この間、神社仏閣の話が多くなっています。
「京都歩き」を続けていて、いろいろと勉強になることが多く、帰ってから調べたこともあって、ノートに書く代わりに、ブログに書いています。
その方が、勉強したことが頭に残って、後から見返すこともできます。
そうそう、あれは土曜日のことでした。
同級生との同窓会があって、その前に相国寺へ行ったのでした。
相国寺を見終わって、ついでにどうしても行きたい場所がありました。
相国寺の北側にある、『上御霊神社(かみごりょうじんじゃ)』です。
この場所は、室町時代に京都を舞台に起こった「応仁の乱」の戦乱が始まった場所と言われています。
「応仁の乱」については、私も詳しく知らないのですが、将軍の後継争いや有力大名の家督相続をめぐっての争いなど、複雑な要因が絡み合って、大変長く続いた内乱だったようです。
歴史の授業では、1467年・・・「人の世むなしく、応仁の乱」と覚えました。
最近では、応仁から文明にかけての戦争なので、「応仁・文明の乱」と言うそうです。
京都を舞台に、東軍と西軍に別れて、戦いが行われて、町中が火の海になったと言われています。
京都人の冗談で、「先の戦争」と言ったら、太平洋戦争ではなくて、「応仁の乱」のことだという話をよく聞きます。
京都人は、そういう話が好きですね。
「応仁の乱発端の地・御霊神社」という説明文がありました。
石碑の文字は、元総理の「細川護熙」さんらしいです。
この場所に、陣地をはっていた東軍の畠山政長のもとへ、西軍の畠山義就が襲撃したと書かれています。
以後、11年も続く戦乱が続いたというわけですね。
上御霊神社といえば、「早良親王」も書きたいところですが、長くなるので、またの機会にします。
桓武天皇の弟でした。。。
その「早良親王」のたたりを鎮めるために、作られたのだったと思います。
平安時代は、菅原道真もしかり、亡くなった人が、病気やわざわいを起こしていると考えられていたようです。
同窓会に遅れてはいけないので、大急ぎでお参りをして、帰りました。。。
京都って、歴史の教科書でしか知らなかった場所がそこここに残っていて、やっぱり感動しますよね。
相国寺から上御霊神社へと、
懐かしいです~💕
ああ、そうそう、とブログで学び直させて頂いてます🎵
この前の京都手帳もいいですね~🎵
素敵ですね~🎵
葵祭のコースの時間まで書いてあって~
でも私も卓球の予定とか色々書く所が小さいかもしれません(笑)