自分自身が全身全霊を込めてやったことが、さまざまな理由で失敗した時、それこそ大きな挫折と呼んでいいだろう。
私のような弱い人間は、当初、その失敗の要因を自分以外に求める誘惑に駆られたものだ。
あのように失敗したのは、社会・経済環境の悪化の所為であり、心ない人々の仕業であり、あるいはたまたま運が悪かっただけであり、と他責の念に駆られていた。ほとんど自分自身と正対することを避けていた。
時として、深く傷ついた心を癒すために、他人を強く憎んだりもした。
しかし、時を経るに従い、いつしかそうした怨念にも似た想念がいかにも自分勝手な独りよがりな思いであることに気づいてくる。
冷静な気持ちで自分自身の心の内を深く見つめることができるようになると、実は失敗のすべての原因が、自分の非弱さであり、未熟さであり、無知さであることが見えてくる。
だからこそ、あの時の自分を客観的に見つめると、思わず罵り、嘲りたくなり、砂を噛むような気持ちが沸き上がり、胸の内が一杯になる。
そのような挫折の苦く辛く悔しい経験は、5年以上が経って今でも、なぜか時々鮮明に蘇ってくる。そして、それらは大きな固まりとなって腹の奥底に沈殿している。
その固まりから、身体の奥底で青白く燃える一筋の炎が立ち上がっている。その炎は、一見激しいものではない。むしろ、見た目は冷たくさえ感じられるような、実は超高温の炎なのである。
人生の成否は、死を迎える瞬間にこそ分かる!
その覚悟を持って、その瞬間までは、誰にも見せることも見えることもない炎を燃やしつづける。
実は、あの挫折こそ、私のその後を生き続ける最大かつ唯一のエネルギー源となったのだ。そう前向きに思えるように、やっとなったということか。
ただ未だ乗り越えてはいない。
それは人生最後の瞬間で良いと思い定める。
私のような弱い人間は、当初、その失敗の要因を自分以外に求める誘惑に駆られたものだ。
あのように失敗したのは、社会・経済環境の悪化の所為であり、心ない人々の仕業であり、あるいはたまたま運が悪かっただけであり、と他責の念に駆られていた。ほとんど自分自身と正対することを避けていた。
時として、深く傷ついた心を癒すために、他人を強く憎んだりもした。
しかし、時を経るに従い、いつしかそうした怨念にも似た想念がいかにも自分勝手な独りよがりな思いであることに気づいてくる。
冷静な気持ちで自分自身の心の内を深く見つめることができるようになると、実は失敗のすべての原因が、自分の非弱さであり、未熟さであり、無知さであることが見えてくる。
だからこそ、あの時の自分を客観的に見つめると、思わず罵り、嘲りたくなり、砂を噛むような気持ちが沸き上がり、胸の内が一杯になる。
そのような挫折の苦く辛く悔しい経験は、5年以上が経って今でも、なぜか時々鮮明に蘇ってくる。そして、それらは大きな固まりとなって腹の奥底に沈殿している。
その固まりから、身体の奥底で青白く燃える一筋の炎が立ち上がっている。その炎は、一見激しいものではない。むしろ、見た目は冷たくさえ感じられるような、実は超高温の炎なのである。
人生の成否は、死を迎える瞬間にこそ分かる!
その覚悟を持って、その瞬間までは、誰にも見せることも見えることもない炎を燃やしつづける。
実は、あの挫折こそ、私のその後を生き続ける最大かつ唯一のエネルギー源となったのだ。そう前向きに思えるように、やっとなったということか。
ただ未だ乗り越えてはいない。
それは人生最後の瞬間で良いと思い定める。