「北の山・じろう」日記

内容は主に時事問題。時々株式投資関係の記事も交じります。

ロシア内戦(1918年)からウクライナ紛争に続く道<2024/07/21

2024-07-22 19:43:21 | 中立の視点で見るウクライナ紛争

ロシア内戦(1918年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%82%B7%E3%82%A2%E5%86%85%E6%88%A6

1917年10月の十月革命の後に成立したボリシェヴィキ政府と旧ロシア帝国支持者の間でロシアの支配権をめぐって起きたロシア国内の内戦です。
外国勢力も内戦に軍を派遣して白軍を支援しました。
やがて内戦では赤軍が優位に立ちます。
最後に白軍が立てこもったのがクリミア半島です。
黒海方面から内戦に関与したのが英仏軍です。
最後まで赤軍と戦ったのがコサック軍団です。
コサックのドンたちは、イギリスの軍艦に乗り主にイギリスの亡命しました。

コサックとロシアの戦いは、昔から繰り返されています。
世界史用語解説 授業と学習のヒント
https://www.y-history.net/appendix/wh1501-119.html

コサック
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%82%B5%E3%83%83%E3%82%AF

「ウクライナ=コサック」では、ありません。

ざっと見ても・・・・・
最初のコサック
こうしてテュルク系民族、タタール、スラブ人など様々な民族的出自の人々がコサックを構成した。
主要なコサック共同体はクリミアに近いドニエプル川、ドン川、ヴォルガ川、ウラル川周辺に存在していた。
・・・・・・
ザポロージャ・コサック⇒ドナウ・コサック軍
シベリア・コサック、ドン・コサック、クバーニ・コサック、テレク・コサック、ウラル・ザバイカル・クバーニ・テレク・コサック連合、以下延々とあります。

だから純粋なウクライナ人がいるわけではありません。
様々な民族が集まって主にクリミアに近いドニエプル川、ドン川、ヴォルガ川、ウラル川周辺に共同体を作ったのが今日のコサックと呼ばれる人々の一番近い先祖だと思います。

このエリアは周辺の勢力が大きくなるとどこかに帰属します。帰属先は、その時々様々です。
そしてロシア帝国に帰属した大きなグループが、ロシアの東方拡大とともにロシア東の辺境に植民していきました。
それでアムール・コサックとかバイカル・コサックなどもいます。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B6%E3%83%90%E3%82%A4%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%B3%E3%82%B5%E3%83%83%E3%82%AF%E8%BB%8D

こうしてコサックを見ていくと歴史そのものですね。
非常に面白いです。

まあ、その話は脇道で「ロシア内戦(1918年)からウクライナ紛争に続く道」

やはり時代が近いですから共通する部分もあります。
違いは、ロシア内戦当時白軍として赤軍と戦ったコサックは、主にロシア・コサックです。「クリミアに近いドニエプル川、ドン川、ヴォルガ川、ウラル川周辺」大体、このエリアのコサックです。ドニエプル川は入っているのかどうか分かりません。
最後に軍の中心になったのがドン・コサックです。
一番最後は、クリミア半島に立て籠もりイギリスの軍艦でイギリスやトルコに落ち延びました。
だからこの亡命者の子孫は、イギリスにかなり残っていると思います。

イギリスが介入したのは同じです。

ウクライナ紛争でウクライナの中心になっているのは、主にポーランド・コサックです。スターリンがポーランドから奪った現在の西ウクライナに住んでいました。
※ポーランド・コサックという表現は正しくないかもしれません。
1900年ごろに発生したウクライナ民族主義の流れを汲み、今は過激民族主義と言うべき性質を持っています。
2014年クーデターの中心になったのが、このグループです。

こうしてみてくるとウクライナ人と言う人種はないと思います。ウクライナ人は、西ウクライナの過激民族主義者の自称と言っていいと思います。
あるいは、旧ソ連がこのエリアを全部一つの行政区画にしいたので旧ソ連・ウクライナ共和国からウクライナ人と呼ぶようになったのかもしれません。

現在のウクライナは国ではなく、単なる旧ソ連の一つの行政区画です。自然にこのエリアが出来たのではなく、第2次大戦後行政的に編成された行政区画です。
大雑把に分けると西ウクライナ(旧ポーランド領)、東ウクライナ、南ウクライナ、クリミア。
言語も習慣も風習も違います。民族的な違いもあります。
はっきり言って一つの国や地域ではありません。
この4つの地域を行政区画としたのが、ウクライナです。

行政区画であるウクライナが独立したところで、内部で権力闘争が起こり政治的にまとまるわけがありません。
だから独立後政情不安が続き経済的にも困窮していた時期が多いです。

そもそもウクライナが行政区画全部まとめて独立したのが、間違いだと言えます。
4つの地域に分かれて別個に独立すれば、その後の混乱は避けられたと思います。
要は、今のウクライナが一つの国であることはそもそも無理だし、それを無理やり政府にすればどうやっても、どこかの地域が他の地域を弾圧的に支配する独裁的政府しか出来ません。
結局、内紛の末にアメリカの支援を受けて西ウクライナの過激民族主義者が暴力クーデターで政権を簒奪したのが、今のキエフ政権です。

そのクーデターに反発し主にロシア支持派の人々が武装独立闘争を始めました。最初は、東部と南部でもっと広い地域で独立闘争が起きました。
軍を味方につけたキエフ政権に軍事的に押し込まれて最後の抵抗拠点になったのが、ドネツクとルガンスクの独立勢力です。

ごく大雑把に書いてもこのような複雑な歴史と経緯がありプロパガンダやフェイクニュースで言っているほど簡単に割り切れるものではありません。

そもそも東部独立派とキエフ政権の間で、どこで領土を分割するべきかすら決められないでしょう❓
キエフ政権の言っているウクライナ領全土奪還は、ほぼ無茶苦茶な言い分だと思います。
要は、武力で正当な旧ウクライナ政府から領土と政権を奪ったわけです。
全部、奪ってしまえばクーデターは成立したというしかありません。
旧政権と共通性のある独立派が残っている以上、旧ウクライナ政府の正当な継承者は、独立派の方であると言えます。

旧ウクライナ政府の制度の下では選挙制度がありました。
政権を握りたければ選挙で勝つのが法律的な手続きです。

キエフ政権は、暴力クーデターで権力を奪いました。
つまり合法性がないのです。
「政権と領土を、正当な旧政権に返しなさい」
と言うのが話の筋道です。

このようなことを胡麻化すためにキエフ政権と西側は、プロパガンダとフェイクニュースを垂れ流しているわけです。

はっきり言って、無茶苦茶な話です。
強盗が居直って正義を主張しているようなものです。

少なくともキエフ政府と東部独立派は、このような関係にあります。
不法性の高いのは、キエフ政府です。
書くたびに嫌になる、この話。


※関連記事目次
「中立の視点で見るウクライナ紛争」の目次⑤
https://blog.goo.ne.jp/kitanoyamajirou/e/e2c67e9b59ec09731a1b86a632f91b27



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