油屋種吉の独り言

日記や随筆をのせます。

口にするものは……。

2024-04-01 14:02:45 | 随筆
 こんにちは。ブロ友のみなさま。
 ようやく桜の花がひらいたと思ったら、夏日になる
のですもの。
 驚きますよね。
 そして、次の日は気温が急降下。
 夕方になって、タンスにしまった服をもう一度身に
つける始末です。

 57年前のT大入学式。
 桜が満開でしたが、灰色の空から、白いものがふわ
りふわり。たちまちにして、ピンクの花びらが視界か
ら消えてなくなりました。

 (えらいところに来たもんや。まあしゃあない。地元
も阿波も受け入れてくれなかったんだから。ああ、もっ
と性根入れて勉強しとけば良かった)
 わたしの身体は、肌をさす空気の中で、ぶるぶる震え
ていました。

 甲州の郡内地方の冬。
 やっぱり、富士山のふもとは寒いのだなあと、手袋を
はめない両手に、白い息を吹きかけました。

 ある冬の夜、銭湯に向かいました。
 行きはよいよい、帰りはこわい。
 風呂上がりで濡れたタオルが、夜気に触れ、すぐさま
凍てついてしまいました。

 下宿暮らしはどうだったでしょう。
 四畳半一間借りると、ひと月2800円。新幹線ひかり号
で東京から京都まで乗るのに、およそ5000円かかる時代
だったと思います。
 小遣いが欲しいと、土建屋さんの手伝いをしましたが、
一日働くと1600円いただけました。

 ほかに金のかかることがありましたので、できるだけ
食事を簡素にしようとしました。
 食パン一斤30円、チキンラーメン20円、コーヒー一杯
50円。学食のカレーライスが70円、それに市街地の食堂
の経済ランチ一人前130円。

 たまに自炊しました。
 炊飯器などありません。ニクロム線の電熱器があるだ
けで、うつわもどんぶりひとつ。そして鍋ひとつ。

 鍋のふたの上に、重石代わりにとどんぶりをのせ、ご
はんを炊きました。
 パールライス10キロ1600円也。
 身につまされていましたので、価格をなかなか忘れら
ることができません。

 ありがたいことに、母親がいろんなものを送ってくれ
ましたので、ずいぶんと助かりました。
 永谷園のお茶漬けの素、伊賀上野のかた焼きが好物で
した。

 「勉強に集中してな。アルバイトなんてせんでもええ。
母ちゃんが働くから。それと食い物に用心してな。お前
はすぐにおなかをこわす。なるべく自然のものを食べる
のがええ。即席ラーメンはあんまり食べないようにな」

 昭和40年代、月々二万円送金してくださったのですか
らね。今でも西の空を仰ぎ、手を合わせることしばしば
です。

 でも、あまり外出せず一所懸命学んだのは、一年あま
りだけでした。
 二年目からは、それまでの引っ込み思案な性格をなお
そうと努めました。

 学年委員や英会話クラブの長に立候補したり。ついに
は折からの学生運動に、あろうことかこころ乱れてしま
い、デモの渦中に身を投じたりしました。

 結局、ふた親を喜ばせたのは、ほんの二年。異郷の地
で暮らすのに、それほど時間がかかりませんでした。

 運良く、結婚。子どもを連れ、盆や正月に帰省すると、
親は顔をほころばせ、 
 「元気でいてくれれば、それでいい。たまに孫の顔を見
せてくれ」
 親というのは、有難いものですね。

 今どきは、口にするものに、注意を要します。
 人によっては、毒にもなる。
 自らの体質を熟知するべしですね。
 アナフィラキーショックに陥ることは、絶対に避けな
けりゃなりません。

 今自分が苦手とするのは、先ずはお酒、生もの、しぶっ
たいもの、香辛料がだめですから、大好きだったカレー
ライスが食べられません。

 どうしても、加工食品には着色料や防腐材が必要とさ
れていますね。
 その作用について、充分注意するよう、以前から指摘
されてきました。

 最近の健康食品ブーム。
 これをのめば、やせるとか……。
 身体のことを考え、口にしたはずが……、かえって身
体に悪かった。病を引き起こしてしまった。
 
 取り返しのつかないことにならぬよう、わたしたちは
できるだけ自然食品を摂るよう、心がけましょう。
  
 わけのわからないものは、安易に口にしないことが大
切ですね。
  
  
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十三歳の頃って。

2024-03-26 10:53:42 | 随筆
 中学二年生をあつかっていますけれど
どうだったのかな。
 その頃の自分って?

 今の歳からみると、ずいぶん昔の話で
すね。
 でも、ちょっと振り返って考えるのも
ありじゃないか。勉強になるんじゃない
か。

 そう思い、つらつら思いだしながら書
き綴ってみることにしました。

 もちろん、それを通して、今どきの中
二のみなさんの思いに少しでも触れれば
最高ですよね。

 昭和三十年の後半でしたね。
 あれは確か、三十七年だったか。
 そうですね、池田勇人さんが総理大臣
だったでしょう。

 最初の五輪をひかえ、国民ひとりひと
りがわくわくどきどきしていました。
 橋幸夫さんと吉永小百合さんが歌った
「いつでも夢を」
 その歌が当時を象徴していました。

 親の手伝いをさせられた時代でしたね。
 五右衛門ぶろをわかす仕事やら、にわ
とりの世話、それに飼い犬の世話。

 堀っこに行って、にわとりが食べられ
そうな草を摘んで来たりね。卵を失敬す
るのが大変でしたよ。たまに見つかって
つつかれる騒ぎでした。

 中二の数学がかいもく理解できないわ
たしは、「教えてあげるよ」とおっしゃ
る方の家へと、平城旧跡を横切り、えっ
ちらおっちら自転車で向かいました。

 ああそうそう、恋の物語ですもの。
 初恋の話をしなくちゃね。

 当時はベビーブームの世代。
 全部で十五クラス、二学年全員で六百
七十人いました。

 定期テストの成績が廊下の壁に貼りだ
されましたよ。
 百五十人だけ順位と氏名が公表されま
した。

 わたしのお気に入りの子は、常に百番
以内をキープしていました。
 わたしはどんじりです。

 なんとかして、彼女に近づきたいと必
死で勉強したものです。

 算数は小学校の頃から大の苦手。
 普段から教わったことをしっかりおさ
らいする。
 数学など、それがとても大切だったの
でしょう。
 でもわたしは釣りやじゃこ採りに夢中
でした。

 わたしは神経質な性格。彼女は元気は
つらつ。言いたいことをズバズバいう。
 「あんたはピテカントロプス、北京原
人に近い顔だね」
 「く……」

 お互いに明と暗みたい。
 プラスとマイナスかな?
 ねくらなわたしが、彼女にひかれるよ
うになりました。

 結局、その可愛らしい恋はみのること
はありませんでした。
 ポプラの葉っぱとともに、散ってしまっ
たことです。

 「あの子、好きなんや」
 と、男友だちにもらすのが精いっぱい
でしたもの。

 この初恋をもたらしたエネルギー。
 すごかったですよ。
 わたしを、勉強好き人間に、変えまし
たもの。

 「お宅のお子さんって、なんだか変わっ
てますね」
 当時、担任をなさっていたM先生が家
庭訪問の際におっしゃったことです。

 みなさんの中学二年生時代ってどうだっ
たでしょう。
 ふりかえると、きっと自分が愛しく感じ
られるでしょう。

 文化クラブや運動クラブはありました。
 でも、全員参加型ではない。
 授業が終わったら、掃除当番をのぞいて
全員帰宅できました

 
 
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まさかの出来事。

2024-03-11 17:12:55 | 随筆
 こんにちは。
 ブロ友のみなさん。
 あれから13年目ですね。

 未曽有の大震災の犠牲になられた方々の御霊に
改めて鎮魂の祈りを捧げます。

 大地震や巨大津波から運よく生きのびた方々に
まさかの原発建屋の水素爆発がつづきました。

 放射能に汚染された物質が、四方八方に吹き飛
ばされ、風の吹くまま拡散して行きました。

 それらは雲となって、わたしの住む栃木県の北
の山なみから日光連山までをおおいつくしたこと
です。

 我が町の山間部の小学校の運動場の土の入れ替
えをしなくてはならないほどの被害でした。

 山々を除染することなどできない相談でそこに
住む動植物にどれくらいの影響があったかなど知
るすべはありません。
 放射能が半減するのにかかる時間はどれくらい
でしょう。

 福島原発の建屋内部に残っている、燃え残りの
放射性物質をすべて、取り除くのに一体どれくら
いの月日が要るのでしょう。
 非常に危険をともなう仕事だけに、容易ではあ
りませんね。

 わたしたちはひとりひとり、このことを再認識
する必要があるように思われます。

 東日本大震災の発生直後、経済活動が沈滞しま
した。
 あちらでもこちらでも、涙、涙。
 テレビによる営利目的の宣伝活動が自粛された
りしましたね。

 世の中全体がまるで通夜のようで、わたしなど
しばらくブログを書くのをためらいました。

 我が町は、あのとき、震度六強の地震におそわ
れました。
 わたしは自宅の二階の部屋で、ちょうどパソコ
ンをいじっていた時でした。

 一階の台所。
 その食器棚から瀬戸ものやガラス類が音立てて
床にすべり落ちていきました。
 がちゃんがちゃんと割れる音を今でも、忘れる
ことができません。

 わたしは、結局、一度、二度そして三度の大揺
れが収まるまで、身動きできないでいました。
 パソコンが倒れないよう、右手で、しっかりと
おさえていることしかできなかった。

 被害の実態はテレビで、生々しく映し出されま
した。
 恐ろしいとしか言えない映像のかずかずを、固
唾をのんで眺めたことです。

 「原発の爆発がなかったら、住み慣れたふるさ
とをあとにすることはなかった」
 我が家のとなりがたまたま空き家になっていて、
そこに引っ越して来られた老夫婦の嘆きはいかば
かりでしょう。
 故郷は宮城県の南三陸町とうかがっております。

 悲しみがどれくらい深いでしょう。

 被害の当事者である、ないにかかわらず、千年
に一度という大地震を体験した人間として、いま
何をなすべきでしょう。

 宇宙の深遠さは言うに及ばす、わが地球のこと
さえ、わたしたちはまだまだ予測不能なのです。
 
 景気が少し良くなったくらいで、喜んでおられ
る場合ではないように思われます。

 人間も自然の一部です。
 どんな形かで、地球とつながっているかもしれ
ません。

 真善美を大事に生きること。
 大いなるものに対して、ありがとうの気持ちを、
忘れない。

 いつも謙虚な態度でいることが、何よりのよう
にわたしには思われます。
 
 
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受験の季節。

2024-02-22 21:09:18 | 随筆
 T県の高校受験。
 私学の場合、すでに昨年12月から始まる。

 著名なプロ野球投手を輩出したことのあるS高などは、
県立高の結果をも踏まえたうえで、第一第二そして第三
と生徒を募る。

 今年の県立高の入学試験は3月6日。
 結果発表は12日である。

 現時点では、ほとんどの受験生はひとつやふたつのす
べり止めとして、私学への切符を手にしている。

 今月中旬には県立高の特色選抜制度に基づく試験があ
り、各校の定員の何パーセントかの合格者が内定してい
る。しかし彼らの合格の喜びはごく控えめなものだ。

 選抜で志望校に合格するには、中学校の成績優
良はもちろんだが、推薦が必要。それにもれた受験生は、
あと12日間、一般入試での合格をめざし、主要五科目の
苦手分野克服に大わらわとなる。

 あと一点、いや、あと二点採れば、と、家庭や塾で補
習に力がこもる。
 「Yちゃん、なに、いつまでのんきにポテトチップな
んてつまんで、テレビを観てるの」
 「いいじゃん。ちゃんと計算してるし」

 M家の次男坊はいたってのんきな性格で、あとひと踏
ん張りと口酸っぱく言われても、鷹揚としたもの。
 「お母さん、いちいちそんなにY男に、うるさくいわ
ないでいいよ。ちゃんとわかってるよ。時計を観ながら
休んでるようだし」
 Y男の兄、高校二年生が助け舟を出す。

 「もうだめよ。じいちゃんが来る時間だし」
 台所で食後の食器洗いに精出していたY男の母が前掛
けで自分の両手をふきふき、茶の間に上がり込んでくる。
 すかさずY男は、上体を起こし、自身の個室に上がっ
て行った。

 しばらくして、Y男の祖父が到着。
 「こんばんは。もうそろそろ塾の始まる時刻だね。う
ちの受験生はどうしてる?出かける準備はできてるかな」
 「あっ、お父さん、寒いところ、今晩もお世話
かけます」

 祖父の住まいはすぐ近く、あっと言う間に彼の孫宅ま
で着いてしまう距離だ。
 Y男の塾通いの力強い助っ人である。

 塾への送迎を彼が一手に担っている。夕刻、Y男を塾
へ送りとどけたら、22時30分の終業まで。
 彼の長男のアパートに待機となる。

 Y男の母親のみならず、祖父まで。一丸となってY男
の志望校合格をめざす。
 
 大学受験と違い、T県の高校受験は厳しい。
 首都圏の子らは、すでに小学生の内から私立中学受験
に大忙しだ。

 しかし、T県の場合、一部の生徒をのぞき、ほとんど
が県立高合格をめざす。

 「十五の春を泣かせない」
 わたしも長年、学習塾の講師を務めてきたからその言
葉の重みがよくわかる。
 一発勝負のところがある。

 わたしは奈良市の一条高校を受験した。受験番号269。
 六十年経つのに、いまだに憶えている。

 折しも、この春先のお天気不順である。
 あったかくなるかと思いきや、一転、雪のちらつく空
模様がつづく。

 夜遅くまで、寒い中、塾の駐車場で、塾の建物から退
出してくるお孫さんを、首を長くしてお待ちの同年輩の
みなさん、あなたのご健康とご多幸を祈ってやみません。
 
 
 

 
 
 
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人、さまざまに。

2024-02-16 20:59:28 | 随筆
 この元日わたしのスマホ宛に、不意にメールがとどいた。

 発信者はいずれの方だろう。
 スズキとある。

 名字だけで、名前が書かれていない。

 スズキさん。
 その名字をお持ちの方は日本全国津々浦々までかぞえると、
一体どれくらいの方がおられるのだろう。

 この疑心暗鬼のご時世である。

 一瞬、わたしは詐欺を疑った。

 気味がわるくなり、すぐに返信を送らないでいた。
 すると、その方は二度三度と追伸メールを送ってくる。

 これは異例の事態。

 わたしのほうに何らかの落ち度があるやもしれない。

 こちらの旧姓をご存じだし、メールの中身はまことにざっ
くばらんなもの。
 昔からの知己でなければ、書けない話の内容であった。

 ボケが始まったかしらん?
 いやいや、待てよ。
 度忘れということがある。
 一度や二度くらいでは、そうそう悲観することはない。

 そう自分を奮い立たせ、じっくり調べてみようと思った。

 第一発信者に、こちらの携帯番号を教えたかどうか、定か
でない。
 ええい、それじゃと、古いアルバムを押し入れの中から取
り出してきた。

 スズキさん名の親しい同級生は、なんと高校時代に存在し
ていた。

 (すわっ、おれのド忘れか……)

 アルバムのページをめくりだすとすぐに、あるページに小
さなメモがはさまっているのに気づいた。

 スズキ何某。
 それに付随した記録がわたしの筆跡で記されていた。

 わたしはすぐに相手の固定電話のダイアルをまわした。

 「やっぱり連絡くれたんか。おまえのことだから、むげな
ことはせえへんと思って待ってたよ」
 「ほんと、すっかり忘れていて、ごめん」
 「いや、しょうない。おまえもやっぱりアレになってしまっ
たのかってな、ちょっっぴりさびしかったよ」

 どうやらスズキくんはわたしのド忘れをぼけのたぐいと解
釈してしまったらしい。

 わたしはそれ以上、ああだのこうだのと自己弁護するのは
よした。

 相手もこちらも晴れて、後期高齢者の仲間入り。
 おぎゃあと産声をあげて、七十五年。

 人生を振り返るとそれぞれに思うところがあるわけだ。

 折しもほかの筋からも、わたしが今現在どうしているかを
訊ねる連絡が入った。

 こちらは大学時代の同窓生からのハガキ。
 所属していたクラブのOB・OG会の勧誘だった。

 「半世紀ぶりにお会いできませんか」

 人生100年時代とは申せ、人さまざまだ。
 一寸先は闇が世の常である。

 わたしの拙作「若がえる」完了とほぼ同時に、同世代の仲
間から連絡が入るのも、何かのえにしである。

 「川の流れのように」
 美空さんの歌を、今、かみしめている。
 
 
 
 
 
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