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《考える》という事 上

「自然」とか「ありのまま」とか「如実知見」なんていう事が
仏教の悟りへの法則のように言うけれど、

《考えること》をしなければ
「自然」も「ありのまま」も、ましてや「如実知見」など
無くなってしまう。



一般的に「禅」とは、「無」の境地を目指して自力するのだが、
「無」を目指す禅宗
は、一方では 一番おしゃべりな仏教宗派でもある。

それは、「無(「悟り)」を説明しようとして
一所懸命考えるからにほかならない。






さて それでは「考える」とは いったいどういう事なのか?

というより、「考える」という事を
人は どう考えれば良いのか?



通常、人は、自分で考えている事は自分のものだと思っている。

あの人の、夫の、妻の、子供の、親の、友達の、上司の、
他人の考えている事は、
その考えている人のものだと思って疑わない。

当たり前の事である。



でも ちょっと待って!



ひとつの考えが誰かのものであるとは どういう事なんだろう?

それに明確な答えを探そうとすると、
「ひとつの考えが、それを考えた誰かのもの」
という意味がわからなくなってしまうのは
野衲だけ?






例えば、科学。

ノーベル賞を取れるほどの発見は
考えの積み重ねから生まれるものであるが、

それはノーベル賞を受賞した人だけのものか?

受賞者だけが独占的にその発見を使えるのか?



それじゃ 受賞者が
苦労して(或は楽しみながら)考えた意味が無くなる……
とは言わないが、
自己満足だけのつまらない「考え」になってしまう。



仏陀は仏教を考えた。

じゃあ、仏教はブッダだけのものなのか?

仏陀はがっかりするだろうね。

つまらない。






今日は、ここまで!

つづきます!


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