波もこえなむ

2024-11-10 16:30:31 | 日記

11月10日(日曜日)です。3週間のお休みでした。

10月29日から、11月5日まで、川崎市の次女宅で家事手伝い。孫1号と多摩川河川敷でバッタ狩りに付き合ったり(植生が生息にかなっていないらしく捕獲無し)のんびりとしておりました。

11月6日 仙台へ。亡き婿殿のご両親の墓参。

実は、11月3日「東北みやぎ復興マラソン」にエントリーしていたのですが膝故障が長引きDNS。あわせて予定していた仙台市立いずみ墓園へ。

郊外なので仙台駅前からレンタカーを借り、泉区経由で塩釜へ。松尾芭蕉「おくの細道」の旅です。塩釜神社へ参拝。

『石の階九仭に重なり』と書いた石段は上から見るとこのとおり。

ぶらぶらと散歩する。「浦霞」が宮城の酒とは知っていたが、塩釜とまでは知らず。本店酒蔵があった。

マグロ料理店で晩酌。マグロも美味かったが、「浦霞」もおいしゅうございました。塩釜泊。

 

松島海岸を眺めながら石巻へ。松島以北は、初訪である。

石巻市街への入り口、門脇地区に着くと、「みやぎ東日本大震災津波伝承館」と公園、「石巻市震災遺構門脇小学校」があった。

歌枕『末の松山』は、古代の津波被災の記憶から生まれたものというが、「伝承館」の屋根は高さ6メートル。津波が滞留した高さであるという。語り部さんの説明を聞いて、以後、爺さんには言葉無し。

日和山公園に登る。芭蕉の足跡であります。旧北上川と市街地。

登米市を経由して、仙台へ戻る。飲みに出る気にもなれず、牛タン弁当を買って、ホテルにて缶ビール。

翌日は、仙台城址を散歩して、午後、空路、帰福。16年前に出張以来の仙台でした。

 

 

さて、「橘湾岸スーパーマラニック」はDNSに。lineで、銀さんと、おっちんへ断りの連絡をした。

さて、これからどうするか。


「水と緑の久留米ランニング」

2024-10-21 13:34:08 | 日記

 10月21日です。まだまだ日中は半そでで過ごせますが、陽が落ちると急に冷えます。風邪をひかないように気をつけましょう。

 20日(日曜日) 「水と緑の久留米ランニング」に参加しました。ゼッケンをつけて走るのは、実に半年ぶりです。 カッパ先生が会長の「久留米走ろう会」主催で、エントリー料は、ナント800円なり。今時、嬉しいではありませんか。  

やっぱり、大会出場できるのはうれしいですねぇ。ナンバーは、23(ふみちゃん)であります。主催者が気をきかせてくれたか、というと、単純にアイウエオ順でございました。  

今年も、OBRC(大濠ブラインドランニングクラブ)の皆さんの姿が。楽しそうです。  

長崎平戸から、JOGTRIP主宰者アメリン僧正もおりました。  

 このところ司馬遼太郎に凝っており、「平戸のしばりょう」と自称しております。白いかつらをかぶっているのは、そのためです。これは、100均の宴会グッズだろうと思ってましたら、なんと、医療用ウイッグだそうで、そこまでやるかなぁとあきれた次第。

 相変わらずナンパ歩きをやっておりますが、ぜんぜん、どういう効き目があるのか、誰かひっかかったという話は無いようです。jogtripに女性参加者が増えたとか、減ったとか、もありません。まぁ、被害者が無くて何よりです。  ただし、河川敷を走る姿は、なかなかいい風景となっておりましたがね。

  会場は、「筑後川マラソン」の筑後川河川敷。前日の雨で、名物のどろぴちゃ道もありました。  

 爺さんは、膝がどの程度の衝撃に耐えられるのか、不安でありましたので、ゆっくりゆっくりです。ススキの波はいいものです。

 10,04km 1;16;48 7,39/km でした。キロ8分で10㎞を一応の目標としていましたので、OKです。帰りは、上津町の温泉によってゆったりして帰りました。ひさしぶりにいい気分でございました。

 久留米走ろう会のみなさん、ありがとうございました。  では、また。    


彼岸花

2024-10-01 11:33:44 | 日記
 とうとう10月1日です。2025のカレンダーを買ってきました。春のマラソン大会のエントリーが始まっているからで、今日は3月23日さが櫻マラソンのエントリー開始(先着順)です。ひざの具合が、何㎞、何時間の走行ができるのか、見通せませんが、当面は超スロージョグを続けるつもりであります。


 マイコースの彼岸花も今年は咲くのが遅く、少なかったですね。
9月27日彼岸も過ぎてやっと出てきました。

29日です。
川べりの風がようやく日中にも走れるほどとなりました。うはっ!(鵜の羽)恋だ。(鯉)


爺さんには、もうトキメキは来ないのかなぁ。

 猛暑で、補聴器が鬱陶しくて装着しない日が多かったのですが、何となく聞こえが悪いなぁ、、、耳鼻科の定期検査で聴力(言葉の聞き分け力)が下がっておりました。夏場に下がる人が多いそうです。一日30分の音読をしてくださいと指示あり。TVじゃだめだそうで、補聴器を着けて言葉を脳に入れて働かせるのだ、と。
「古事記」口語訳を読むことにしました。三浦佑之(作家・三浦しおんさんの父上)訳。
文字化以前にこの物語に介在していたであろう音声の世界へと錘鉛を下ろす』意図の口語訳、爺さんも、音読してみましょう。認知症予防であります。それにしても、舌を嚙みそうなややこしい名前の神様の多いこと!


 では、また。

山羊の歌(老いの繰り言・終)

2024-09-22 11:45:56 | 日記
 9月22日お彼岸です。先週末から朝は空気が澄み、我が町内から南には背振山がくっきりと見えるようになりました。暑さはまだまだですが、秋は近いようです。

昨深夜、秋雨前線の南下で雷雨激しく、横で寝ているグータラ娘がパニックになって、おかげで今朝は寝不足です。能登の皆様へ、大雨お見舞い申し上げます。


 平成23年(2011)3月末、爺さんは、再雇用2年を含めて38年間のサラリーマン生活から足を洗いました。『もうイヤだ。』『もうイイや。』と万感の思い積り、また、くたびれ果てたのでした。家のローンを退職金で返済して、幸い娘3人は、「失われた10年」に遭遇し回り道を余儀なくされながらも職業をみつけておりました。「老後の設計」などある訳もなく、(そもそもその頃は、こんなに長く生きながらえるとは思ってもおらず)「なるようになれ。」と(受給繰り下げもせず)年金生活に入ったのであります。満62歳でした。

 それからは、言わば引きこもり。本を読みふけります。トボトボと近所の走り歩きでお日様に会うのみです。
 自分の生きてきた時代は、どういうものだったのだろうか、父母、その兄弟、そして、我が家の流浪の旅は? 「日本近現代史」というジャンルのなかで探してみようとしました。
 走り歩きは、しだいに距離が延び、市民マラソン大会10kmから、ハーフマラソン、フルマラソン、とうとう四万十川ウルトラマラソン(100km)を完走したのは、2014年10月、65歳でした。

 平成27年(2015)は、終戦70年です。夏に終戦記念日が近づき、爺さんは、ふと短歌を詠みます。


        老兵の父は帰省し帰農せり山羊を率いて草山に入る

 朝日新聞「朝日歌壇」に初投稿、入選させてもらえました。選者は、馬場あき子さん。『八月帰省九月帰農』としていたのを『帰省し帰農せり』と推敲の上、わこちゃん、奈良の山添ママさん、瀧上さんと常連さんに続いて4席です。爺さんは短歌を趣味にしているわけでなく、その後はざれ歌を楽しんでいるくらいです。
 これまで繰り言に書きました我が家と我が歩みを、かいつまんで添え書きしていたのを心にとどめていただいたのでしょう。引きこもりの自分なりの勉強が認められたようでたいへん嬉しゅうございました。66歳です。 
 身体はマラソン、精神にはこの歌壇入選で、爺さんの人生の行く先には、虹が見えたようでした。馬場あき子さんは、爺さんの恩人であります。

 もっとも、兄たちは『何を今さら、オマエがそんなことを掘り繰り返すのか。』と困惑気味でしたが、『オマエは、ヤギのおっぱいにしゃぶりつきよった。』と語ってくれました。

 老いの繰り言は、終わります。振り返ると、自分の人生はおおごとやった、こんなに頑張った、ばかりですが、その陰には爺さんのことを「許せん」「あの野郎」と恨みいっぱいの方もいるでしょう。日本人の歴史の振り返り方、そのものですね。
 では。
 

続・わが生家は?(老いの繰り言5)

2024-09-15 10:50:55 | 日記
 9月15日です。相変わらず猛暑です。クーラーを入れっぱなしでゴロゴロしております。昨夏には、徹夜ロングランにも出かけていたのですが、もう無理かな。
 孫1号(小5)の俳句(?)です。


 昭和20年(1945)終戦の秋、父母、長兄(7)、次兄(1)は、筑前大島に帰郷します。が、同じく引き上げてきた兄弟家族大勢のため住むところなく、人家無き山中のあばら家に移り住み、ヤギを飼って暮らします。ヤギ乳を配達して幾ばくかの収入は得たようですが、それで一家の生計が成り立つものではなく、漁師であった母の弟たちの援助を受けていたのでしょう。ヤギは山にはなっておけば草で生きますし、当時の食糧難ではヤギ乳も小児の貴重なたんぱく源でした。(これもまたごくわずかの期間でしたが。)
 そして、この山中が、爺さんの生家となります。現在では、とうに跡形もなく、幼き日に「ここだった。」と教えられた付近は草原、藪に消えております。

 花田勝広氏『北部九州の軍事遺跡』によりますと。(抜き書きを含む。)

 「朝鮮海峡系要塞には、対潜水艦用の砲台が設置された。(筑前大島砲台には4基据えられます。アメリカ艦隊が進出するにつれ)要塞は健在であったが、制海権、制空権を完全に失っては、機能を発揮することはできず、潜水艦による魚雷攻撃、飛行機、空爆・機銃掃射にほとんど対応できなかった。(太平洋戦争末期には、)本土空襲の爆撃機の上空通過を知らせる通信施設に過ぎない状況となった。」
 昭和18年10月には、関釜連絡船崑崙丸が潜水艦魚雷により撃沈されるなど、空爆、触雷、機銃掃射などにより「玄界灘は魔の海に変貌している。」

 (昭和20年には、「本土決戦」に備えて、要塞砲台の移転が行われます。敵上陸部隊を海岸部に足止めしておき、そこに決戦部隊が駆け付ける、ため海岸線防御の砲台としての再配置です。大島砲台4基のうち2基は島内西側、津和瀬集落の南西の断崖上に、2基は湯川山垂水峠(遠賀郡岡垣町)への移転が命ぜられます。)


 現在観光スポット化した砲台跡から、青線で示した海岸線断崖に移ります。一基据えられますが試射に至らず終戦。砲台は、海面迄80~90mの断崖に、尾根両側から掘り進めた洞窟であり、そして緑の矢印で示したところに、おそらく移転工事のための作業小屋、仮兵舎が設けれたようです。(花田氏の著作では確定されていない。)
 今ではこの砲台遺跡の存在は住民もほとんど知らないのではと思う。爺さんは父について歩いた微かな記憶があり、花田氏の著作によって、あああれは砲台跡だったのかと了解できたのでした。
 そして、この兵舎こそ我が一家の数年の住みかとなったのであります。

本土決戦」というと、現在では、何をそのバカげたこと、、とされますが、当時の軍部(とりわけ陸軍)は正気で考えそのための準備を進めています。花田氏がまとめられた終戦時の布陣図です。氏の許可を受けておりませんが、労作に最大の敬意をこめて引用させていただきます


 本土決戦が現実に行われていたら、、、、沖縄戦の惨状は無論、国の形さえ変わっていたかもしれません。
 続きます。では。