伊達だより 再会した2人が第二の故郷伊達に移住して 第二の人生を歩む

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咳をしても一人

2022-05-17 19:41:55 | 俳句 短歌

寒がりのはちょっと温度が下がると咳をする。

今日も気温が高いのにストーブに火を点けたので

こっそり消した・・・途端に咳をした。

「咳をしても一人」の句を思い出した。

最近思い出の世界にどっぶり浸っている私。

この句は二年の教科書に載っていた。

短詩型の教材が終わると必ず生徒に作品を創らせていた。

おちゃめな生徒の何人かは

放哉の句を真似て

寝ても一人

歩いても一人

などの類の句を延延と創った。

一クラスにそんな句を創る生徒が何人かいた。

修学旅行の時は参った。

俳句を一句全員に創らせたら

乙女の像を見て

・シズ子先生にそっくり乙女の像

と創った生徒がいた・・・ふっふ

 私はあんなにたくましくはないよー

 と抗議した。

その頃札幌の中学生の文芸誌「にれ」の編集委員をしていた。

丁度短詩型を担当していたので

東京のNHKの短歌講座の編集者から札教研を通じて原稿の依頼が来た。

その頃三年の担任をしていたので丁寧にお断りした。

二月の超忙しい時期だったので・・・残念。

北海道の生徒はどんな作品を創るのか特集をくむとのこと。

 

生徒に作品を書かせた後の整理が大変だったが

作品を読み豊かな生徒の感性に触れることのほうが楽しかった。

普段やんちゃで口数の多い生徒ほど機知に富みユニークな作品を

創り私を喜ばしてくれた。

テストはあまりよくなかったが優れた作品を創っていた彼らの姿が

脳裏にちらつく。

 

咳をしても一人」は、安住の地を求めながら漂泊した、自由律俳句の代表的な俳人、尾崎放哉の句

ネットより

尾崎放哉 新婚時代の写真 明治十八年~大正十五年 鳥取生まれ
 放哉は一高・東大とエリートコースをたどり、保険会社の要職にもつくが、世に入れられず酒に溺れ退職に追い込まれる。以後漂泊の旅を続け、大正十二年京都の一燈園で托鉢生活に入る。その後京都、須磨、小浜の寺々の寺男となり転々とする間、膨大な俳句を詠み才能を見事に開花させていった。
 小豆島へは大正十四年八月に来島、西光寺奥の院南郷庵「みなんごあん」の庵主となる在庵わずか八カ月の間病苦に苛まれながらも三千句に近い俳句を作り翌年四月孤独のまま生涯を終えた。
 亨年四十一歳 戒名は大空放哉居士 墓は庵近くの共同墓地の中にある。
   

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