日々徒然なるままに

日々感じたことを書いていきます、よろしくお願いします

龍やら 姫やら

2017-12-06 21:04:32 | ちょこっとスピリチュアル
こんばんは。
日々、気温が低下中、更新しているようですね。
今朝は屋根や車の上がうっすら白くなっておりました。
うちから見える奥の方、北方面は朝方特に雲に覆われ、おそらくあの下は雪だろうなという様相を呈しておりました。
なんだか早くも冬本番という感じですよね。
皆様の辺りは如何でしょうか。



                                



                                




                                




                                




                                



卑近な話、昨日の続きで失礼致します、愚息のことでございます;。
息子に連絡してみると、どうもまだ今日もお腹治っていないようでして;。
もうそれ病院行った方がいいよと話し、本人もそのようにするつもりとは言っておりましたが。
何かに中った(あたった)のかねぇ、と思ってやりますけれど;。
同じ物を同じように食べていたとしても、食す本人の身体の状態で何ともなく済んだり、或いは今回のようにかなり酷くなってみたりするよう
ですしね。
大体が自分と息子、変なところというのかお腹の弱いのがどうにも似てしまったようです。
幼い頃はどちらかと言わずとも主人に似て体型もコロッコロッしておりましたが小学6年の体育の授業で首を痛めてしまい、以来どうにも太れな
くなり、胃腸の弱い部分が母親の私に似てしまったようです。
お互い、自慢出来ぬほど細過ぎるので何かあるとすぐげっそりしてしまいます;。
よく痩せてていいですねぇ、なんて言われますけれど、自分達の場合は度が過ぎておりますので全く当てはまりません。
治っても申すように、後々までかなりひこずりそうです;。
明日もどうやら代休で休みのようですけれど、早く治るよう祈るばかりですね。
一応;本職ですので息子の病気の障り除けというご祈祷は致しました。
母ちゃんが出来るのは、こんくらいですんでねぇ;。
(甘い母ちゃんだと自覚しとります、ええ;)




                                 



そのようなこともありますけれど、今朝も変わらず祝詞奏上させて頂き、瞑想致しました。

 祝詞奏上後、目を閉じると

 厚い雲の上を 金色の光を浴びながら行く龍
 今回の 自分に遣わされた龍か?
 気持ちよい

   〝   ついて参るか  〟 

 と言われた?

 様々な存在 キリストやらもいたような?
 木花咲耶姫も?

   “   あなたのお越しになるのを お待ちしております    ”

    どこ?

   “   私のいる場所へ来て下さい   ” 
 
    富士山?  もっと近くても 坐しますか?


 漆黒の夜空の真上から 眩い 強い光  頭頂から一直線に 
 下から 突き上げるエネルギー

   
   〝   動け 動かねば 動かぬ   〟





                                    



安定?の龍の登場ですね。
今回は述べておりますように先日、自分に遣わされたと思しき白に金色の入ったあの龍のようでした。
どうやら想念の中で、この龍について参るか?と呼び掛けられたように感じましたけれど。
ついて参るかというよりも、既に貴方と自分は一心同体?な気がしておるところではあります;。
雲の上を行く様はいつも変わりません。
悠々と駆けていく様を、この龍の視点からいつも眺めておるようです。
昨日も申しましたように、これがなんとも気持ちよく遮るものがない大空を行くのは毎回胸がすく思いです。

そのように大空を駆けながらも、どこかでまたキリストの存在を感じておったようでもありますね。
これもいつも申すように、瞑想の最中は多くの事柄が一時に入って来、それらを感じておるのですけれど、聴くというよりも情報量が多いので
それらを身体全体で感じているという方が当てはまっているように思います。
此処へ書かせて頂けておるのはそういった事柄を後に文字に書き起こすので、どなたもそうかと思いますけれど全てを覚えておるかと言われると
そうとは言い切れません。
おそらく出てきたキリストと思しき存在も、また何か言われたのかもしれませんけれど、それこそ記憶に留めておりません。
それでも自分の無意識のどこかに記憶として在るのかもしれない、そうも感じております。

木花咲耶姫 またお出ましになられましたね。
来なさいと言われたようですけれど、いやぁ、そうそう参れません、と感じておるところです;。
自分の住まう近隣、どこかで居られないものかと探してみましたところ広島県内にも浅間神社というのがグーグルで出て参りましたが、地図上で
確認してもあるとしましても相当に小さいところのようですね;。
参らねばならないならば、別のところを当たった方が良いようです。
一番良いのは、取りも直さず本家本元の富士山本宮浅間大社であられることには間違いありません。

その後、辺りはまるで漆黒のような夜空というのか宇宙なのか、ともあれ頭頂から眩いほどの光が差し込んで来ました。
どこから来る光であるのか定かではありませんけれど、一条の強烈ともいえる眩い光に感じられました。




                                     


大抵、いつも同じような事をいわれておるということ、これも以前お伝えした通りです。
なんせ聴く側が要領悪い方ですので、言う側はこれでもか的に同様のことを繰り返し伝えてくるのだと感じております;。
さもありなん、で御座います;。
まぁでも、このくらいしつこく言われてようやっと重い腰を上げるようなヤツですので、向こう、じゃないや;(すみません;)上の存在もよく
わかっておられるということですね。(これも当然だな;)
前に進むこと、動くこと、こう言われて今自分の出来ることをしていっております。
それがどのような結果であろうと、まずは動かねば始まりませんので。
答えが出るのは、もうしばらく掛かるかもしれません。



                                    



本日もこのブログへのお付き合い、真に有難うございました。
感謝申し上げます。
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この頃の あれこれ

2017-12-05 20:31:35 | ものの見方 考え方
こんばんは。
いよいよ冬将軍到来でしょうか、今しがた歩いて来ましたら、最初は ちらり   ほらり  と一片(ひとひら)の雪かしらどうかしらと
いう感じで落ちてきていたものが帰りにはかなり降って来ておりました。
奥を見ると山の上は既に白く被われ始めております。
今夜は冷えるかもしれません。
そういえば日中は雪起こしと思えるような風がごうっとと音を立てて吹いておりましたしね。
朝はやはり寒い空気が張り詰めておりました。




                               




                               




                               



最近、うちの前の道路を日に何台かダンプが往復しております。
これは夏頃話しておりました、この近くにある砂防ダムに溜まった土砂を掻き出しダンプに載せて別の場所へ運搬するのに、このように頻繁に
往来しているということです。
道自体が6メートル以下でかなり見通しの悪い場所もある為、そのような箇所にはガードマンさんが立って逐一無線で連絡を取り合いながらダン
プを通しておられます。
季節の良い時期ならともかく、暑かったりこうも寒く風の吹くはさぞ大変であられるだろうと家の中で居る自分は頭の下がる思いです。
以前も申したように、それが仕事だからといわれれば確かにそうですけれど、このような方がおられるからこそ自分達の生活の安全が守られて
いるとも感じております。
そんなオジサン達と話すと、寒いは寒いけど慣れもあるよ、とのこと。
さすがプロだなぁ。
風邪引かずに頑張って下さいねぇと毎回話しております。



                              
                               



こんな感じの千切れ雲が多く飛んで行く風の強い日、案外とそんな空行く雲を眺めているのが面白いのですけれど、年々寒さに勝てなくなって
来ております;。
さっきのオジサン達、見習わんといけませんな;。



日課となっております祝詞奏上の後の瞑想、いつもそれほど長い時間座っているわけではありません。
長くてせいぜい20分程かと思います。
1時間も座れば良いのかもしれませんけれど、座っております神殿が殆ど火の気がない処でもあり、瞑想しておりますとそのような事も忘れて
しまうのですけれど、それでもだんだんと寒さが募って参ります。
片方で次元の違う場所へ居りつつも、もう片方は案外と寒さを感じておりますようで;修行が足りんぞと言われそうですけれど、そんな感じで
致しております。
また始める前に何度か深い腹式呼吸をして、意識的に息を大きく吸ったり吐いたりして気持ちを整えて行きます。
準備としてはこのように割と間単に始めて行きますね。
そんな今日の瞑想で感じたのが此方です。




 祝詞奏上後、目を閉じて静かに座る

 おーーーーーの大神の声?

    〝   まずは良し (これで良し?)

        在ること 在るがまま 

        (何も)無いのではない (全て) 在る

        気がつかないだけ

        (全て)此処に 在る   〟

 
 見晴るかす 高い山々
 雲間から 金色の光が差し込む
 その光に向かい 飛んで行く


      
    〝   思うところへ 参れ
   
        動け

        留まるな   〟
 
 
これまで様々に出てこられている数多の存在とは少し違い、以前よりずっと付き合いの長い(という言い方も変ですけれどね;)大国主大神は時
として自分でその言葉を下ろしてくる、いわばみくじを下ろす際、まれにこのように最初におーーーーというまるで警蹕(けいひつ)のような声
が出ることがあります。
これは確かに大神のしるしであると、自分では感じております。
大国主大神というだけあって、その存在感は大らかでありながらも威厳のあるどっしりとした感じを受けます。
有無を言わさぬと言う表現がありますけれど、そこまで強くはありませんが確(しか)とした思いを受け取る感じです。
どの存在でもそうではありますけれど、殊大神に関してはその感覚が強いですね。
みくじを下ろした後は、不思議と感情も高揚しているようにも思えます。
これまでで一番慣れ親しんだ、そんな存在であるからかもしれません。

そのような大神からの言葉、神でありながらまるで禅問答ともいえるような言葉ではありますけれど、これを別の言葉で置き換えるとしたならば
最近よく言われている『ワンネス』という言葉にも近いのでは、と感じます。
物事全てはひとつである、宇宙は全てを包含しておるということ、宇宙空間には何も無いように感じられるけれど、そこにはありとあらゆるものが
在るのだ、ということではと思います。
自分が説明すると、言葉そのまんまで全くわからん、説明になってないわ;と言われそうですけれどね。
瞑想をして、あの空間に身を委ねると言われているとこの言葉の意味がよく理解出来る気がします。
何にも無いところで静かに一人座っているだけですけれど、その自分の周りはこうも豊かで明るいところなのか、と感じられてきます。
これが〝 全て 此処に 在る 〟と言われている所以なのではと実感されます。
この感覚はしかし、やはりご自分で感じ取らないとどのように言葉を尽くして説明しても一番分り難いことなのかも、とも思います。

思うところへ参れというのは、自分自身いつまでもグズグズしておりますので、これは思う処、或いは人々と繋がり新しい関係を結びなさいと
いうことなのではと考えております。

実はこのブログを始めてからも、自分自身、この何年間か自分の致しております仕事、神主の仕事に誇りを持ちながらも、こんな自分で果たして
皆様に対して良いのだろうか、こんな自分なんて大したこと無い、とずっと心のどこかで燻る思いがありました。
え、そんな風に全然感じないし、むしろふてぶてしいくらい、あんたふんぞり返っておりますぜ、と感じられておられたかもしれません。
そうだとしましたら、大変申し訳ございませんでした。
けれど、常に自分の中で、これは本当の自分では無く、どこかもっとしゃっきりとした自分であらねばと焦燥感に似た思いを抱いていたようにも
感じます。
それが此の度の神迎祭に何年ぶりかで参らせて頂いたからなのか、何か自分の中でグジグジくすぶる思いであったものが、急に氷解するように
溶けてきた、そのように感じております。
それを感じたのは、何でもないごく普通に乗っていた昨日のバスの中でのことでした。
いつものように所用で出掛け、帰りにバスに乗り込み途中ほんの少しウトウトした後で目を開けて何とはなしにこれから先の自分の姿を思い浮か
べておりました。
そこには嬉々として、皆さんを前にして話をさせて頂いておる自分を頭に描いておりました。
これまでにも当然仕事上でそのように多くの方と接しさせて頂いておりますけれど、これまでとはまた少し違った自分でまた新たな方々との関係
性を取り持てておるような、そんな姿でした。
デジャブというのとも違いますけれど、自分がこうありたいというある意味一種の理想の自分の姿だったのかもしれません。
そのような姿を頭に思い描いた時、あ、これ自分、もっと自信持っていいんじゃない、と感じられたのでした。 

聞かれる側の皆様にしてみれば、何それ?という感じかもしれませんけれど。
しかしながら、自分の中では小さいけれど、何か大きな一歩を踏み出させて頂けたのでは、と感じておるところです。
とはいえ、肝心なのは当然此処からなのですけれど。




                                   



話は全く変わりまして、うちの息子のことでございます;。
卑近な話題ですみません(あ、上の話もそうですけれどね;)
連絡してきたのですけれど、どうやら昨夜から熱が出て目眩は治ったけれど、お腹下すのが収まらないとか;。
公休日は毎週、火、水曜ですので身体を休めるのには問題ないのでしょうけれど、なんせ一人暮らし。
近くのコンビニは歩くと15分ほどであるにはありますが、そんな身体では出るのも億劫でしょうしね;。
同じアパートに住む同僚の方にスポーツ飲料買って来てもらえば?とは言ったのですけれど。
あまり酷いようなら行ってみてやろうかと思いながら外を見ると、なあんと雪、ですがな;。
まぁ、それほど積もるまでは行かないでしょうけれどね。
後ほどまた連絡して、どんな様子か聞いてみたいと思います。
甘い母ちゃんと言われそうですけれど、やはり心配ではあります;。
自分も若い頃一人暮らしは10年ほどしましたけれど、病気の時が一番心細かったですね、今思い返してみても。
気をつける以外にはありませんね。

このお腹下して熱出して、はどうも流行している節があります。
皆様もどうぞお気をつけ下さいね。




 
                                     



本日もこの拙いブログへのお付き合い、真に有難うございました。
感謝申し上げます。
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龍の坐します処

2017-12-04 22:37:56 | ちょこっとスピリチュアル
こんばんは。
いよいよ冬本番でしょうか、と毎日みたいにやれ寒いだのと申しておりますけれど、いやぁ寒くなる感じですよね;。
冬生まれのくせして寒さには弱い自分です、皆様は如何でしょうか。
昨夜は煌々としたスーパームーンと呼ばれる月の明かり、それもどことなく青っぽいような色の月光が輝いておりましたけれど、一夜明けると
雲に覆われておりました。
これからこんな感じのお天気になって来るのかもしれませんね。
そんな朝は申すように曇っておりました。
とはいえ、遠くは霧が出ていたようでもありました。



                                  




                                  




                                  



ブックマークさせて頂いております「富鷹成易」の白水明さんの毎月の呪文、少し遅くなりましたけれど此方でもご案内させて頂きます。
呪文というと何やら怪しげに感じられるかもしれませんけれど、此処でいう呪文とはいわばアファメーションとお考え頂ければと思います。
ご自分や周りを良くして行く為に唱える文言と置き換えた方がわかりやすいかもしれません。
是非、皆様も唱えてみて下さい、詳しい事は此方もご本家である「富鷹成易」をご覧になって頂ければと思います。


          令 令 巳 辰 申 急 急 如律令  (れい れい へび たつ さる きゅう きゅう にょりつりょう)

このように唱えて、どうぞ今月、というよりも今年残りあとひと月を健やかにお過ごし頂ければと思います。


かく言う自分自身、今朝は祝詞奏上後、この呪文を唱えて目を閉じました。
その時の感想です。

          いきなりぐーんと 飛び立つ(龍?)
          大気圏外へ出る
          バックは漆黒の闇
          浮かぶ 青い地球
  
            〝  争いを止めよ  平和を祈れ  〟

今日はこのようにかなり短い感じでしたけれど、出てきたのはやはり龍であったように感じます。
その龍が果たしてどの龍?であったのか、そこまでは定かではありません。
けれど、こうして地球の外へ飛び出すとなるとこれはやはり虹色を纏うあの白龍であるのかもしれません。
何かを感じて、ある意味警告しているようにも思います。
この先どのようになっていくのか、本当に不透明であり予断を許さぬ時点まで来ておるとも感じます。
平穏な日常を願うなら、自分達自身どのようにしていくのが本当に一番良いのか、真剣に考える時期に差し掛かっておるのかもしれませんね。
短いけれどそのようなことを感じた、今日の想念の中の龍でした。



                
                                



そんな龍ですけれど、最近この「龍」に関して身近な方からもその事をうかがうことが増えてきました。
折りしも、これもブックマークさせて頂いております「癒し雑貨店長&星読み画家」の加藤ひさこさんも今日のご自身のブログへ「ドラゴン
ライダー」と称して素敵なイラストを掲載しておられました。
彼女ならではの感性で、大きな瞳が愛くるしい活発そうな女性の絵を描かれております。
加藤さんのお店で扱われておられますアンシェントメモリーオイルというものの中に、このドラゴンという香りのオイルがあるのですけれど、
その香りはどこかエキゾチックな雰囲気を漂わせてまさにドラゴンという趣があります。
そんなことを念頭に描かれたのかしらと思わせるような絵画でした。
目に見えぬ存在である「龍」、その姿は人により、それぞれに感じられるその姿もまた違うのかもしれませんね。





                                



もう一つ、そんな龍に関する話題を。
昨日もお話しましたけれど我が家にはテレビはありません、その代わりにこのPCでネットのニュース等は見ております。
そのネットで殊に某国営放送(笑;)の地方のニュースを見ておりましたところ、山陰ではこの時期に「辰巻き神事」や「蛇形祭」と称して
藁を綯い(ない)大きな龍の形にし、それを神社に奉納するという祭が結構各地であるようでした。
昨夜見たものでは、一つは鳥取県境港での神社での神事、またもう一つは岡山県は新見市(にいみし)でのお祭でした。
(先だって参りました出雲大社での神迎祭も申すように龍邪神がその大元を担います。)
距離的にはかなり離れておる両方の地域ですけれど、何か関連性があるのかもしれませんね。
ニュースの中でインタビューに答えておられました男性が、山陰にはこのような祭りが各地に伝承されていると話しておられましたので、やはり
何かあるのかもしれません。
そんな地域でのお祭、殊に新見であるお祭は本当に小さな神社でなされるものらしいのですけれど、何故か場所が気になり、グーグルで探って見て
おりました。
新見市というよりも、以前は郡部であった哲西町(てっせいちょう)という地域です。
冬場はかなりの豪雪地帯であったかと思います。
そんな地域のごくありふれた小さな神社でされるお祭りなのですけれど、グーグルで確認してそこの神社の写真を拝見したとき、不思議な一葉の
写真を見つけました。
不思議というよりも、最近はよく龍がいる神社や場所とされるところで撮られた写真に写りこんでいる光が、その写真にも同様に写りこんでいた
からでした。
神社の名前は「綱ノ牛王神社」といいます。
この神社を訪れたKEINYさんとおっしゃる方が写した写真、ご自身も「何か妙な光が写っているんですが・・・」とこの写真に一言添えておられます。
確かにそこには太陽光線とは全く異なる鮮やかな緑色の光が横切るようにして写りこんでいます。
先にも申したように、此処は龍が祀られておりますといわれるような神社で写せば、そういう方面の能力のある方ですと結構写っている光です。
このKEINYさんご自身も、ご本人が気づいておられないだけで案外そのような力がおありなのかもしれませんけれど。
ともあれ、ごくごく普通の、なんの変哲もない地方の神社ですけれど、此処はその昔、大蛇が出てきて人々を襲うので村人達がその大蛇をある
僧侶に祈り殺してもらったところ、今度は村に災いが起こるようになり、それを後にまた別の僧侶により大網で大きな蛇形を作り、その大蛇の霊を
祀ったのが始まりとされたといわれる神社のようです。
この地域の方々は毎年、この時期になると皆さんで集って新しい縄を綯い大蛇を作りこの神社へ奉納し、神主さんに祝詞をあげて頂くようです。
それが慣わしとなっておられるのですね。
龍が、あるいは蛇が居るかどうか、そのようなことはどなたも考えてもおられないようですけれど、実際に此処には祀られておる、この龍蛇が
確実に坐しますということなのだと、今回この写真を拝見して改めて感じさせて頂いたのでした。
地域の方以外は恐らく殆ど知られていないであろう、普段はひっそりとしている神社、ですけれどそこにはしっかりと守り神になっておられるとも
いえる龍が存在するのでしょうね。
日本の各地、自分達が知らないだけで、このように埋もれたような神社がまだまだ各地に沢山あるのかもしれません。

以前、自分の想念の中で大神であったか、「そなた(そのような)龍を祀った各地の神社へ参れ」と言われた覚えがあります;。
もしかして、こういうような処?と今感じておるところです。
というよりも、このニュースを見てどうにも気になりましたしね;。
これはまた、いずれ行かねばならない場所なのかもしれません。
いえ、そういう前に昨夜の時点で高速料金や所要時間をしっかり調べている自分がおりました;。
ただし、これからは雪の季節、行くとなれば春を待った方が良いのではと考えておるところでもあります。
これも申したように結構な豪雪地帯、ましてやこの神社へ行く道、主要な道路からは入っておりますので季節を違えるととんでもないことに
なりそうですしね;。
参らせて頂くならば、そのように準備万端、相整えて参らせて頂こうと思います。
遭難しても、多分電波も届きそうにありませんですので;。



                                 



今夜も、時折時雨ながらも綺麗な月が垣間見えておりました。
一段と冷え込んで来そうです。
どなた様も温かくしてお休みくださいね。


本日もこのブログへのお付き合い、真に有難うございました。
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神様 だけじゃない

2017-12-03 21:06:04 | ちょこっとスピリチュアル
こんばんは。
日中は風も無く穏やかな一日でしたけれど、朝晩本当に冷たさを感じるようになって参りました。
とはいえ、火曜日以降もっと寒くなるとか;。
皆様、風邪、インフルエンザ等々にはお気をつけ下さいね(自分もだけど;)
朝はこのように晴れ渡っておりました。


                            
                                  



                                  



良く夢を見るという話をしておりますが、そういうものも覚えている限り書いて残しております。
後で読み返すとその時のことが蘇ってきて、自分でもよく覚えているよなぁと不思議な気がするんですけれどね。
ただ夢の内容は他愛のないものばかりで、決して瞑想で見ているような龍が出てきて、こんにちはなどとはしてくれません;。
もしそんなのが夢にでも出てくるようでしたら、それこそ即宝くじ売り場へ直行するんですけれど;。
そのような夢を見てみると、どうやら車が頻繁に出てきているようです。
先日は大型トラックを運転している男性を上から見ていたようで、その男性というのがどうしてだか竹野内豊さん。
なんで;?と自分でも思うんですけれどね。
これも申すように我が家はTVは既に無くドラマも最近見ることもありません。
特にご本人に思い入れがあるわけでもないのですけれど;。
続いて先日見ていた夢は、これは自分が運転する車でした。
で、此処で登場したのが、これまたなんとユーチューバーのSEIKINさん;。
これは多分日頃、テレビを見る代わりにこのような映像を見ているのでそこでこの彼の登場となったのかもしれませんけれどね。
誰ですか?男性しか出ていないのは心に鬱憤が溜まっているのではないのかって;。
う~む、どうでしょうね;。
それはさておき、この夢の時はその夢の中で一台の車が出てきて、道の真ん中、それも交差点の真ん中におり、これじゃ邪魔だし危ないし、と
中に乗っている人に声を掛けると、これがそのセイキンさんだったというわけでした。
後ろにはこれも何故か我が家のお向かいのボク(これは実在のお子さん、幼稚園児さんです)がチャイルドシートに乗りやはり笑っています。
どかして下さいといっても、セイキンさん、彼はニコニコするばかりで、見れば助手席で座っておられます。
これじゃ埒があかないと自分が乗り込み動かそうとするのですが、この車がBMWのセダン;。
そんな車乗ったこともないし、どないしょお;と思いつつアクセルを踏むと思いのほかスピードが出てしまい、うわ~っ;と慌てます。
シートが低いのか外は見えにくいし、ステアリングはこれまた重いし、ドアミラーも見えません。
車をどこかの敷地に入れるのもそのミラーが見にくいので、殆ど当てずっぽうで左へ曲がるとこれも難しい。
と、そんな全く脈絡のない話ではありました。 
もう一体何なんでしょうねぇ;。
主人が出てくる夢もこれも毎度突飛な設定ですけれど、ある意味予告のないドラマを見ている、それも自分が出てくるのをと考えると、お金も
かからないし、結構お得な世界?なのかもしれません。
まぁでも制御の利かない車の運転はご勘弁、という感じです。




                                    



さて次は今朝の祝詞奏上後に感じたことを述べて参りたいと思います。


 瞑想をして
 
 大きく息を吐き出しながら 周りの物音も聞こえるけれど 心は静か 穏やか
 富士山のシルエット?
 空を行く龍の視点?
 宇宙 地球 そんな光景が見えている

 キリスト?
 
     “   在るがままで良いのです

         判断を下さぬことです
 
         人は一瞬のうちに 良い悪いを感じて 判断しています 

         目の前の通り過ぎていく事象を(そのように)判断するのではなく

         在るがままに 見て(見つめて)下さい    ” 


 続いて別の声?

    
     ‘   こうふくじへ行け    ’

 こうふくじ? 興福寺? 寺? なんで? 神社ではないの?


     ‘   行けば分かる  ’

 そのうちに

     ‘   まぁよい   ’

 これは(仏像との)会話?



                                



はい、出ました、毎回訳分からない感じで色んな存在の登場となっております。(いや茶化すわけではないのですけれど;)
キリストらしき存在からは、どこか穏やかでそれでいて荘厳な感じのする話し方をされます。
在るがままを見てください、と言われておりますね、また一瞬、瞬時で自分たちは物事を良いか悪いかで判断しているとも。
これも少し前に別の存在?から同じようなことを聞いた覚えがあります。
在るがままを見る、出来そうで出来ていないことと自分では感じております。
見るものを確かにどちらかにジャッジしていると思います。
瞑想のように、ただ目の前のものに捉われず、あるように見ること、それが出来るようになると心は安定して穏やかでおられるようになるので
しょうね。
なかなか難しいことですけれど、心掛けたいと思います。

続いては今度はこれまた仏像なのか仏陀であるのか;そのような存在からでした。
いきなり「こうふくじへ行け」と言われ頭の中で面食らう感じでしたけれど;。
これまで仏門とは殆どご縁はなく、ましてや京都や奈良の寺院等は全くというほど存じません。
こうふくじとうかがい、興ってこういう字だったよね、確か、とこれもまた頭の中で思い浮かべておりました。
早速ネットでググッてみると、なるほど運慶の作とされる菩薩立像等がおありで、これも良く知られた阿修羅の像もある寺院であられるようです。
(そんなことも知らんのか、と呆れられそうですけれど;、すみません、若かりし頃習った覚えはありますが全部、忘却の彼方でございます;)
そのググッた中の写真の一葉に「旧山田仏頭」というものが載っておりました。(写真はウィキペディアより拝借させて頂きました)
仏像らしき映像も浮かんだのですけれど、頭の中にはこれとよく似た面持ちのお顔が出てきたように思います。
そういえば随分前ですけれど、たまたま図書館かどこかで借りてきていた運慶作の仏像の図録か何かを見ていた時だったか、そのような仏頭に
いきなり画面の中から「参れ」と声が掛かり、ええっ;?と驚いたことがありました。
今回もそのような感じで、瞑想中にこのような仏頭と思しきお顔からお声が掛かったように思います。
もう本当に毎度のようにしつこく申しておりますけれど、どうしてそういうところからお声が掛かるのかさっぱりわかりません;。
神様からは、参れ、とほぼ命令というのかコマンドのようにして言われますし、これは仕事柄そうかいな、とも思えるのですけれどね。
う~んまぁ、時間と懐に余裕を持たせて頂ければ、それこそ二つ返事で参りますところではあります;。




                           
                                   



話が前後致しますけれど、瞑想の最初にはこれもまた毎回のように天駆ける龍が出て参ります。
遠くには富士山と思しき山のシルエットも見えておる、壮大な景色です。
これはいつ見ても胸のすくような光景であり、あたかも自分がその龍になったかのような視点で悠々と空を駆けて行きます。
耳元の風を切る音が聴こえそうに感じられます。
これは自分に遣わされたという龍であるのか、それはわかりません。
ですけれど、このように大空を駆けて行くのはいつも清々しさを感じておるのは言うまでもありません。



                                      



                                      



月の出には間に合いませんでしたけれど、外には大きな満月と思しき月が出ております。
今日明日とこのように大きな月が、晴れていれば見られるようです。
皆様の辺りはご覧になられておりますか。
先日来より申しております月読尊に思いを馳せながら眺めて見られては如何でしょうか。



                                      



                                      




                                      




                                      




本日もこのブログへのお付き合い、真に有難うございました。
感謝申し上げます。
コメント (2)
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龍 は 流

2017-12-02 21:17:02 | 神様等について
こんばんは。
日中はお天気もよく割りに暖かかったですけれど、朝晩は結構冷えてきております。
先ほど歩いてきましたが、大きな月が昇ってきておりました。
この四日はスーパームーンだとか。
確かに出たばかりで大きく見えるのもあるのでしょうが、それでも結構な大きさに思えました。
満月だとより大きく見えるのでしょうね。
そんな日の朝はこんな風でした。
朝日がちょうど差して来る時に撮れたようで、美しく感じられましたよ。

                                    



                                    


                                                     
                                    




                                     



昨日、新しい?龍が傍らに来たと話しておりましたけれど、いつもいつもその存在を感じておるわけではありません。
感じ取れる方ならそうなのかもしれませんけれど、案外鈍い;自分はそこまででは無いようでして。
普通に生活している分には、殆ど考えてもいないのが実のところです;。
まぁ言ってしまえばペットではなく(当然;)、あくまでも神の遣いなのでしょうから必要な時にその存在を感じ取れればよいのだろうと
勝手に解釈しております。
そんな龍のことについてなのか、大神より言葉を受けましたので綴ってみたいと思います。
これも昨日申しましたように三十日、また一日とお伺い致したことを書いて参ります。
というよりも書いておかないと段々、たまってくる感じですので;。


 
                                    



まずは三十日の事から。


 祝詞奏上後

      〝   まずは大儀であった  

          その方 人と多く交われ 交わることにより 多くが 流れる

          『龍』  即ち  『流』 であるぞ   〟
                                 

 あ、そうかと思う りゅう は りゅう
 流れるからこそ 龍
 カタカムナではないけれど 確かにそうだ
 龍だからこそ エネルギーが廻る
 流れるということか
 なんだか 目から 鱗

  
      〝   そなた 既に 多くのこと出来るように なっておる

          多くの人と より多く接し (輪を)拡げて参れ  〟


 その後 目を閉じていても 非常に明るい
 穏やかに下から上へエネルギーが通る感じ
 有難い 感謝の念
 既に自分がそうなっているよう波動を上げること
 心配を心に抱かぬこと

 

このように頭に入って来た言葉で、確かに、まさに龍は流、同じ「りゅう」という言葉、流れるということなのではと思いつきました。
つまり龍とは、これもよく言われているようにエネルギーの流れのことなのではないのか、と。
何を今更、ですけれど、エネルギーはたとえ勢いがあったとしても一つところへ留まっていてはその行き場を失い、かえって悪くなると
聞きます。
だからこそ、流さねばならないとも。
これはお金でも同様なことを言われておりますよね。
大事だからとそれを掴んで離さなければお金そのもののエネルギーも廻らないので滞ってしまい、余計お金廻りも悪くなるとも。
(尤も自分の場合、廻すそのお金もあやしいところではありますけれど;)
全ては流すこと、そういうことなのでしょうね。
お金に例えられるお水も然り。
新鮮なお水も長い間その場所へずっと置いておけば、よほどでない限りやはり流れが無い分、良くなくなるのかもしれません。
じっとしておれば、そこではエネルギーが発生しませんので動きようがないということにもなるのでしょう。
自分達でも寒い時、じっとしていればそれこそ寒いばかりですけれど身体を動かすことで中から温もってきますね。
それを自分だけではなく、より大勢の方と身体を動かすことをすれば、それだけでエネルギーも発生し、ともすればお互いのそのエネルギーの
交換ということになるのでしょうね。
なんだ、そういうことか、とこれもまたこうして綴りながら、これまたいつもの如く一人合点しておるところです;。
それでも、『龍』は『流』 これには本当に目から鱗な思いでした。
龍が坐しますとされておる神社等はそのようなエネルギーが流れる場所でもある、だから人間がそこへ参ると何かしら目に見えないパワーを
頂戴するということなのかもしれませんね。
風水的にそのような場所を古から人々は感じ取り、そのような場所へ社寺を設けたのでしょう。
このことは同じように以前にも述べた覚えがありますけれど。
そのような場所で感覚の鋭い方が写真を撮ると、そこへあたかも龍のような光が映り込むというのはこういうことなのかもしれない、そうも
感じます。 
いやぁ、『龍』は『流』 なんだか凄いなとますます感じておる自分です;。

大神からの、人と多く交われはこれも同じ事を繰り返し伝えられます。
いつもそうですけれど、おんなじことを聞かせとかないとこいつ(自分のことですよ;)はいくら言っても聞かないからな、と思われているの
でしょう。
聞くほうも、これまたどうしてか、これ前も聞いたとは思わずにその度、ああそうなんだと感じておるわけです。
どっちもどっち、ということでしょうか。
それでも繰り返して言われることにより自分の中へじんわりと浸透していくように感じます。
お、浸透、これも神道と同じ言葉、しんとう。
どちらも申すようにまさにじんわりと「しんとう」していく感じですね。(自分で書いてどうする;)



                                   


続いて一日の言葉。

 祝詞奏上後 大神の言葉。

      〝   大儀であった(祭のこと)

          そなたに遣わしし 白龍 これより後 そなたと共に 動け(働け)

          そなたが致すこと 人々に 気づきを 与えること それが務めぞ

          宙(くう)は 一つ そなたらは その一部でもある(宇宙が見える)

          不安は 安からず である そう思うことが それに繋がる
 
          安心は 安らかなる心 その心で おるべし  〟


       
      〝   (祭で見た 感じた)神の姿 形 感じ方は 人それぞれである
  
          そのように感じておるなら そうであろう
 
          いずれにしても 数多の神々(存在)が来ておったことに 違いはない  〟


      〝   月読尊(つくよみのみこと) 何故そなたに 姿を現していたか

          それは 闇の大事さを教えるため

          月の光の大事さを 伝えるためである

          今 人間は 夜の闇をも 人々の光で 照らし続けておる

          本来は 無かったことである

          元々 月の光で照らし出されていた世界じゃ
      
          植物も 太陽の光だけではなく 

          柔らかい月の光を浴びて 育つようになっておった

          また 人間も生き物も暗闇の中では 休めよということ
 
          その大切さを 知らせるために 闇はある

          未だ人間は 食べて 寝て 生活をしておる

          休まねば ならない

          それを知らせる為に 闇は 存在しておる

          しかし今は その闇をも自らの作り出した光で 明るくしてしまっておる

          これでは 休めぬ

          殊に 植物は 人口の光を浴びせられておることにより かえって弱ってしまう

          休む時には しっかり休ませよ

          人間の勝手だけで 照らすようなことは あってはならぬ  〟


        
      〝   また月読(尊)は この暗い部分こそが これから大事になってくることを

          知らせておる
    
          目に見えぬ部分の働きが大事である しかと心せよ  〟
 
 雲に浮かぶキリストの姿 チラッと出てくる
       



自分でノートに書いておりましたのをこうして再度此方へ書き写しておるわけですけれど、結構同じことを繰り返しいわれているようですね。
特に月読尊のこと、またそれに関する月の明かり、あるいは暗闇等、昨日もお伝えしたように大極図のあの黒い部分が大事であるといわれた
事と同じかと思います。
明るいだけでは植物は育たない、また月の淡い光も併せ持って育っていくということなのでしょうか。
同じように取り上げられておりますけれど、それぞれの効用というものがあるということなのかもしれませんね。

不安と安心という言葉、それぞれまるで文字の読み下し文?のように言われておりますけれど、言われてみれば、これも然りだなと感じること
ではあります。
安らかでないから不安なのだし、安らかな心でいるからこそ安心、言葉そのままですけれど今一度意味を考えてみることでその言葉の響きが
わかるように感じられます。
そう思うと、日々やはり安心しておりたいものだな、と思うところですね。

祭の際での神の感じ方、受け取り方、これは確かに人それぞれですね。
自分のように賑やかしい神々を感じた者もおれば、なんだかわからないけれど有難さを覚えたという方もおられるでしょう。
目に見えぬ存在ですので、その感じ方はそれぞれあって当然かと思います。
あの場で何かを感じ取った、そのことが大事なのではと、これもまた思っております。



                                   

                                     



                                    




                                    



                                    


ようやっと書き留めておりました言葉、大神のみくじが追いついてきた感じです;。
今日のは無いのかといわれそうですけれど、すみません、今日は御座いません;。
午前中、えっちらおっちら下界まで買出し作業に行っておりましたので、神様のお言葉、みくじを下ろすこともおやすみとさせて頂きました。
また明日は再開致したいと思います。
                                    



                                    
                                    

自分でも読み返して、長いよなぁ、長ったらしいよなぁ、と感じております当ブログで御座います;。
そのようなブログ、相も変わらずのお付き合い頂きますこと、いつも本当に有難うございます。
感謝申し上げます。
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