こんばんは。
冷え込んでますねぇ。
この辺り、日中はそれでもまだ陽射しがありましたので幾分暖かさは感じたものの今朝は相当気温が下がっていたように思います。
小学校へ行く子らの声が「冷たいー、寒い~」と聞こえてきておりました。
上着を着ずに薄着で登校する子もなかにはおりますが、大抵はマフラー手袋して歩いて行っております。
どうにも今回の冬将軍、かなりきついようではありますね。
そんな日の朝は、このようなお天気でした。
朝のうちに下界まで買出しに行って来ました。
お天気もまぁまぁですし、歩くには着込んでいけば大丈夫そうでしたしね。
途中、花やらを眺めつつ行けるのは歩くからこそでもありますね。
今は椿の手前の季節というのか、あちこちで山茶花の花を見かけます。
樹によってはもう随分と花が散っているものもありますが、これから咲こうと蕾を沢山付けたものもあります。
菊も大分終盤に差し掛かっているようですけれど、まだ綺麗に咲いております。
そんな花などを見ながら往復して来ました。
午前中一杯掛かってしまいましたので、座って瞑想するのはこれを書く少し前、つい今しがたしておりました。
ダンプの音はしませんけれど、この時間になると今度は夕方帰宅する方々の車の音がして来るようですね。
最近に建てられた住宅ですとそんなに外の音は聞こえないのでしょうけれど、この家は申したように断熱材も入っていない頃の建築らしいので
音はもちろん、夏冬の暑さ寒さはそのまま感じ取れる家となっております;。
ま、自然に近い家と言えるのかも、ということにしておきましょうかね;。
ともあれ、そんな感じの中で頭に入ってきた事柄です。
瞑想していると
誰だろう 結構強い感じのものの言い方をされる
〝 一粒の米に 感謝の念を持った事はあるか
その一粒の米を作るために どれだけの 手が掛かっておるかを 考えたことがあるか
籾(もみ)を蒔き 田植え 日照りの頃に水をやり そうしてやっと実りの頃を迎える
今の時代では このようなものは要らぬと 目もくれぬ者もおる
確かにこれから先 食べるものも変わってくるであろう
しかしこれまで永い間 人間達は己の生命を繋ぐために 食してきたものを捨て
感謝を忘れ 辿り着く先に 何がある?
米一粒 或いは食す肉一切れにも 元の生命の記憶が含まれている
育ってきた環境 飼育されてきた環境の記憶が 全て詰まっている
それら全てを (自分達)人間は 生命を食物として 頂いておるのだ
それを 忘れるな
自分の食べる物が 自分の身体になるというのは 本当だ
自分の身体を作ってくれる それらの生命に どこまで 感謝して取り込むことが出来るか
それが 大事だ 〟
続いてイルカのエーヴィン
“ やぁ こんばんは 今日はどうだった?
素敵な一日だった?
何にも無く過ごしたと思っている?
でも君は 今日も 生かされてるよね
(何にも)無いということに 目を向けると 不足ばかりを感じるけど
君の持っているもの 出来たことに着目すると とても沢山のことがあるよ
無いことより 有ること 在ることに 目を向けてごらんよ
素晴らしい世界に 気づくことが出来るはずだよ
僕達 いつもそんな世界へいられて 幸せだよ
君たちも そんな世界だということに 気づいて欲しいな
じゃあ またね バイバイ ”
最初に出てきた声の主?というのか存在、これは誰かはしかとは分かりませんでした。
ただし、この声が頭に入ってくる前、たまたま見ていたものがありました。
このチラシというのか、先日街中で出た際、若い僧侶の方々が寒風吹きすさぶといってもおかしくないような寒い日にビルの陰で声を枯らし
ながら、年末に向けての募金、いわば御浄財を募っておられました。
大勢の方が行き交うけれど、全くというほどその方々に目もくれず足早に通り過ぎて行きます。
声を出しながら立っておられるその姿はどう見ても薄い袈裟懸けの衣に身を包んでおられお世辞にも温かそうとは感じられません。
今の時代ですからそれなりに下へ何かを着込んでおられるかもしれませんけれど、それにしても寒そうです。
それが彼らの修行の一環だからと言われれば、確かにそうであるのでしょう。
けれどそのような姿をみて、多少なりとも、と本当にごく些少をその募金箱(御浄財の箱?)に入れさせて頂きました。
その代わりに、このチラシを頂戴したのでした。
「高野山真言宗青年教師会」と書かれております。
この他にも別の場所で、やはり宗派は違えども同じようにかなりの数の僧侶の方々が街角に立ち、同様に寄付を募っておられました。
どちらの方々も足元は確か素足であられたかと思います。
自分達はぬくぬくとしたコートやジャケットに身を包みながら、それだけでなんとも申し訳ない気持ちになってしまったのでした。
そんなの、その時だけだよとこれも言われるかもしれませんけれど、例えそうであろうとこの次期の寒さの中でじっと立っておられる事だけでも
すごい事だなと、つい感じてしまう自分です。
そんな出来損ないの自分に代わり、して頂いておるようで余計頭が下がる思いがしております。
自分の思いはともかくとして、このようなチラシの文言を今一度それとはなしに読み返しており、その後に瞑想をすると上記のような言葉が
頭に響いてきたというわけなのでした。
そのように考えると、声の主はもしかすると弘法大師、空海、その方なのでしょうか。
かなり強い口調のように感じられました。
以前にも一度、高野山の奥の院にてその方のお言葉が頭の中に入ってきたことがありましたけれど、その折にはもっと柔和な穏やかな感じを受け
取りました。
今回のこの声はその時とは違い、もっと逞しい感じに思えました。
どなたであるのか、これはわかりませんけれど、今のこの日本の食糧事情を憂えておられるように感じられました。
何を食そうともその時に感謝の思いを持って己が身体の一部にせよ、とそのような事を言われたように思います。
現代は街中であれば、コンビニへ入ればいくらでも食料となるものは手に入れられます。
けれどその食料、食品を口にする時、どれくらいその物自体に対して感謝しながら頂戴しておるかといえば、これは言われるようにお腹をくちく
するがためだけに口へ運んでいるということが多いのではないのか、そうも感じました。
自分自身、食事の前には手を合わせ、いただきますと口に出してから食べはじめますけれど、本当に感謝しているのかといわれれば、己自身に今
一度問いかけねばならぬように思います。
食べる物が身体を作るとは、これは常に言われておるようなことですけれど、そうであるならば尚更その食物について、自分のために食べさせて
くれて有難う、とその思いを新たにせねばならないのでは、とこれもまた重ねて感じたことでした。
続いてお馴染みとなってきましたイルカのエーヴィンです。
この名前なのですけれど、アーヴィンなのかエーヴィンなのか、最初の発音がアとエのちょうど中間どころのような感じでして(自分が思うには;)
それでその時々によりこの名前自体がアーヴィンになったりエーヴィンと表記してしまったりするようです。
いずれにしても同一の存在であることには違いありませんのでご承知おき頂ければと存じます。
さてそのエーヴィン、申すごとくいつも元気です。
彼の言う言葉は、これもまた至ってシンプルに思えます。
シンプルだからこそ、案外というのか一番重要な部分を言い当てているようにも感じます。
無いという不足、これはまず一番にはどうしてもお金を始めとして物としての不足を言うのではと思います。
あれがない、これがない、これもでもお金があったらなぁ、気づくと常に心の中でそう考えていたりもします。
かく言う自分自身、物を見ればついついそう感じてしまいます。
ですけれど、自分が頭に思う、その物は今此処にはないけれど、見渡せばまだ他にこんなに沢山持ててるぞ、とも思い返しも出来ます。
こうしれて日々この場をお借りしながらも、自分の言いたいことを存分に発信させて頂けておること、これは何にも増して有難いことと感じられ
ます。
結構そういうこと、ご自分の中にもあるかと思いますよ。
そのようにして、自分の持てておる事、出来ている部分を見返してみることが大事なのではと思います。
こうして書いておりますと息子から連絡がありました。
未だにお腹下すのが収まらないようです;。
次の休みには検査を受けてみるといっておりました。
今日の公休日にも良い鍼灸の先生を見つけたとかで症状を話しお灸をしてもらったとのことですけれど、やはり下痢が止まらないようです。
今の職場に入りどうしても同僚の方々との親睦を兼ねた飲食の機会も増えておるようで(お酒弱いのに、飲んでるらしいですしね;)余計
負担が掛かっておるのかもしれませんけれど。
外回りの営業、腹巻とかカイロとかして冷やさんようにねとは申しておるのですけれど、果たしてどこまで出来ますものやら;。
甘い母ちゃん重々承知の発言で御座います;。
皆様もこれから年末年始、忘年会新年会等あるかと思いますけれど、くれぐれも胃腸にはお気をつけ下さいね。
本日もこのブログへのお付き合い、真に有難うございました。
感謝申し上げます。
冷え込んでますねぇ。
この辺り、日中はそれでもまだ陽射しがありましたので幾分暖かさは感じたものの今朝は相当気温が下がっていたように思います。
小学校へ行く子らの声が「冷たいー、寒い~」と聞こえてきておりました。
上着を着ずに薄着で登校する子もなかにはおりますが、大抵はマフラー手袋して歩いて行っております。
どうにも今回の冬将軍、かなりきついようではありますね。
そんな日の朝は、このようなお天気でした。
朝のうちに下界まで買出しに行って来ました。
お天気もまぁまぁですし、歩くには着込んでいけば大丈夫そうでしたしね。
途中、花やらを眺めつつ行けるのは歩くからこそでもありますね。
今は椿の手前の季節というのか、あちこちで山茶花の花を見かけます。
樹によってはもう随分と花が散っているものもありますが、これから咲こうと蕾を沢山付けたものもあります。
菊も大分終盤に差し掛かっているようですけれど、まだ綺麗に咲いております。
そんな花などを見ながら往復して来ました。
午前中一杯掛かってしまいましたので、座って瞑想するのはこれを書く少し前、つい今しがたしておりました。
ダンプの音はしませんけれど、この時間になると今度は夕方帰宅する方々の車の音がして来るようですね。
最近に建てられた住宅ですとそんなに外の音は聞こえないのでしょうけれど、この家は申したように断熱材も入っていない頃の建築らしいので
音はもちろん、夏冬の暑さ寒さはそのまま感じ取れる家となっております;。
ま、自然に近い家と言えるのかも、ということにしておきましょうかね;。
ともあれ、そんな感じの中で頭に入ってきた事柄です。
瞑想していると
誰だろう 結構強い感じのものの言い方をされる
〝 一粒の米に 感謝の念を持った事はあるか
その一粒の米を作るために どれだけの 手が掛かっておるかを 考えたことがあるか
籾(もみ)を蒔き 田植え 日照りの頃に水をやり そうしてやっと実りの頃を迎える
今の時代では このようなものは要らぬと 目もくれぬ者もおる
確かにこれから先 食べるものも変わってくるであろう
しかしこれまで永い間 人間達は己の生命を繋ぐために 食してきたものを捨て
感謝を忘れ 辿り着く先に 何がある?
米一粒 或いは食す肉一切れにも 元の生命の記憶が含まれている
育ってきた環境 飼育されてきた環境の記憶が 全て詰まっている
それら全てを (自分達)人間は 生命を食物として 頂いておるのだ
それを 忘れるな
自分の食べる物が 自分の身体になるというのは 本当だ
自分の身体を作ってくれる それらの生命に どこまで 感謝して取り込むことが出来るか
それが 大事だ 〟
続いてイルカのエーヴィン
“ やぁ こんばんは 今日はどうだった?
素敵な一日だった?
何にも無く過ごしたと思っている?
でも君は 今日も 生かされてるよね
(何にも)無いということに 目を向けると 不足ばかりを感じるけど
君の持っているもの 出来たことに着目すると とても沢山のことがあるよ
無いことより 有ること 在ることに 目を向けてごらんよ
素晴らしい世界に 気づくことが出来るはずだよ
僕達 いつもそんな世界へいられて 幸せだよ
君たちも そんな世界だということに 気づいて欲しいな
じゃあ またね バイバイ ”
最初に出てきた声の主?というのか存在、これは誰かはしかとは分かりませんでした。
ただし、この声が頭に入ってくる前、たまたま見ていたものがありました。
このチラシというのか、先日街中で出た際、若い僧侶の方々が寒風吹きすさぶといってもおかしくないような寒い日にビルの陰で声を枯らし
ながら、年末に向けての募金、いわば御浄財を募っておられました。
大勢の方が行き交うけれど、全くというほどその方々に目もくれず足早に通り過ぎて行きます。
声を出しながら立っておられるその姿はどう見ても薄い袈裟懸けの衣に身を包んでおられお世辞にも温かそうとは感じられません。
今の時代ですからそれなりに下へ何かを着込んでおられるかもしれませんけれど、それにしても寒そうです。
それが彼らの修行の一環だからと言われれば、確かにそうであるのでしょう。
けれどそのような姿をみて、多少なりとも、と本当にごく些少をその募金箱(御浄財の箱?)に入れさせて頂きました。
その代わりに、このチラシを頂戴したのでした。
「高野山真言宗青年教師会」と書かれております。
この他にも別の場所で、やはり宗派は違えども同じようにかなりの数の僧侶の方々が街角に立ち、同様に寄付を募っておられました。
どちらの方々も足元は確か素足であられたかと思います。
自分達はぬくぬくとしたコートやジャケットに身を包みながら、それだけでなんとも申し訳ない気持ちになってしまったのでした。
そんなの、その時だけだよとこれも言われるかもしれませんけれど、例えそうであろうとこの次期の寒さの中でじっと立っておられる事だけでも
すごい事だなと、つい感じてしまう自分です。
そんな出来損ないの自分に代わり、して頂いておるようで余計頭が下がる思いがしております。
自分の思いはともかくとして、このようなチラシの文言を今一度それとはなしに読み返しており、その後に瞑想をすると上記のような言葉が
頭に響いてきたというわけなのでした。
そのように考えると、声の主はもしかすると弘法大師、空海、その方なのでしょうか。
かなり強い口調のように感じられました。
以前にも一度、高野山の奥の院にてその方のお言葉が頭の中に入ってきたことがありましたけれど、その折にはもっと柔和な穏やかな感じを受け
取りました。
今回のこの声はその時とは違い、もっと逞しい感じに思えました。
どなたであるのか、これはわかりませんけれど、今のこの日本の食糧事情を憂えておられるように感じられました。
何を食そうともその時に感謝の思いを持って己が身体の一部にせよ、とそのような事を言われたように思います。
現代は街中であれば、コンビニへ入ればいくらでも食料となるものは手に入れられます。
けれどその食料、食品を口にする時、どれくらいその物自体に対して感謝しながら頂戴しておるかといえば、これは言われるようにお腹をくちく
するがためだけに口へ運んでいるということが多いのではないのか、そうも感じました。
自分自身、食事の前には手を合わせ、いただきますと口に出してから食べはじめますけれど、本当に感謝しているのかといわれれば、己自身に今
一度問いかけねばならぬように思います。
食べる物が身体を作るとは、これは常に言われておるようなことですけれど、そうであるならば尚更その食物について、自分のために食べさせて
くれて有難う、とその思いを新たにせねばならないのでは、とこれもまた重ねて感じたことでした。
続いてお馴染みとなってきましたイルカのエーヴィンです。
この名前なのですけれど、アーヴィンなのかエーヴィンなのか、最初の発音がアとエのちょうど中間どころのような感じでして(自分が思うには;)
それでその時々によりこの名前自体がアーヴィンになったりエーヴィンと表記してしまったりするようです。
いずれにしても同一の存在であることには違いありませんのでご承知おき頂ければと存じます。
さてそのエーヴィン、申すごとくいつも元気です。
彼の言う言葉は、これもまた至ってシンプルに思えます。
シンプルだからこそ、案外というのか一番重要な部分を言い当てているようにも感じます。
無いという不足、これはまず一番にはどうしてもお金を始めとして物としての不足を言うのではと思います。
あれがない、これがない、これもでもお金があったらなぁ、気づくと常に心の中でそう考えていたりもします。
かく言う自分自身、物を見ればついついそう感じてしまいます。
ですけれど、自分が頭に思う、その物は今此処にはないけれど、見渡せばまだ他にこんなに沢山持ててるぞ、とも思い返しも出来ます。
こうしれて日々この場をお借りしながらも、自分の言いたいことを存分に発信させて頂けておること、これは何にも増して有難いことと感じられ
ます。
結構そういうこと、ご自分の中にもあるかと思いますよ。
そのようにして、自分の持てておる事、出来ている部分を見返してみることが大事なのではと思います。
こうして書いておりますと息子から連絡がありました。
未だにお腹下すのが収まらないようです;。
次の休みには検査を受けてみるといっておりました。
今日の公休日にも良い鍼灸の先生を見つけたとかで症状を話しお灸をしてもらったとのことですけれど、やはり下痢が止まらないようです。
今の職場に入りどうしても同僚の方々との親睦を兼ねた飲食の機会も増えておるようで(お酒弱いのに、飲んでるらしいですしね;)余計
負担が掛かっておるのかもしれませんけれど。
外回りの営業、腹巻とかカイロとかして冷やさんようにねとは申しておるのですけれど、果たしてどこまで出来ますものやら;。
甘い母ちゃん重々承知の発言で御座います;。
皆様もこれから年末年始、忘年会新年会等あるかと思いますけれど、くれぐれも胃腸にはお気をつけ下さいね。
本日もこのブログへのお付き合い、真に有難うございました。
感謝申し上げます。