goo

徒然なるままに その19

そういえば、先ほど、「私が敬愛する」って言った、
大久保先生と三崎先生、
ふたりとも挨拶や法話のおしゃべりが下手くそでした。



起承転結なし、終わり方も いつも中途半端だったんじゃないかと思います。



ただ、両先生とも いつも違う内容のお話・ご挨拶で、
一生懸命聞いていると すっごく面白くて、ためになって、
必ず感動がありました。



両先生の頭の上には いつもアンテナが張ってあって、
いろんな事に たくさん感動して、
それを私たちに伝えようとしてくれていたんでしょうねぇ。

本当にありがたい事です。






ただ、私にとって、この事は 副作用があるんです。

今度は 深刻な副作用です。

それは、人には 必ず 別れが来ます。

檀家さんと 住職・寺族の関係が濃くなってくると、
その人、或いは 関係者のお葬式の時、
平静でいられなくなる、
悲しくなってしまうんですよ、私はネ。



単に、年取って 涙腺にしまりが無くなってしまってるだけかもしれませんが、
その人の思いっていうか、そんなものが
背中に 「ズンッ」と来る感覚。






お葬式ばかりじゃなくて、別の形の別れ、
転居やなんかでも同じですけどね。

それじゃダメなんですけどね。

悲しみは悲しみ、寂しさは寂しさとして、
もっと冷静にお葬式しなくちゃ 
お別れを言わなくちゃだめだと思います。

感情移入するお坊さんの方がありがたいって
言ってくれる方もいるんですが、
私のポリシーからすると、そうじゃない。



ブッダだったら と考えて、
淡々と、
心を込めて、
愛情を精一杯こめて 
お勤めさせていただく事。



そうしないと、相手に 真の安心を与える事はできないと
私は思っています。

僧侶なんだから!

ブッダの弟子なんだから。



私は、まだまだ 修行が足りません。


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )