというのは観音様ですよね。理想ではあるが我々はなかなかそこまで到達できません。

いや、話がちょっと脇道にそれました。先ほどのおたずねですが、私の読んだ本(十住心論)によると第六住心は自分以外の人(もの)に対して


慈悲の心を起こすと言うことですか、このあたりのことが貴方が求めておられることではないでしょうか。

人々が心の奥底に持つ菩提と言うものを、言い換えれば心の有り様を十種類に分けてそれを段階的発展的にとらえて説明しているのです。

本能の赴くままに生きている動物的な人間の心、これが第一段階です。

第十段階(第十心論)ではまず自分が飛び込んでいく、、体を動かして飛び込んでゆくそうすることによって現実世界がそのまま理想世界となって現れる。

自分の心を徹底的に極めていくと自分自身の中に悟りがあると言うことに気づく。つまり菩提心の自覚ですね。

体を動かしてそこへ入っていくと言うことなんです。難しいことで僕もよくわかりませんが、知識としては持ち合わせています。

ほら、利他行とか菩薩行とかいうじゃありませんか。人間が求める崇高な理想です。」

「話や知識としてはわかったような気になりますが、真実心の底から理解しているかどうかと言うことを自問自答するとき

やはり自信がもてません。もう少し歩きましょう。インドのこの暑さを身に受け、歩き回っていると少しはわかるでしょう。」

「自分を鍛えると言うことは大変なことですが、それは実に尊いことだと思います。だがお釈迦様が難行苦行のおかげによって悟ったかというと、

どうもそういうものではなさそうです。そこで言いたいのですが、苦行も程々に願いたい。もし貴方が文字通りこの暑さの中を歩くとすれば、

いつか病に倒れはしないかと危惧します。人間はどんなに良いことを考えていても健康損ねたら何もできません。だからご存じとは思うが体だけはいたわってください。
もし差し支えなければ貴方の住所とお名前を教えていただけませんか。

申し遅れましたが私は仏教歌曲を作る作曲家です。立場は違うけれども仏教精神を追い求めることは同じです。

これからもお互いに自分の歩んだ道を話し合い、教えあいながら少しでも高い境地にたどり着きたいものですね。
 

僕は日本に帰ると今度こそ四国八十八カ所遍路をやります。インドとはまた違った何らかの啓示があるように思います。そのときには是非貴方に

連絡を取りたいと思います。

あっ いけない。もう二時ですね。早く寝ないと明日は五時起きですよね。

今日は長い時間、ありがとうございました。多分明朝はおあいできませんが、どうか気をつけて楽しい旅を続けてください。

ご無事をお祈りします。ではお休みなさい」。

続く。

アウランガバードにて

2018年04月02日 | Weblog
アウランガバードにて

私が思うに人間というものは何か意図があってこの世に出てきているということだ。また使命があってこうして巡礼しているようにも思う。もちろん自分自身の意志でしていることには違いないが、それでも一方では何かの大きな力に導かれてここまでやってきていると言うのが自分の素直な実感である。
 
アウランガバードはボンベイの北東約350キロくらいの所にある。大阪から静岡あたりまで行く距離である。エローラやアジャンタなどの遺跡を巡る基地のようになっている町である。ボンベイから夜行バスで発った。夜9時過ぎに出発したが着いたのは翌朝の十時過ぎであった。アウランガバードではツーリストホームに宿をとった。ここで私は一人の日本人女性に会った。彼女はもうかれこれ6ヶ月も一人でインドの佛跡を巡っているという。何が目的で?こんなにきつい旅を強いられるインドくんだりまで来て。
 

冷やかしではなくて、私は強い好奇心を彼女に向けた。この人は心の中に何か持っているに違いない。その何かは決してミーハー的なものではなく、多分私の心にずっしりと響く何かを持ってここまでやってきたに違いない。私は失礼にならない程度に踏み込んで彼女のことを聞いてみた。

明日に続く