柏餅を買いに駅前に行きました。家人は子どもの頃にチマキは食べたことはないが、小田原で社宅に入ったときにご近所から貰って食べたのが最初であると懐かしく昔を思い出して言う。チマキは餡の入った柏餅に比べそれほど美味しいものではないので多分、食べたことを忘れているのだと思うと私が言うと食べた記憶があるようにも思えてきて分からなくなり、あやふやになったようだ。記憶というものは当てにはならない。孫に市役所高層階の中華料理店に行ったことがあるよと言っても、また他の違う話をしてもすべて全く記憶にないと言われて少しショックを受けた。子どもの頃の記憶なんてこう言うものなのかと思う。自分が自らしたことは覚えているが、して貰ったことは覚えていないことが多いのではないか。私も20数年前に佐倉城と武家屋敷に行ったことを忘れている。家人に連れられて国立歴史民俗博物館(千葉県佐倉市)に行った。家人は2度目だと言う。そのすぐ近くに佐倉城の城址公園があったから。私に見に行きたいという興味(=当事者意識)がなかったから記憶にないのでしょう。幼くても大人になっても興味(=当事者意識)が大切だと言うことのようです。
◆ローストポーク ◆帆立と胡瓜の辛し酢味噌かけ ◆ポテトの焼き兜春巻き ◆おぼろ豆腐 ◆レタスとトマトのスープ ◆赤飯
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追記: 興味(=当事者意識)
本人が当事者とならないといくら興味を展開しても本人の関心を引き出すことは出来ない。逆に本人が当事者でありさえすれば興味を用意しなくても勝手に本人が関心を示して動いてくれる。教育においても然りである。興味を引こう引こうとして準備をしてもダメで、如何に当事者意識を持たせるかが重要です。学びの本質は自主的(自分で自然に考えて行動してしまう状況になること)でなければうわの空になる。すなわちAgentとして関わること。ラテン語agent (agere:行う+-ent:人=推進する人:代理人)ですが、ここでは意識を持った当事者(=当事者意識)と言えるのではないか。傍観者( innocent bystander 、spectator/ audience 、onlooker)であってはならないと言うこと。