日々徒然なるままに

日々感じたことを書いていきます、よろしくお願いします

ダンスに寄せて

2017-12-26 20:02:28 | 身体を動かすこと
こんばんは。
午前中はそこまででもありませんでしたが、午後、特に夕方近くになるとかなり気温が下がってきました。
家から見える奥、北方面の山頂辺りはだんだんと白くなって来ているようです。
また寒さがぶり返しそうですね。
そんな朝は雲間から少し晴れ間が覗いておりました。



                                  



         
                                  
                                  


午前中に所用も兼ねて下界へ買出しに行って参りました。
当然いつものように歩きですので、坂を下るのは早いのですけれど、帰りはその分上りとなり荷物を抱えて帰って来るのは、ちとしんどいですね;。
しんどいというよりも、しばらく前から右膝が曲げ伸ばしの際に痛くなって来ており、歩くのは何ともないのですけれど、その分腰からお尻に
掛けてが痛くなってきております。
寒いのも相まって、またぞろ神経痛のようにならねばよいけれど;と自分に感じているところです。
歳ですねぇ;。

自分自身はつい最近知ったのですが、ダンスをする高校生、大阪府立登美丘高校の生徒さん達のバブリーダンスというもの、あれをネットで最初に
拝見した時、あれ、これって何十年前に撮ったものなの?と思いましたが今現在の彼女らによるものなんですね、驚きました。
評価というのか彼女らのあの踊りを表現するのにキレッキレッと称しておられますが、まさにその言葉がドンぴしゃりとでもいうような激しいダンス
ですね。
二分半程という制限時間の中で自分達の踊りを表現する、出来そうでなかなか出来ることではないなぁと感じながら拝見しております。
ちょうど三十年位前ですよね、荻野目洋子さんのあの曲。
いわゆる世の中、バブルといわれて浮かれ騒いでいた時代だったのではと思います。
右肩上がりの景気の中で、不況という言葉のかけらも無かった頃でしたね。
そんな時代の空気すらも上手くダンスに組み入れておられ、見ている此方側が何の違和感も抱かないばかりか、まるでタイムスリップしたような
感覚すら覚えるようです。
彼女達の全く知らない、もっと言えば彼女らの生まれる遥か以前の時代の事、といえるのでしょうね。
当然ですけれど、本当に年代、時代の格差を感じてしまいます。
自分にしてみると記憶の中の一コマともいえる時が、既にそれだけの年月が経っているというのは、ある意味不思議な気がしないでもありません。
あのバブルといわれた日本中がお祭り騒ぎのような時代から、次には一変して先ほども書いたように不況といわれる暗い時へと移ろって行きました。
息子に言わせると、自分達はバブルと言われている時代は知らない、物心ついた時には世の中不景気と言われていた、どんだけその前が派手な
事してたのかわからない、と言います。
確かにねぇ;、とも思ってやります。
我が家はそうではありませんでしたけれど、人によれば三年で車は買い替えるもの、中には一年毎に替えるという方もおられました。
今思うと、それってどうなんだろうとも感じますけれど、やはりその当時の雰囲気がそのようなところがあったのでしょうね。
若者、ことに男の子は必ず車を持つのが当然のようなところもありましたしね。
今はそんな維持費の掛かるもの、余程でないといらない、とも言われることもあるようです。
とはいえ、この辺りの地方となるとやはり一家に一台、ではなく一人に一台は当たり前のようなところはありますけれど。

時が移れば必要とされるものもまた変わっていくのは当たり前のことですね。
今は移動の手段としての車ではなく、どこでも誰とでも繋がることの出来る機器、いわばスマホ等のメディア自体に関心が移ろってきているのは
これも否めないことなのでしょうね。
この先どのように変わっていくのか検討も尽きませんが、次には何が流行るのか、そうも思います。

                                   


                                   



普段が瞑想とか静かな方へ目を向けている事が多いせいか、あのような躍動感溢れる、ある意味ガッチリ地に足がついている感覚というのがとても
新鮮に感じられます。  
自分一人の中で完結しておるのではなく、大勢で作り上げながらも一つのものに仕上がっているという充実感のようなものが伝わってきます。
彼女達が凄いと感じられるのは、あの二分半の中で脇目も振らず精一杯にダンスを成し遂げているからでしょうね。
まさに、今此処、この瞬間を生きているからだ、そう思えます。
実際あのダンスの最中に別のことを考えていたならば、ダンスそのものが崩れてしまう、そうも感じます。
だからこそ集中しなければならない、そういうことなのだと思います。
ある意味、身体を動かしながら心の部分を昇華させることにより、ある種の瞑想にも似た境地なるのかな、とも感じます。
どのように此処を表現させて頂いて良いものやらわかりませんので、ついこのように書かせて頂きましたけれど、自分を滅するほどに没頭する
そのこと自体、瞑想に近いのではと思った次第です。
本当にそうであるのかどうか、自分がこのようなダンスを我を忘れるほど表現出来るわけがありませんので、なんとも申せないところではあり
ますが。
とはいえ自分自身、あのダンスの最初の十秒、いや五秒ですら、ついていくことなど出来様はずがありません;;。(歳ですな;)




                                   




このところ、毎日のように上から降りてくる?言葉を綴らせて頂いておりますが今日は少し視点を変えた話題とさせて頂きました。
申すようにテレビの無い家ですので巷間で何が流行っているのか、殆ど知らない状況です。
その中で、たまたまこのような生命力溢れるといってもいい位のお嬢さん達によるプロ並みのダンスに、早く言えば心奪われたのでした;。
やはり若いっていいな、元気があるって素晴らしいな、そう素直に感動しているオバサンです;。  




                                   



今夜もまた一段と冷え込みそうです。
皆様、温かくしてお休み下さいね。



本日もこのブログへのお付き合い、真に有難うございました。
感謝申し上げます。
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始まりも無く 終わりも無く

2017-12-25 21:14:38 | ちょこっとスピリチュアル
こんばんは。
朝はどんよりとしていましたが、だんだんと晴れ間が出てきて夕方には綺麗な夕焼けが見られました。
気温が下がり、また寒くなるようですね、年末年始あまり寒さに向かわないでほしいところですね。
そんな朝はこんな感じ、曇っておりました。



                                 




                                 




先だって掃除機がどうのと話しておりましたけれど、やっこさ届いて既に三日ほど経ちますけれど、これでまともな掃除が出来る状況になりました。
やれやれです;。
これまではずっと箒で掃くという昔ながらの?日本のスタイルとでもいうような掃除方法で、なかなか隅っこまでは綺麗になりませんでした。
もちろん拭き掃除はしますけれど、どうしてもここ、というところまで綺麗になりにくく、四角い部屋を丸く掃除する自分ではありますけれど;
やはりストレスでしたね。
掃除機を壊したのが階段を掃除している時で、途中の段のところへ本体を置きながら掛けていたのですが何かの拍子にその本体が階下まで転げ
落ちてしまい、その衝撃で壊れてしまったのでした。
それまでにも、もう既にホースがパックリと割れてきたりとかがあり、その度に買い替えてもおりましたが、何度も繰り返した後にそのように本体が
壊れてしまい、その掃除機にご苦労様をさせてもらったというわけでした。
実は結婚して此方、主人がそれまで懇意にしていたいわゆるご近所の電器屋さんとの付き合いがあり、何かあれば電話一本で持ってきて下さいという
と、はいわかったよ、と二つ返事でじきに物が届いておりました。
そういうのが普通だったのですけれど、何年か前にそこのご主人も高齢ということでお店を閉められここ最近は自分でどこかの電器屋さんへ行って
調べながら購入するという流れになってきております。
もっとも、そのご近所の電器屋さんで購入したもの、何故かちょっとやそっとでは壊れることがなく、よしんば壊れたとしてもご主人に頼めばほぼ
八割方、直っていたのではと今にしてみて思います。
そんなわけでしたので、これ欲しいなと思ってそのお店へ行くと、これよりこっちがいいからこっちにしときなさい、とそこの奥さんに薦められる
まま、いつも買っていたように思います。
それは価格の面でも性能の面でも、そのお客さんに合ったように薦められるので全く不自由にも不満にも思うことなく、むしろ街中に多くの電器屋
さんがあるということ自体、不思議なほどに感じておりました(電器屋さん関係の方おられましたら、すみません;;)
けれどここへ来てそのような状況になった時、なんと不便でそれ以上に大いにお世話になっていたのだなぁ、と改めて感じておるところです。
殆どの物の寿命が長かった分、これから壊れるものが増えてくると思うと、ある意味怖いですね;。
折りしも今朝、これも結婚当時に購入したコーヒーメーカーのガラス容器を不覚にも落として割ってしまいました;。
これとて今まででしたら、このガラスの容器の部分のみを取り寄せて貰えていたのですが、そうもいかなくなりました。
ネットで検索しましたら、あるにはありますが既にこの型の容器は廃盤になっているようで、さすがにどうにもならないようです。
このガラス容器の部分だけが割れ、あとは全く支障のない状態なのですけれど、使えない状態になりましたね;。
ほぼ三十年間もってくれたわけで、自分は飲まないのですけれど主人や息子はコーヒー好きでよく飲んでおりましたのでこれも買い換えるしか
ないようですね。
ま、手動というのか自分で入れれば済む話ではあります;。








今日も祝詞奏上の後に感じたことを書かせて頂きます。

   〝  今 此処にあれ

      日本人は この時期 一年の締めくくりとしておる
 
      本来は 節(せち)であるが (二月三日)

      しかし 元々 始まりも なければ 終わりも無い

      全て 連綿と 続いておる

      そなたらが 始まりがあるとか 終わりがあるとか 決め付けているだけのこと

      循環があるだけ

      但し 肉体には 限りがある (身体)いとえよ

      中の魂は 変わらぬ しかし肉体に入ることにより (様々に)制限される

      そなたらの 考え方も この肉体に 左右される

      ならば この中で 精一杯を 楽しむべし

      前世や 未来を見るのではなく 今 この時を 楽しむことだ

      それ無くして 何故 この肉体があるのか

      (身体)をいといながら 今を 楽しめ   〟


 頭頂の上から光? 下から上昇するエネルギー
 太く逞しい声 あくまでも頭の中へ入る感覚としての声   


        

                                     


今日のこの声はどうも大神、大国主大神かと思えたのですけれど。
毎回申すようにどうして日々違う存在、平たくいえば違う顔ぶれ、メンバーが交代するかのように現れるのか、これは自分でも全く分かりません。
今回は、はじめに静かに何も考えず周りの物音もそのまま聴いていた感じでしたけれど、そのうちにこのような言葉が頭に入るというのか浮かぶ
というのか、ともかくもそのようにして響いてきたのでした。
また内容そのものについても、これら一連のことが頭に入ってきた後に、自分などより遥かにスピリチュアルといわれる分野でブログ等を上げて
おられる方の書かれている文章を拝読致しますと内容が似ているということがよくあります。
自分が向こうを真似て書いたのではと思われるかもしれませんけれど、自分としては降りて来る内容そのものがいわばシンクロしていたのでは、と
感じております。
確かにそれらの方々の文章なりを拝読しておりましたものが頭のどこかに残っていて、それがあたかも此処へ書かせて頂く存在らの言葉のように
して書いてしまったということが、もしかするとあるかもしれません。
ですけれど頭へこれらの言葉が響いてくる時には、そのようなことを考えたりしているわけでは全くなく、これもよく申すように入ってくる情報を
一度頭の中で翻訳しつつ言葉にしているようなものです。
響いた言葉をその直後に自分でノートに思い出しつつ書き起こして、そうして読んでみると、あれどこかで聞いたような話だなというのはあります。
どうしてどのようになるのか、それはそれこそわかりません;。
入ってくるから、響いてくるから、としか言いようがないところです。

前置きはそのくらいにして、今日の言葉はお正月がどうとかというよりも、もっと連綿と続いているこの時間という概念について述べられたように
感じております。
より言えば宇宙という、かなりスケールが大きな話になりますけれど。
始まりも終わりもない、というのは、よくビッグバンと言われているこの宇宙の成り立ちについてですけれど、このようなものこそ、まず無く、
始まりも終わりもない、ただ今此処にこうしてあるだけ、というようなことをいわれたように思います。
いきなり話が広大過ぎて、かつ、そんな科学者さえですら真実であるのかどうか分かっていない科学の分野をこのようにいわれることこそ、あんた
一体何様のつもり?とお叱りを受けて当然な話のようですけれどね;。
話が少しそれるかもしれませんけれど、あのビッグバンというもの、おバカな自分には到底理解不可能なことなのですけれど、ある時突然大きな
衝撃、つまりビッグバンがありそこから宇宙が始まったといわれているのですが、どうしてもそこのところ、本当?と感じてしまうのですよ;。
おバカな自分は、じゃあそのビッグバンの前は何なんだ?と勘ぐってしまうんですよね;。
その前も、あったんじゃね?と思うわけです;。
まぁ、自分のそのような考えは置いておくとしても、この始まりも終わりも無く、ただ循環があるだけ、というのはなんとなくそうなのかもしれ
ないと、この言葉を聴きながら感じておりました。
物事皆生々流転、小さくなったところから大きくなりやがてまた小さくなっていく、この繰り返しではないのかな、と。
その時に全く何もないのではなく、やはり何かがあった、あったけれどそこの部分(何かという部分)が分からないだけで必ずその何かはあったの
では、とも思います。
この話、し出すと多分、おバカな自分では最後収拾がつかなくなりそうですので、このあたりで止めておきます;。

次の、肉体は限りがあるというのは、これは誰しも分かることですね。
この自分というものが入っている肉体という器には限りがあるけれど、中に入っている魂はいつまでも続いていくということのようです。
とはいえ、自分にしてもこの自分以外の記憶はないのでその前、つまりは前世はわからないですし、未来はもっとわかりません。
ですけれど魂は続いてきているならば、たまたま今の自分に記憶が無いだけともいえるかもしれません。
ならば、自分の前世や未来を探ることが大事なのかといえば、それも違うのだということです。
今、この肉体を持った自分は、今此処ででしかあり得ないわけですから、今のこの時を大事にしなければならないということだと考えます。
過去をクヨクヨしても変わらないわけですし、それならば今この時を充実させるならば、今のこの時こそが過去になるわけであり、今のこの時を
大事にしていくことで未来へと繋がっている、ということなのだと思います。
これもよく言われておることですけれどね。
今あるこの肉体をいといながら、自分自身を楽しむこと、一番大事な生き方と思います。
出来てるかなぁ、自分;。



         
                                     




                                     



なんだかいつになく熱くなった感じでしたけれど、大したこと言ってないのは、いつもの通りです;。
またなんか言ってるねぇ、くらいにみておいて下さい;。
                                   
明後日くらいが帰省のピークでしょうか、どうぞ天候よ荒れないで下さいとお願いしないといけませんね。
                                     

本日もこのブログへのお付き合い、真に有難うございました。
感謝申し上げます。
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聖夜

2017-12-24 21:32:20 | ちょこっとスピリチュアル
こんばんは。
ここ、3、4日割と暖かく感じる日が続いておりますね。
とはいえ今日の雨の後、また寒くなるという予報もあるようですし体調管理に気をつけたいところです。
そんな日の朝はやはり曇っておりました。




                                   




                                   




今日はクリスマス・イヴ。
お子さんのおられるご家庭ではケーキを購入されたり、パパサンタさん、或いはママサンタさんが活躍されるのかもしれませんね。
我が家もそんな時期がありましたけれど。

昨日も少し書いておりましたけれど、神道ではありますけれど息子はマリア様の像がある幼稚園へ通っておりました。
他にも色々幼稚園はありましたけれど、本人をこの園にある日たまたま連れて行くと、園庭に入るやとても楽しそうに遊具で遊び始めたのが
きっかけだったのもあります。
(時間的に園児さんたちは帰宅したあとの時間だったようでした)
その頃は今ほど外部の人を締め切る感じでもなかったように記憶しております。
ちょうどおられた先生とみられる方に声を掛けさせて頂き、此処へ入るのってやはりクリスチャンでないと駄目なんですかと尋ねると、そんなこと
ないですよ、どなたでも大丈夫です、殆どのお子さんは仏教徒さんですよ、という会話をしたことがありました。
此方の園はその頃、結構人気のある処で募集人数以上の応募があり、抽選となっておりました。
自分としては此処なら息子も楽しそうだなと感じ、それこそ我が家の神様、大国主大神にどうぞ息子が通りますように、とお願いしたのでした;。
後に幼稚園へ通るように拝んだと主人に話すと大笑いしてましたけどね;。(祝詞あげたのではなく、手を合わせて必死に拝んだという感じでした)
とにかくも、そうしてまさに神様を拝み倒して(苦笑;)お蔭様で幼稚園には無事入園させて頂くことが出来ました。
その入園の前に園に隣接しておられる教会の神父さん?と園の先生のお二人の前で親の面接があり、我が家のことを聞かれたのですけれど仕事
自体がお宮という扱いになりますし、そこをどう説明しようかと考えつつ出雲大社の云々を話すと、神父さんが前の赴任先が出雲であられた
とかで、案外すんなりとおわかり頂けたようでした。
ともあれそんな経緯を経て、無事に通えることとなったのでした。
毎朝、園に着くとまずは先にもあげましたマリア様の像のところで「おはようございます」のご挨拶をし手を合わせるのが日課となっておりました。
うちの息子、最初は殊勝にもきちんとこのご挨拶もしておったようですけれど、年齢が上がるにつれ、園バスを下りるや否や、マリア様の前を手を
合わせるかどうかで通り過ぎておったようです;;。
先生方の中にはシスターもおられ、かなりご高齢の方もおられたりもし、皆さんから慕われておられました。
そのシスターの先生に向かい年上の友達と息子はだんだんと覚え立てのワルイ言葉を使い、散々その先生をはやし立てておったようでもあります;。
三歳からの三年保育でしたけれど、この三年間で相当な悪いことを覚えて来ていたようです。
可愛いけれど、悪いのも覚えてくる、そんな時期ですよね。
それでもやはり子供は子供、純粋にサンタクロースはいる、そう信じ切っていたようです。
通う幼稚園がキリスト教なのですから、当然な話ではあります。
が、彼のその純真な心は無残にも打ち砕かれたのでした;。
何故かって?
あるクリスマスが近い頃だったのか、息子が嬉しそうにサンタさんの話をしていたのだと思います。(この話、自分ではあんまり覚えておりません
ので、すみません;;)
あんまりサンタさん、サンタさんというのがどうもその時に虫の居所が悪かったのか、こともあろうか年端のいかぬ息子に向かい父親である主人が
「そんなものはおらん(いない)、買ってくるんは父ちゃんじゃ!!」と言い放ったようなんですよ;;。
全くなんちゅうことを言ってくれるんだ;;と多分自分も感じたと思うのですけれど、その時のことが記憶に殆ど無く;、後で息子はかなり泣き
じゃくったのではと思います。
しばらくして主人も悪かったと感じていたようですけれど、後の祭り、あんまりですよね;。
いくら自分が神道の神主だからとはいえ、息子は園の教会で厳かなミサをして来ているのですから、そこのところは大人としてダブルスタンダード
でいてほしかった、そう思っております;。
まぁ今や笑い話ですけれど、その時はかなりショックだったと息子が悔しそうに時折話しておりました;。
とはいえ、これもまたクリスマスにはちゃんとケーキを買い、親子して頬張りながら「今だけキリスト教徒」なぞと申しておったのも主人です;。
結構いい加減なオジサンであったのは、否めませんかねぇ;。
いやはや厳粛なクリスマス・イブの話題としては如何なものか、な話題となりました、申し訳御座いません。




                                    


先にも書いたように今日はイヴ、その日に不思議と出てこられたのはどうやらキリストと思しき方でした。

 
   〝    いつもあなたと 共に居ます

        すぐそばにいるのです  忘れないで下さい 心配しなくてもよいのですよ

        あなたは 大国主大神の下へ おられますね

        いつも大神は 太い光の柱の中に あります (だから怖れることはないのです)

        安心して下さい

        他の存在からの(声は) そこの場所の また違った精妙なエネルギーの違いを

        感じて欲しくて 呼んでいるのです

        山の奥の 深い緑に囲まれた地での エネルギー
      
        湖のそば 又 富士の山の近くにある エネルギー  
 
        陽光煌めく(ハワイ)の エネルギー

        そのどれもが 少しずつ 違います

        その違うエネルギーに 触れて欲しいのです   〟


    〝   先日 あなたは 炎を取り囲む人の絵を 描きましたね

        あの絵は あなたを 現したものでも あります

        炎自体が あなたで 周りを取り囲むのは

        多くの存在達です

        物が燃えるとき それは光を放ちます

        とても明るく 煌めいていきます

        その炎を 見つめていると 心が 落ち着くはずです

        あなた自身が 周りを照らす炎となり

        人々を 照らして下さい

        あなたなら 必ず 出来ます   〟




                                      



実際にキリストと言われる方がこのような話をするだろうかというと甚だ疑問には感じますけれどね。
しかしながら口調というのか話し方はキリスト特有な穏やかな、かつ厳かな雰囲気を感じられました。
大国主大神が太い光の柱であるということ、これは自分でも納得出来る思いです。
神様を感じる時、それは目を閉じていても眩いと感じるほどの光を覚えます。
その光に包まれるような感覚、それこそが神であるのではとも思います。
それを伝えて下さっているこのキリストという存在も、やはりそのような光の存在であることには違いありません。
自分達人間が、あの存在とこの存在ではその立場は全く違うのではないかと勝手に解釈しているだけで、上の方の存在としてはそのような分け
隔てというもの自体、既に無いのかもしれません。
そう考えると、これ等の言葉も確かになるほどなと思えることばかりです。
彼方此方で精妙に違うエネルギーを感じて欲しい、そう言われるのも、これも今まで別の存在からも言われていることです。
伝えて下さる口調で、内容は同じでも此方側の受け取り方が少しずつ違うようにも思います。
その違いに思いを馳せながらこれらの言葉を大事にしたいと感じております。
         
先日の絵というのは、加藤さんの講座で描かせて頂いたあの絵ですね。
焚き火の炎を囲んで人々が話をしているという絵です。
はじめにこの絵の元となった言葉は、『キャンプファイヤーを囲んで若い人々の集団が霊的な交渉を保ちながら座っている』というもので、そこ
から連想される絵を描いて下さいというものでした。
自分の中で考えた時に、絵としてはこのようになったのでした。
今回、キリストはこのように語っておりますけれど、実際にはもう少し言葉がありました。
いつも申しますように、言葉として受け取った際にどうしても後で書き起こす形ですので全てを書けておるというわけではありません。
ですので、もう少し言葉があったというよりは二通りの解釈があるという風に伝えられたというのが正しいかと思います。
一つは此処へ書いておりますように、自分自身が周りを照らすような明かりになりなさい、ということです。
もう一つは、自分を取り囲む数多の様々な存在がいるんだよ、それはあなたにこの言葉で言われているように霊的な部分をサポートしているのだよ
ということを伝えているんだ、ということでした。
自分が明かりになりながらもその自分もまた周りからサポートされている、お互いにお互いを必要としている、ということでしょうか。
概ね皆そのような関係なのだとは思うのですけれど、より自分自身が明るくありなさい、ということなのかもしれませんね。
自分の描いた絵にそんな意味があったとは驚きですが、なんとも嬉しくも感じられた今回の言葉でした。



                              
                                     
        


昼頃から降っておりました雨は今のところ止んでいるようです。
明日はあまり寒くないのでしょうか、まだわかりませんけれど、このような時に今日の続きとして片付けをして行きたいと考えております。
だんだんと年末の感じが迫って来ましたね、やはりどことなく焦りを感じておるところです;。


本日もこのブログへのお付き合い、真に有難うございました。
感謝申し上げます。
                                                
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冬至の日のエネルギーワーク

2017-12-23 21:04:41 | ちょこっとスピリチュアル
こんばんは。
朝は冷えておりましたが、そこまででもなかったようで日中は案外と暖かかったようです。
子供たちは既に冬休みのところも多いのでしょうか。
今日は下界;へ下りておりませんのでどのような様子かはとんとわかりませんけれど、おもちゃ屋さんやケーキ屋さん等、賑やかだったのではと
思います。
とはいえ明日がイヴ、まだまだこれからといったところでしょうかね。
そんな朝はこのような感じでした。
(二枚目、バッチリのピンボケですみません;)

                             

                                    




                                    




冬至については昨日書かせて頂きましたけれど、そんな昨夜に此方でよくご紹介させて頂いております『虹色の空に金色の風』のブログを書いて
おられますTomokatsuさんが「冬至のエネルギーワーク」というものを開催されまして、自分も参加させて頂き、エネルギーを受け取らせて頂き
ました。
午後九時からということで、その時間はまだこのブログを書いておる最中でしたけれど、一旦手を止めてリアルタイムでのボーカルチャネリング
による誘導瞑想という形で行って頂きました。
このTomokatsuさんご自身、男性ではありますけれど非常に柔らかい波動を持った感じの方でして、誘導される口調も非常にソフトでそれだけで
癒される感じが致します。
ご本人もおっしゃっておられましたが途中でそのまま寝てしまいそうな程、心地よい感覚が最初から最後まで継続しておられました。
最初に上からエネルギーが降り注ぎますとおっしゃったようで、その感じを自分で受け止めたのですけれど、自分が感じたのは青く太い一筋の光が
頭頂へと入ってきたようでした。
自分自身が瞑想をしていて良く感じる、頭の上のモワモワした感覚がより一層強いように思えておりました。
だからと言って決して不快なわけではなく、とても心地よい感覚でした。
やがてそれが下へと降りて行き、次には胸の部分、ハートチャクラと呼ばれているところが温かく感じられました。
Tomokatsuさんは緑の色で表されるチャクラと言っておられたようでしたけれど、感じられたのは淡いピンクのなんともいえぬ幸福感のような
温かさでした。
目を閉じていても思わず微笑んでしまいそうな程の温かさを覚えておりました。
時間としては15分間という短い時間でしたけれど、受けている最中は短いような、あるいは逆に1時間は受けていたのではないかと思うほど
長く感じたりもしておりました。
それだけ充実したエネルギーを受け止められたのかもしれません。
終わって後、出来ればそのまま寝てしまいたいような感じでしたけれど、そうもいかず;書きかけのブログを仕上げてお風呂に入り就寝という
いつもの流れとなりました。
エネルギーワークを終えた後に申すようにブログをもう一度書いておったのですけれど、この時にネコがいつも以上にゴロゴロと言いながら膝の
上に上ってきておりました。
ネコ自身、何か感じるものがあったのでしょうか、彼ら動物の方がこのようなエネルギーには敏感なのでしょうからおそらくそのようなものを
鋭敏に感じ取っていたのかもしれませんね。
朝起きても、かなり目覚めも良い感じを受けておりました。
久々で爽やかに目覚めたように思います。
このエネルギーワーク、Tomokatsuさんのブログではこの後一週間程は動画として掲載されるとの事ですので、気になった方は覗いてみられては
如何でしょうか。
かなり心地よさは感じられるかと思いますよ。




                                     



                                   
                                     



そのようなエネルギーを受け取らせて頂きつつも、今朝もいつものように祝詞奏上致しました。
頭の中へ響いて来たのは、今日はほぼ大国主大神の言葉であったようです。


 祝詞奏上後、奉幣を振り終わると 後ろへ白龍(昨日よりスリム? というか元に戻った?)
 青龍 黒龍と三頭居る感じ?
 タツノオトシゴみたいに縦になって浮いているよう

    〝   その方へ ついておる龍じゃ これより後 働きをしてくれよう

       (あちこちへ参ること) 焦るでない

        時が来れば 自ずとそのようになる
    
        今 あちこちで切れていた 網目が また紡ぎ直されてきておる
        
        古いものを繋ぎ合わせたり 新しいものが 紡がれたりしておる

        そういう時期である

        そなたは 多くのものに 見守られている

        大きな 一つのものなのじゃ (それを感じよ)

        有難いと思え 温かさに包まれておる     〟


    〝   金龍 アーロンと申すものかも知れぬ

        訪ねて来たようじゃ

        これもまた 力を貸そうぞ
 
        イルカのエーヴィン この者 楽しげに出て来てくれるが 

        元々 人間と同じくらい 或いはそれ以上に知能の高い彼らである

        夜空に輝くシリウス  この星は我が国でも古から 様々な呼び名で呼ばれておる

        高度な知識を授けてくれる存在じゃ

        その教えを (エーヴィンが) 容易く説いてくれておる 

        楽しんで 受け取れ    〟


 身体の中から温かい 物理的には寒いのに 不思議



                                   

   
祝詞奏上の際には常にというほど後ろへその気配を感じておる白龍ですけれど、昨日までとは違いその身体がスリムになった、或いは元通りに
なったように感じられました。
昨日まで一体どうしたのでしょうね、理由は太くなった時同様、何故なのかはわかりませんけれど、見た目すっきりとしたようでした。
そんな白龍と共に青龍、また黒龍との三頭が後ろへ控えておるように感じられました。
仲間の龍なのでしょうか、先日見かけたあのやさぐれた感;の龍ではなく、ごく普通(というのはおかしな言い方ですけれど)の龍達のようでした。
大神が言われるには、これらの龍がこれから先、一緒にあれこれを手伝ってくれるのかもしれません。
また先だってから、あっちへ参れ、こっちへ来いと言われておりますのもその時期が来れば、必ずそうなるとのことのようです。
焦るでない、このように言われたのは気持ちとしてもホッとしております。
どうも昨日、或いは一昨日位から少しだけ流れが変わったのかな、とも感じます。
これまではとにかく早く早く、と急き立てられるような感じが付きまとい、どうしたものか;と内心焦りを覚えておりましたけれど、そこまで
急がなくても、その時になれば自ずと流れがそのようになって来るとのことで、とても楽に感じられます。
その様になって来ているのは、これは最初に書かせて頂いたTomokatsuさんによるエネルギーワーク、また加藤さんの講座、そうしてこのところ
日々行って頂いておりますまるの日さんのヒーリング等により、自分へと流れてくるエネルギーがある意味、整えられて来ているからかも知れない
とも感じております。
自分一人で悶々と悩むよりも、やはり色々な方々のお力添えを頂いてこのように変わって来られているのではと思います。
此処の部分こそ、有難いと思え、という大神の言葉なのだろうとこれも感じております。
変わるについても、これも大神が言われておりますように、古いものを今一度繋ぎ合わせたり、或いは新しいものを紡いだりしている最中、そうい
うことなのだと感じさせて頂いております。
温かいと感じられるのは、そのような方々、また多くの存在から見守られているからなのかもしれません。

これは何も自分だけがそうというのではなく、皆様ご自身が常にどこにあろうと見守られているということなのでは、と思います。
そんな風に全く感じられないといわれる方もおられるでしょう。
ですけれど、ご自身を見守る存在は必ずおられる、そう思っております。
感じるかどうかだけで、自分にたとえるならば常に白龍がおるように何がしかの形で寄り添っておられると思います。
そこを感じるには、ではどうしたら良いのか、これについてはまだまだ自分自身が皆様へお伝えさせて頂くには能力不足です。
けれどそれらの存在を感じ取れるよう、今後自分が励んでいかねばならない部分なのでは、とも感じております。
その為のあちこち訪問;?を言われておるのだとも思います。
やはり努めなければ、ですね。

さて、前述の龍達同様、やはり我が家に足繁く?顔を見せてくれます金龍ですけれど、なんともこのように大神はおっしゃっておられますけれど
これは果たしてどうなのか;。
こればかりはわかりませんね。
このこと、Tomokatsuさんにお尋ね致しておる最中ですので、事の真相はいずれわかるかと思います。
イルカのエーヴィン、彼も親しげに話をしに来てくれておりますが案外と難しいことを自分にもわかるように噛み砕いて話をしてくれているのかも
しれませんね。
今度来たときには、ちゃんとお礼を述べたいと思います。
シリウスはお風呂上りに外へ出て、夜空を見上げるとよく話しかけてくる気が致します。
おい、大丈夫か;?と言われそうですけれど、此処までの話でも相当ぶっ飛んでおりますので、何を今更、ですよね;。
シリウス、その誰がかはわかりませんけれど、理路整然とした話し方をされます。
かと言って取っ付き難いというのではなく、親しき仲にも礼儀あり、とそんな風な話し方というところでしょうか(余計わからないですかね;)
瞑想の時同様、頭の中へ言葉が入って来る感じですけれど、そのままメモも取らずにいるので何を言われたか殆ど覚えていないのが常です;。
今度そのような機会があれば、きちんとメモを取って置こうと思います。




                                    
                                 


明日からお天気はどうやら下り坂のよう、それでいてさほど気温も下がらないようですのでホワイトクリスマスとなるかどうかは微妙ですね。
え、お宅神道じゃないの?と言われそうですけれど;。
クリスマスくらいになると既に日本の行事の一環のようなものと感じております;。
厳密にはもちろん違いますけれどね;。
そこのところの話は、また明日にでもさせて頂こうかと思います。



                                    



本日もこのブログへのお付き合い、真に有難うございました。
感謝申し上げます。
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一陽来復

2017-12-22 21:36:44 | ちょこっとスピリチュアル
こんばんは。
今朝は放射冷却もあってか、相当に冷え込んでおりましたけれど、日中はこのところの寒さが少し緩んだようで割りと暖かく過ごせました。
ただ日が陰るとやはり寒さを覚えますね。
そうして今日は冬至、一年で一番昼の時間が短いとされておりますけれど、明日からは日一日ごとに日脚が伸びて行くようになります。
日本ではそこまでこの冬至を重要視していないようですけれど、国によっては長く暗い時期から抜け出せる日となるのを祝う風習もあると
聞きます。
それだけ重要な日と捉えられているということでしょうね。
翻って、我が家(といっても一人だけですけれど;)では今夜かぼちゃでも炊こうかな、と考えております。
皆様のお宅ではどなさいますか。
そんな日の朝はこんな感じ、昨日同様朝焼けが綺麗でした。




                                





                                



その後、10時頃に撮ったお日様が此方。
何故か今日の太陽は殊のほか有難いような気がして、まさ先にも書いたように暖かい空気が嬉しくて家の外で撮ってみました。
あまり景色が良いとはお世辞にも言えませんけれど;。

                                

                                
                                

この冬至の日に自分の願うことを思うと良いと、今日は多くの方が書かれておられるようですね。
どこか希望が持てる、そんな日なのかもしれません。
そうであるならば、これもよく言われますように決してネガティブな事を考えるのではなく、明るい方向へ向けての願いを思うこと、これに尽きる
かと思います。
冬来たりなば春遠からじ。
この言葉が一体いつ頃の事を指すのか、ネットでみてみると、なんとこの言葉、自分はてっきり日本のことわざのように考えておりましたけれど、
さにあらず。
イギリスの詩人シェリーの「西風に寄せる歌」の一節、ということらしいです、知りませんでした;。
とはいえ、とうに冬は来ておりますので冬来たりなば、はもう少し前の時期かも知れないかもとも思います。
冬至は東洋的に考えてみると、これまで段々と暗くなる一方であった陽射しが少しずつ伸びていくという風に捉えると陰が極まった状態であった
ものが、ここからまた陽へと転じていくものだとされるのかな、とも思います。
易の中に「一陽来復」という卦(け)がありますが、これがまさにそれを表しているとされますね。
ほんの少しだけ専門的(でもないですけれど;)に申しますと、卦は内卦と外卦というものに分けられます。
元々、卦をあらわすのはこの内卦と外卦の組み合わせによるのですが、陽を表すのは長い線、陰を表すのは真ん中が断線した破線となっております。
その線を上下共に三本ずつを使い様々に表現していきます。
これを下の卦である内卦と上の卦である外卦をそれぞれ組み合わせて表現されたものが易であり、その種類は64通りあります。
その中の一つにこの「一陽来復」という卦があるということですね。
この卦は、下の卦、内卦が陽の線が一番下に一本と後の二本はその上に陰の線が乗っている状態、上の卦、外卦は三本共に陰の線がある状態です。
これを上下で組み合わせると、一番下の部分だけが陽であり、あとは全て陰であるといえます。
これまで卦の全ての線が陰で表されていた状態から、やっと陽の気が下から立ち昇って来た、そのような状態を表現している卦とされております。
自分自身、64種類ある卦の中で最も好きな卦です。
「一陽来復」
これまでしんどかったけれどようやっと明るい兆しが見え始めた、これからだぞ、と思わせてくれる、そんな卦のように感じております。

今日の冬至、今一度心してかみ締めながら、炊いたカボチャ、頂きたいと思います。(最後はやはり食い気ですかね;;)



                                




そんな冬至の日の今日、やはり神殿にて祝詞奏上させて頂き、頭に浮かんだ事がありました。


 祝詞奏上の最中から背後に より太めになった龍 ひしひしと感じる
 奉幣を振ると尚一層(そう感じる)
 窓の外には 様々な龍がひしめいている?
 どうもあまり素性のよろしくないものもいるみたい;?
 やさぐれているのか?


   〝   救いに参れ!  あちこちへ行け    〟
 
 黒い大きな龍?


 天河? まさか ちょっと皆さんの(ブログ)を見すぎている;

 
   〝   水分(みくまり) 然る後に 天河へ参れ 

       それなら 文句はあるまい?    〟

 
 本当かいな;

  
   〝   そこの龍が 待っておる 九頭龍もじゃが

       行くことにより 底に溜まっておる(奥の)お金のエネルギーも まき上げられ

       (経済としての)エネルギーが 廻り出す    〟

 行く費用は?

   〝   必ず なる   〟

 
 地球の外 白龍 地球を見下ろしながら 悠々といる

 思考の中で 一番に自分が波動の低いことを考えている
 そうではなく これからしたいこと 
 ありたい姿を 思い描くこと



                                  



祝詞をあげながら、ふと背後に気をやるとどうもやはりかなり胴回りが逞しくなったような白龍を感じます。
どうしてそのようになったのか、とんとわかりませんがもしかして此方も我が家のネコ同様、冬太りではあるまいに;と思うのですけれど。
何か理由があるのでしょうけれど、それも後にわかるのかも知れません。
そのもう一つ向こう、窓の向こう側にはこれは先だっての立派とも感じられた金龍とは違い、どこか素性の知れぬやさぐれたような龍の顔が
幾つも此方を覗いているようです。
やさぐれたってまさか龍にそんなのいるんですか、と突っ込みたくなるような感じなのですけれど、本当にそのような感じを受けました。
先日の古井戸の龍もかなりくすんでいたようでしたけれど、今日の龍達は、それとはまた違い、というのかそれが嵩じて相当に性格まで悪くなり
そうなくらい、裏を返せばそこまで酷くなるような仕打ちを受けてきた、そんな彼らなのかもしれません。
しかし一体、どこから来たものやら、とんとわかりません;。
今後それも明らかになっていくということなのでしょうか。
いずれにしても此等の龍が今この時を待っているのなら、どうやってでも行かなければならないのかもしれませんね。
うむむ、頑張らねば;;。


       
                                   
                                     



そのお力添えを頂戴出来るのが、此処へ出てきております奈良県のあの天河神社、天河弁財天社といわれておるところなのでしょうか。
此の神社、最近様々な方のブログへも登場しておりますけれど、実際奈良県のかなり奥まった場所に鎮座されております。
まず水分(みくまり)へ行け、といわれておりますのは、これは吉野にあります以前にも書かせて頂いた吉野水分神社のことのようです。
神様なのか、此処へまた登場した黒い龍が声を掛けてきたのか、いずれにしても行けだの参れだのと、さも簡単げにオーダー、もしくはコマンド
して下さいますけれど、それでは、はいそうですか、と行けませんって;。
しかし、それでも尚行かねばならないようですね;。
参らせて頂くことにより、底に滞っている停滞しているお金の動きが、まるで下に溜まったワインの澱(おり)を舞い上がらせるかのように浮上
してくるのかもしれません。
これがそれこそ澱であるならば、綺麗に取り除かなければならないのでしょうし(ワインの場合は、よく存じませんので悪しからず;)そうする
事により、滞っていたお金のエネルギーが今一度動き出すならば、そのように致すべきなのだろうと考えます。
果たして龍に会いに行くのか、自分の事で行かねばならないのか、もはやわからなくなっておりますけれど;。
九頭龍神社もそうですけれど、どうででも脚を運ばねばならない案件のようです。
お相手が神様やら龍では、どうででもそうせねばならないのでしょう。
年が明けると動けるよう、そのような動きになれるよう、本当に精進せねば、です;;。
あ~、出来るんかいなぁ;。



                                                                                                         



   
そんな自分の思惑はまるで知らぬように、宇宙を行く虹を纏ったあの巨大な白龍は様々なものが混在する地球の様子を悠々と飛びながら眺めておる
ようです。
あれこれあるようでも、それも流れの一つ、そんな風に捉えておるのかもしれません。
最後にあの煌くような光を身に纏う白龍を久々に感じられたのは、とても嬉しいことでした。
自分自身が感じずとも、どこかでこのように見守ってくれているのかもしれないですね。
そんな風に感じられる自分でありたい、そのようにも思えました。


                                                                   

                                   



新年はまだ少し先ですけれど、早や春の足音はすぐそこまで来ておるようにも感じられます。
とはいえ、寒さもこれからが本番、お正月も間近です。
どうぞ体調を崩さぬよう、皆様お気をつけてお過ごし下さいね。


本日もこのブログへのお付き合い、真に有難うございました。
感謝申し上げます。
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