kmitoh 春夏秋冬

水生生物雑記帳・男鹿半島幻想・接写と拡大写真

男鹿半島幻想:脇本:脇本城跡(2)

2014-11-14 19:10:01 | 男鹿半島幻想


 2004.10.21




 上の写真の右隣 2004.10.21




 上の写真の右隣 2004.10.21




 内館図 数字は曲輪(くるわ)番号


 今日、3Dで上の写真の内館部分を作ってみた。
 「脇本城跡 総括報告書 2003 男鹿市教育委員会」の図面を見ながら、
数値を入力していった。高度は少し拡大している。

 造って、「脇本城跡は眼下に眺める景色はすばらしいが、
メリハリにかけている」とネットでみた言葉を実感した。
長い年月の間に、土が流れて全体にスムーズになっているのだ。
 それも歳月の流れを感じさせてよいのかもしれない。

 曲輪(くるわ:平らになっている部分)は土が流されて、
平面ではなく斜面になっているために浮きあがってみえている。

 3Dは途中だが、私のは幻想だから、はるか昔を思い出しながら
勝手に描くのがよいのか考え中である。


 使用フリーソフト:Blender 2.72b


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男鹿半島幻想:脇本:山車どんど(やまどんど)(2)

2014-11-09 16:05:46 | 男鹿半島幻想


 2005.8.6




 2005.8.6




 2005.8.6




 2005.8.6




 2005.8.6




 2005.8.6


 撮影した写真に写っていた山車(やま)の題名を
あげると次のようなものである。

  新田義貞の最期
  蛭ヶ島 源頼朝の初陣
  義経の八艘飛び
  源義経の最期
  明智光秀の最期
  福島市松の奮戦
  森蘭丸 決死の戦い
  那須与一 屋島の誉
  天慶の乱 逆心平将門
  羅生門の鬼

 これは非業の死を遂げて怨霊化した人たちだと気がついた。
わかりにくいのは、源頼朝と那須与一かもしれない。
 源頼朝は暗殺されたと考えられている。
 那須与一は頼朝に粛清された可能性がある。

 総出で祀り気分良くさせて、祟(たた)ることなく
海のかなたに去ってもらう祭りだと、私は思った。

 ただ、歴史上最も恐ろしい怨霊、菅原道真だけは
立派な神社に祀って、集落を守ってもらっている。


 人口減少が続いて、この祭りもいつまで続けていけるのだろうか。




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男鹿半島幻想:脇本:山車どんど(やまどんど)(1)

2014-11-09 12:56:28 | 男鹿半島幻想


 2004.8.7




 2004.8.7




 口上のとき花火を振り回す。 2004.8.7




 2004.8.7




 2004.8.7





 8月6、7日に脇本で行われる「山車どんど」は子どもが主役の行事で、
ご祝儀が上がると大声で感謝の口上をのべて、花火を振り回す。


 以下は、脇本に住む 「男鹿のウミウシ」さんから
メールで教えていただいた。

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 口上(こうじょう)

 東西、東西、花の御礼を申し上げます。
 一つ金、〇千万円也、〇千万円也。
 右は、〇〇様より山車(やま)の御花(みはな)として
御祝儀(ごしゅうぎ)にあずかり、
ありがたく、ありがたく頂戴、仕(つかまつり)りまーす。

 (〇千万円也はご祝儀が千円のとき一千万円也)

 脇本、本村に昔からあるお祭りですが、はっきりした由来などはわかりません。
 いろいろな説がありますが、
脇本、本村地区は昔から墓掃い(はかはらい)が 6日、早朝に決まっていました。

 昔はかならず、山車に使ったわら人形は海に流していました。
つまり、墓掃い日の夕方の行事ではないかと、私は思っています。
 私のころは、山車(だし)を作る事以外、すべて中学生の行事でした。
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 タイムスリップして、昔の世界に戻ってしまったような気持ちにさせる祭りである。


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カモシカ

2014-11-08 14:12:16 | 男鹿の小動物









 脇本城跡に撮影に行ったら、カモシカがいた。
 ある方から、山に行くとカモシカに出会うと聞いていたが、
私は初めて見た。

 脇本城跡では、9月16日の台風18号による土砂崩れの復旧工事が行われていた。
「危険ですから見学はご遠慮ください」の張り紙には、帰るときに気がついた。


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男鹿半島幻想:脇本:細葉のツバキ

2014-11-07 15:24:20 | 男鹿半島幻想


 2004. 3.28




 2004. 3.28




 2004.10.21


「細葉の椿」の傍らにある説明板

天神様の細葉の椿
 菅江真澄の男鹿遊覧記に
「天満宮の新垣(しんがき)にはいって額(ぬか)づく。
実季(さねすえ)も友季(ともすえ)も、この神を朝夕に祈り敬い、
その社前に占いなどし たことだろう。
 細葉の椿という古木がある。
  生い茂る、細葉の椿ふとまにの、うらなみかけて、八千代経 ぬらし」
という一節を残している。
 ヤブツバキの一種で、葉が細く、4月中旬頃からピンク色の花弁をつける。
長い年月の風雪に耐え、脇本城の栄枯盛衰を見守ってきたことであろう。
 樹齢400年以上と推定される。
      男鹿市教育委員会


 この説明板には4月に咲くと書かれているが、2月19日に、
なんとなく咲いているような気がして神社へ行った。
坂道に雪が残っていたので、車ではなく、徒歩で階段を登った。
 細葉のツバキを見ると、いくつかの花と大きく膨らんで
今にも咲きそうな蕾(つぼみ)がついていた。
 今咲いているのは、暖冬だからか。そうではないように思える。
毎年、今ごろから咲き始めるのだが、こんな時期にツバキの花を見るために、
ここまで登って来る人などほとんどいなかっただけなのだろう。




 菅原神社 2004.10.21


祭神:
■菅原道真大神(すがわらみちざねおおかみ)
■天照皇大神(あまてらすすめおおかみ)
■白山媛大神(しらやまひめおおかみ)
■保食大神(うけもちのおおかみ)

菅原神社の説明板を改変
1290年頃(正応年中)
   鎌倉時代、安東氏の氏神として建てられた。
   主祭神は、学問の神として有名な菅原道真公である。
   京都北野天満宮の祭神をこの神社でも祀(まつ)ることにした。
   当初の位置は、脇本城本丸南山上であった。

   安東愛季(ちかすえ1539-1587)や実季(さねすえ1576-1659)もあがめうやまった。
1591年(天正19年)
   再建。
1602年(慶長7年)
   関ヶ原の戦いで豊臣方についた実季は、
   常陸(茨城県)へ国替えになった。
   このとき、神様もいっしょに移動しようとしたが、
   神様は「この場所から動きたくない」と告げられた。
   それ以後は、地元脇本村で維持管理することになった。

   当神社午王獅子(ごおうじし?)が安東氏の許可のもとに春秋二度、
   男鹿島中、湖東 、能代や桧山までまわった。
   この獅子廻村は佐竹藩になっても旧例通り認められ 江戸中期まで続いた。
   (午王獅子は厄よけのお札を配って歩いたのだろうか?)
1603年(慶長8年)
    脇本城は佐竹家の命により廃城となる。
1627年(寛永4年)
    佐竹義宣公参拝。
1653年(承応2年)
    生鼻崎は地震により山が崩れ、佐竹藩家老真崎兵庫介が
    飯村開田の祈願成就のお礼として、村人と話し合って社殿を再建した。
1804年頃(文化年中)
    1804-1818年の間に佐竹義和公三度参拝。
1810年(文化7年)
    地震生鼻崎は承応の地震と、この地震で大半が海中に没し形態を失ったといわれる。
    菅江真澄が男鹿で遭ったのはこの地震である。
    また、寒風山の地震塚はこの地震の犠牲者を供養している。
1868年(明治元年)
    3月17日神仏分離令。
1982年(昭和57年)
    現社殿竣工。権現造りの建築様式で氏子内外のまごころによって建てられた。

 明治以前には社家(伊藤家)と山伏修験(安後坊、宝倉坊など)は
 共存していたが、明治維新に修験道が廃止させられた。
 山伏は仏教である。

 明治以降、村内に祀(まつ)られていた
村社新明社(天照皇大神あまてらすすめおおかみ、伊勢皇大神宮)
保食神社(豊受大神とようけのおおかみ、伊勢豊受大神宮)
白山神社(白山媛大神しらやまひめのおおかみ、加賀白山比神社)
を合併し、金比羅大神も祀ることになった。

 産土神(うぶすながみ)と して農業、漁業を初め諸業発展、
交通安全、縁結び、安産などを祈願する人が多い。

 氏神は一族の神様であり、産土神は、その土地を守護してくれる神様であったが、
いつのまにか、氏神や産土神、鎮守神(ちんじゅがみ)の区別がなくなってしまった。
 説明板で氏神と産土神を使い分けていることは、
「いまは、皆さんの神様」といってるようである。

 神社の説明版を眺めていて幻想した。
菅原道真大神(すがわらみちざねおおかみ)と
白山媛大神(しらやまひめおおかみ)が
祀られて、白山媛大神は明治に合祀されたとなっている。
しかし、はるか以前から合祀されていて、
菅江真澄が辿る雛の回廊のひとつだったのではないだろうか。


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