スピリチュアル世界の誰も見たがらない所を書いています

スピリチュアルブログが多いアメブロでは絶対に書かれていない、スピリチュアル世界の陰の部分を赤裸々に書いています。

時代が変わろうとしている。

2014-08-04 21:00:00 | ワタリのエッセイ
戦争関連の番組を見た上に、広島原爆資料館のやっている平和データーベースを見た直後なせいか、絶対何かの念に影響されているだろ?なエンパスむき出し状態で書いています(^_^;)

夏になると毎年反戦を訴える番組が放送されます。
第二次世界対戦の頃現役だった方々も少しづつお亡くなりになり、もうリアルで戦争体験を語れる人と言うのは少なくなってしまいました。

しかし日本を含めた一部の国々では戦争起こしても何の得にもならないと言うことに気がついていて、これが少数派なのか大多数なのかはしりませんが、とにかく世界的には暴力抑制の方に向かっています。

しかしそれでも一部地域では争いが絶えず、まるでフォーカスエリアにある戦争ばかりをしていると言う共同体思想の世界を思わせるようです。

だからと言って政治に関することでワタリに出来る事なんて何もないのですから、こんなことを書いていても卓上論で終わってしまいます。

しかしあえて語るとするのなら、間違いなく何かが変わろうとしている。確かにアプローチはともかくとしてどこかのスピブロで読んだように、かつてアメリカが自国のカルチャーを世界中に広めたのと同じように日本カルチャーはアジアにとどまらず色々な国で受け入れられているようです。

しかし、それは旅行で訪れたインドでヨガに出会い衝撃を受けた兄弟子のように、既存の自国カルチャーに飽き飽きしていた人が見知らぬ他国のカルチャーに出会い衝撃を受けはまってしまったような、そんな不安定な感じがします。
それでもなんとなーーーくではありますが日本の思想と言うか、日本生まれ日本育ちにとってはごく当然である思想が少しづつ世界に広まり、新しい視野と言うか、それこそ本当に多様性こそ美徳であると言う観念を浸透させているような気がします。

だからと言ってそれに万歳で喜んだりはしませんし、ワタリはあくまでギャザリングをする高次元よろしく傍観して成り行きに任せるばかりです。

そして、正直どんなに反戦と訴えても解らない所は解らないと思うんです。
だから、ワタリは一部地域ではまるで集団の囚われ領域のようだと言うのです。

ただ、自国の文化こそ最上であると盲信し、そうではない他国に押し付ける時代はもうとっくの昔に終わっていると思います。

現代を考えると、共存という言葉が浮かんできます。
その反面、どう言う影響なのかはしりませんが毒出しと言うか、好転反応と言われる一時的な体調不良にも似た感覚を覚えます。

好転反応と言うのは病気回復期における症状の一つで、ざくっと言えば今まで体の中にたまりにたまっていた老廃物や病原菌等を一気に放出する期間です。
筋肉を急激にほぐした時も表層筋をほぐす事で深層筋にあるコリが一気に放出されて大変な事になったりしますが、国内ニュースを読んでいるとそれと同じものを感じます。

あるいは、非暴力へと向かわなければならない強制的な空気。
末端を見ているとかなり強引だなと言う感じがする時も有りますが、悪い事をした人間は必ず制裁を受けると言う、今までなら転生の際にしかなしえなかった贖罪が現世で行われているような、そんな気配を感じます。

幸いな事に、ツインいわくワタリが受肉している間にアセッションは終了しているんだそうです。
しかし、以前書いた事が有りますがそれはとても静か過ぎる時代の変化なんです。

ある日突然何かが変わっている事に気が付く。

でも、周りはその変化に一切気がついていない。それどころかまるで昔からそうであったかのように振舞っている。受け入れている。

それがどう言う方向に行くのか?と言うのは未知数で、良くも悪くも有り決して人間が考えるように単純なハッピーエンドでは済まないと言うのは目に見えているんですが。

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「罪を憎んで人を憎まず」を実践すると言う事

2014-08-01 21:00:00 | 人間としての修業
今でも言われているかどうかはしりませんが、タイトルに書いた事はワタリが小学生くらいの頃からずーーーっと言われ続けていたような記憶の有る台詞です。

この台詞を言うのは非常に簡単だと思うんですよね。
でも、現実にこう言う事を実践出来ている人って早々いません。

だって、嫌な事をされたら仕返しをしてやりたいのが本音ですし、いじめられたらそれ以上の事をやって自分以上に嫌な思いを味あわせたいのが本音。
以前有った殺人事件で被害者の遺族が加害者に対し「殺しても殺しても殺し足りない。」と言っていたのをよく覚えているんですが、これらや怨恨殺人の場合だと被害者の遺体はズタズタにされている。と言う事実も先に書いた罪を憎んで人を憎まずなんて事は実践出来ない。と言われても仕方がない事の証明になると思います。

じゃあ、なんで人間を憎んではならないのか?

それに関して考えると、多分人間を憎むと既に罪を被っている相手と同レベルになるからなんだと思います。

この件に関しては仏教の方が詳細に語っているので知っている人は知っていると思いますが、他者に危害を加えた人間。すなわち恨まれるような事をしている人間と言うのはすでに地獄行き、すなわち転生する事を許されるその日までフォーカス23の囚われの領域で苦しむのが決まっているんだと思います。
で、このすでに地獄行きになる事が決まっている人間の行いと言うのはやれば地獄行きになる事が確定する行為。すなわち囚われの領域で苦しむ事になるのが確定する行為なんですから、憎いからと言って同じ事をしては今度は自分が囚われの領域行きになる事が確定する。

なんと言うか、書いていて思ったのですがこれを知ると「それでも呪いますか?」と言う言葉が聞こえ、ものすごく割に合わない事だなと感じます。

じゃあ何処で人間は被害者感情を発散させるのか?
それのヒントが「罪を憎んで人を憎まず。」と言う言葉なんだと思います。

今解ったような気がするんですけどね、ワタリが小学生位だった頃って第二次世界大戦の成人経験者である祖父祖母世代が健康な頃だった訳なんですよ。

当時と言うのはあまりにも被害者と加害者が多過ぎて、何を憎んでいいのやら解らない時代だったと思うんです。

例えば、戦死した息子は誰が殺したのか?空襲で焼け死んだ家族は誰が殺したのか?
行き場のない怒りや悲しみ、恨みつらみを抱えたまま多くの人々は内心さまよっていたのかもしれません。
でも、そんな中でもこんな思いはもう二度とご免だ。自分だけで十分だ。と言う感情が有る人々がいて、そんな人々を中心に個人に向ける事が出来ない負の感情は平和に対する祈り、或いは子孫達に同じ過ちを起こしてはならない。と言う訴えへと変化したのかな?と思います。

現代でもこう言う事例は有る訳で、例えば犯罪被害者の会とか探すと結構あります。

正直、こう言う犯罪被害者の会の人々の本音と言うのはそれこそ殺しても殺し足りない。極刑が確定したとしても加害者は許せない。もう死語なのかもしれませんがそれこそ仇討をしたくなる位ドロドロとした感情が渦巻いているんだと思います。

でも、その感情を行動で示せば今度は自分が地獄行きになるからやらない。出来ない。
それよりも、もう二度と同じ過ちを繰り返さないようにのちの人々に訴え少しでも犯罪を減らす活動をした方のが良い。

そう言う発想の象徴が「罪を憎んで人を憎まず」と言う言葉で有り、この言葉を実践するとこう言う事になるんだと思います。

と言うか、今ふと思ったのですがこの「罪を憎んで人を憎まず」と言う言葉、「人は憎めないから罪を憎む」でも良いのかもしれません。

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