油屋種吉の独り言

日記や随筆をのせます。

うぐいす塚伝  (15)

2022-03-24 16:29:30 | 小説
 ここで大きく騒ぐわけにはいかない。
 店内のうす暗い席に、だれがひそんでいる
かしれない。
 彼あるいは彼女が、修の勤める会社の人間
であったらと思うと気が気でない。
 一緒に酒を飲むくらいならまだ、逃げの一
手を打つ余裕がある。
 しかし、酔いの勢いで、洋子に喚かれでも
したらどうだろう。
 修の社会的信用が一気に傷ついてしまうの
は明らかである。
 修は瞬時に、この場で、じぶんがやるべき
ことを果たそうと思った。
 洋子は勢いづいている。
 みずからの両手を、修のからだに回すだけ
ではこと足りない。
 彼女のほてった顔を、修の顔に、ぐっと近
づけてきた。
 焦点の定まらない、とろんとした目で、修
のまなざしをさぐっては、生あたたかい息を、
修の首のあたりから鼻に向かって断続的に吹
きかけてくる。
 「こばんだら、大きな声出すから」
 低いが、どすのきいた声。
 洋子の左手が、修の背骨の下あたりを、そ
ろそろとなで始めた。
 「いいわね」
 と続ける。
 洋子は修の顔をきっとにらみつけたかと思
うと、口もとに薄ら笑いをうかべた。
 若草山へのぼる途中で出逢ったときの洋子
とは似ても似つかぬ女性の本性むき出しの姿
がそこにあった。
 「ちょっと待って。おれだって、トイレに
を使いたい」
 チチッと洋子は舌打ちをし、修の体から自
らのふたつの手を離した。
 それらは、まるで二匹の大蛇のよう。
 修という獲物を見失い、そこらじゅうの壁
や柱に十本の指をからませては、爪先でがり
がりとひっかいた。
 修はトイレの中で、できるだけ、多くの時
間を過ごそうと思った。
 ときおり、誰かがトントンとたたく。
 トイレの前で、いくども複数の人が話す声
もしたが、修はトイレの内カギを閉めたまま
でいた。
 便座の上にずぼんの尻をのせ、両手でじぶ
んの左右の耳をずっと押さえつけていた。
 ほら見ろ、いつまでも独り身でいるからだ。
こいつみたいに、とびっきりのとんでもない
女と関わりあいになってしまうんだぞ。
 故郷で、喜寿を迎えたばかりのおふくろの
声が、なぜか修の耳もとでひびく。
 「そうじゃない。これはたまたまだ。こい
つはただ単に、よほど酒癖のわるい女だとい
うだけのことさ」
 と、修は反論をこころみる。
 ふふっ、そりゃあまおますで。女ってそん
な単純なもんじゃないんや。今によおうわか
るときが来るからな。
 やまと女のふかなさけっていうてな、おま
えさん、生まれ故郷の女人と添い遂げれば良
かったものを、お前の行く末は安泰で、なん
ら問題は起きなかったんや、選りによってな、
若い日のおまえは遠くへ遠くへと旅立ってし
まった。 
 ふたりの対話は、修の母のすすり泣きが始
まると同時に、次第にフェイドアウトしていっ
った。  
 修は初め、トイレの外で洋子にからまれた
とき、洋子にじぶんのからだをしたいように
させながら、なんとかして、洋子をバーの外
に連れ出そうとしたが状況が変わった。
 洋子が修を脅しにかかったのである。
 どれくらい時間が経ったろう。
 トイレの外が静かになっている。
 フィナーレにやるジャズの音が、トイレの
ドア越しに響いていた。
 思い切って、修はドアを開けた。
 彼の目の前に、フードをかぶった中年女性
がたたずんでいた。
 天井からの淡い灯りを受け、彼女の眼鏡の
奥がキラリと光ったのを見たとたん、修はあっ
と声をあげた。

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1 コメント

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Unknown (sunnylake279)
2022-03-24 20:01:34
こんばんは。
洋子の変容ぶりに驚きました。
まるで魔物のようですね。
修がとても気の毒に思えました。
思わず、無事でありますようにという気持ちになりました。
メガネの人は上司ですよね。
続きは、一悶着ありそうですね。
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