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水生生物雑記帳・男鹿半島幻想・接写と拡大写真

男鹿半島幻想:大桟橋(だいさんきょう)

2014-09-25 14:25:48 | 男鹿半島幻想


 2014.9.23




 2005.5.29




 2014.9.23 上の裏側。




 2014.9.24 上の芦の倉沢駐車場(大桟橋駐車場)からの眺め。


 大桟橋は「だいさんきょう」とよむ。
 「さんきょう」には、「さんばし」と同じ意味のほかに、
渓谷をよこぎって高くかけた橋を表わすときに使われる。
 江戸時代に書かれた「絹篩(きぬぶるい)」には「山橋」と表記されている。
 
 船に乗り、ダミ沢の谷とイメージ重ね合わせて「さんきょう」と名づけたのだろう。


 大桟橋は島ではなく、陸に繋がっているが、小さな舟ならば橋の下を通り抜けることができる。


 この付近も、クロダイやマダイの釣場となっている。
釣り人が驚くような急峻(きゅうしゅん)な坂を登ったり降(くだ)ったりして、
釣り場に向かっているのをみるが、ここの岩場は舟でなければ行けない。


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男鹿半島幻想:舞台岩

2014-09-24 17:08:50 | 男鹿半島幻想


 舞台岩 2014.9.24




 舞台岩 2014.9.23 右手奥が居帽子岩。




 舞台岩 2014.9.23




 舞台岩 2014.9.24




 舞台岩 2004.3.21




 居帽子岩 2004.3.21




 居帽子岩 2014.9.23 西から眺めた姿。




 居帽子岩 2014.9.23 南から眺めた姿。カメに似ている。


 何枚も写真を載せたのは、私自身が立体的形がつかめないでいるからである。


 船川方面から行けば、門前を過ぎ、坂を上りきったところの舞台岩駐車場から眺めると、
右手下に舞台岩、左手下に居帽子岩が見える。

 その間の浜を亀壇浜(かめだはま)、居帽子岩の沖にある平らな島が御幣島(こへいじま)、
さらに沖にあるのが福立島(ふくだてじま)である。


 航海する技術がなかった時代でも、部分的にであれ、
他の国の情報や物資を得ることができた。
それは、浜辺に打ち上げられた漂着物からである。
ときには、自分たちと姿形が異なる死体さえ流れ着いた。

 海のかなたに別の国があり、そこからいずれ神がやってくると、
不思議な漂着物をみて人々は信じていた。
 古事記に載っている、一寸法師のモデルになった少彦名神(すくなひこなのかみ)も、
海のかなたから来た神である。

 渡来した神を歓迎する舞(神楽)を踊る場所が、舞台岩であり、
その舞をするのは、人々ではなく、半島すむ神々と考えられていたかもしれない。

 すべて仏教で隠されてしまう以前にあっただろうと考える方が夢がある。


 居帽子と烏帽子(えぼし)と違いがあるのだろうが、現在のところわからない。
同じものだとして、烏帽子で話を進めることにする。
 岩の形が烏帽子に似ているだけで、烏帽子岩と名づけられただけだろうか。
もっと別の意味がありそうだ。

 慈覚大師・円仁(じかくたいしえんにん)を中興の祖として、
叡山(えいざん)・天台宗が男鹿の山々で栄えた。
 実際に活動したのは円仁の弟子たちだろうが、その宗論は同じである。 

 円仁は、838年(承和5年)に、唐に入り、847年(承和14年)帰国した。
その帰りの舟の中で、円仁は摩多羅神(またらじん)を感得、
つまり、この神が円仁に空中から呼びかけた。
摩多羅神は、唐風のはく頭とよばれる烏帽子かぶり、和風狩衣をまとい、
鼓を持っている。踊り続ける2人の童を引き連れていることが多い。
この神が天台宗の守護神となるが、この神の出自が鬼であることを
うかがわせる神歌があるらしい。

 だから、烏帽子岩は、摩多羅神の烏帽子ではないだろうか。

 円仁は、さらに、山神である赤山明神(せきざんみょうじん)を
唐から勧請したことから、「赤神=摩多羅神(またらじん)」説もある。


参考:
 漂流と漂着 海と列島文化別巻 小学館
 男鹿真山 伊藤裕 男鹿真山神社発行 (栗田茂治の説)
 仏尊の事典 関根俊一編 学研


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男鹿半島幻想:長者屋敷の謎

2014-09-23 16:40:06 | 男鹿半島幻想


 矢印が長者屋敷跡。2014.9.23




 平らな部分が、長者屋敷跡。2007.3.31


 「男鹿の昔話 男鹿市教育委員会」には次のように載っている。

 「加茂青砂の北側、鷹巣(たかのす)の浜の近くに長者屋敷というところがある。
 昔、ここに長者が住んでいたといわれており、
この跡には池や、切石が残っていたそうである。
また、ここには黄金が埋まっているという言い伝えが残っている。
 ここから1.5キロほど登った山の上には、今でも小さな五輪塔や、
さいの河原と呼ばれている所があり、長者に関係があるお寺跡で
はないかといわれている。」


 「男鹿半島の磯釣り 佐藤烈夫 秋田の釣り 秋田つり連合会編 S54」には、

 「昔、富豪のものが住居せし所。
その姓名、年など詳らかでないが、住居付近に糠森として
その豪家の糠粃(こうひ)を捨てたる丘をなしいまに存ぜりと記されている。
 また屋敷の井戸周辺に黄金の埋蔵せる所あり言い伝えられている。
 あるとき漁を終えて、おいろの丘の上で一服しながら夕陽を眺めていたら、
長者屋敷のある方向から黄金の輝きを見たという話を子供の頃、
古老から何回も聞いたことがある。
 磯釣りのとき何回も調査したが、今もって井戸は見当たらない。」

 糠森は「こんもり」の意味だろうか。
 糠粃は、この文章では長者屋敷跡であるから食べかすととるべきなのだろう。

 長者屋敷の話を聞いたとき、急勾配の崖の途中であるから、
金の採掘人がいたのだろうかと思った。




 男鹿半島の四神を幻想した後、
地図を眺めていると八方位になっているような気がしてきた。
 描画してみると、南西方向に伸ばした線は長者屋敷跡へいきついた。




 弁天様 2007. 3.31




 弁天様 2007. 3.31


 北西線が海岸線と交差するところは弁天丘である。
この岩の上に鳥居があり、弁天様とよばれている。
この神社も、人里から離れていて異質な感じがしていた。

 北東線は、北浦神社に至る。

 南東線端の船川大畑台に現在は神社がない。
 ここは以前は標高40mの海岸段丘であったが、
日本鉱業船川精油所のタンク増設で埋め立て用採土場所になり、
平地になってしまっている。

 採土する前、昭和52年に発掘調査が行われ、
縄文中期(B.C.3000-B.C.2000)の竪穴住居跡や土器などたくさん出土した。
 そんな場所であるから、のちの時代にここに神社が建てられていた
可能性は大きい。

 長者屋敷は神社か寺だったにちがいない。


 長者屋敷にかぎらず、新しく流行した宗教が古い神仏を上書きして消していく。
 パソコンで上書き保存をすれば、すべて過去のものは消えてしまうが、
人間の歴史では完全に過去を消却することはできず、
まだらに消したり融合させたりする。

 現代とは違って、宗教が生活そのものを支配する時代の物語である。


参考:男鹿市史


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魚の卵:(I)ホッケ:岩の隙間に産みつける。

2014-09-22 16:23:30 | 魚の卵


 発眼卵




 卵塊。卵粒間の結びつきは弱い。




 手前が雌で、うしろが婚姻色の雄。




 産卵直前。


 産卵期になると、雄のホッケは体色が白っぽくなり、
頭の先と尾鰭の両先端のみが黒い婚姻班ができる。

 そして、岩の裂け目や窪みなどになわばりをつくり、雌を呼び込んで産卵放精する。
 雄は、その卵塊を岩の裂け目などに押し込み、孵化するまで新鮮な水を送り、
ゴミを取り除いて世話し続ける。

 水温が10℃で、約1か月で全長11mmの仔魚が産まれてくる。


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男鹿半島幻想:荼毘沢(だみざわ)

2014-09-20 15:25:57 | 男鹿半島幻想


 2014.9.23 海からの眺め。画面の上から1/3のところを車道が走っている。




 2014.9.24 車道から上を眺めた。


 門前と加茂の中間に、荼毘沢と変わった名前で呼ばれる谷があり、
海から頂(いただき)近くまで続いている。

 現在もおこなっているかは知らないが、レーダー基地の自衛隊が
訓練で下ってくるような場所である。
 
 荼毘は、ふつうは「だび」とよんで、火葬とか葬式の意味であるが、
なぜこんな名前がつけられているのだろうか。




 タニウツギ




 タニウツギ


 男鹿ではタニウツギをダミ花とよんでいる。
きれいな花なので職場に持ち込んだら叱られたことがある。

 しかし、「男鹿の春風」には、
"野山では金帯花(タニウツギ)をこぎとり、あるいは手折って、1年の糧としている。"
とも書かれているから、半島内の地域で、あるいは時代によって違っていたのかもしれない。

 ダミ花とは葬式に飾る花なのかと思っていたが、
そうではなく、棺の蓋を止める木釘をこの木から作ったのだという。

 タニウツギがたくさん咲く谷だから、荼毘沢という名があるのだと
私は推測していたが、その逆だったのかもしれない。





 「熊野信仰と東北」の中の「男鹿の風土と熊野信仰」に次のように載っていた。

 「・・・ふたたび"男鹿図屏風"に戻って、詳細は確認できなかったが、
最近の伝聞を略記して終えようと思う。
・・・・右隻五扇にある"あし乃くら"は現在は草木に覆われた平地であるものの、
あちこちに人工の礎石らしいものがあるといわれるともに、
棺輿(ひつぎごし)がこの地に飛び来たったという
荼毘(だみ)沢伝説のある地としても知られているという。
芦の倉(あしのくら)は僧坊と同じような意味で用いられる。・・・」

 棺輿(ひつぎごし)は、墓場まで運ぶ輿(こし)。

 このあとに、菅江真澄の「男鹿の島風」の原文が続いていたが、
その部分は、内田武志現代語訳の「菅江真澄遊覧記」から引用する。

 「むかしはこの山に天真穴(金抗)があったのだろう。
芦倉泉元(あしくらせんげん)といって、金(かね)を掘ったという谷がある。
それは、所々にある岩窟をみてもうなずかれた。
 蓮花台から西北の細道をたどって行くと、古い塚原と思われるところがあって、
苔むす五倫石・無縫塔などが倒れ伏していたり、砕けたりしている中に、
新しい石碑もたくさん立っている。」

 五倫石は石を5つ積み重ねた石塔(墓)
 無縫塔(むほうとう)は台座の上に卵形ものがのっている石塔(墓)

 「芦の倉」沢は、荼毘沢の南隣の沢である。
 狩野定信の「男鹿図屏風」をみると、1650年頃には、
芦の倉沢が海に流れ込むところに、家が2棟と屋根だけ1棟分あった。
そして、流れ下って白糸の滝となる沢は、現在は白糸沢であるが
釈迦沢と表示がされている。

 これらのことから、すこしは何か幻想できるのだろうか。

 菅江真澄が行った「塚原」が芦の倉沢でないことは確かである。
当時、道がないから舟でなければ芦の倉沢へは行けなかったはずだし、
文章からも門前のすぐそばと判断できる。
多分その場所は、五社堂駐車場そばを通る車道の海側で、
徐福の墓は道路の下にあったのだろう。

 芦の倉はかなり広い範囲を指しているから、
ここもそうよばれていた可能性もある。
 しかし、芦倉泉元は文章から別の場所を指している。
芦の倉沢のような気がする。この旅では舟で加茂から来ているから、
当然芦の倉沢は見てきたはずであるが、
そのときは説明されなかったことも考えられる。

 男鹿図屏風に家が描かれいる芦の倉沢の浜は、
シケが来ればたちまち波で流されてしまう所で、
寺社があったとはとても思えない。
描かれた家は漁師番小屋ともとれるが、ここにわざわざ作る必然性はない。
流されるのを覚悟の上で建てるのは、資金を豊富に与えられた金鉱探索人ではないだろうか。

 かなり大きな地図を載せたが、眺めていると、沢の名前の謎に
毛無山(けなしやま)が関係しているように幻想が進んでいく。

 毛無山は各地にあり、その由来も論争になっている。
「蒼山遊渓」には次のような説が載っていた。

(1)文字通り木のない山だという説
(2)「毛成し」から木がよく生い茂る山という説
(3)アイヌ語起源説

 男鹿の毛無山はアイヌ語起源説が違和感なく当てはまりそうである。
 アイヌ語辞典には、

 ○ケナシ[kens]:
   平地、平野、平らなやぶ原、
   岸(川端の山がひっこんで低くなり林になっているところ)。

と載っている。

 しかし、たんに表面的意味だけではなく、なにかが付加されているように、私には感じられる。


 地図はフリーソフト、カシミールで描画。

参考:
・熊野信仰と東北-名宝でたどる祈りの歴史-「熊野信仰と東北展」実行委員会
      男鹿の風土と熊野信仰 嶋田忠一
・菅江真澄遊覧記5  内田武志・宮本常一編訳  平凡社(eBook)
・蒼山遊渓 西尾寿一 京都山の会出版局
・萱野茂のアイヌ語辞典 三省堂


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