三日目2 48番~46番札所
降りそうで降らない伊予路をバスは順調に進む…多分。だからゆっくりとあれこれを鑑賞したり散策したり出来ない。本日4番目の西林寺についたのは10時20分。在寺時間は30分だ。
48番 清滝山 西林寺(さいりんじ)
ご詠歌 弥陀佛の世界をたずね行きたくば 西の林の寺に詣れよ
本尊 十一面観世音菩薩
行基によって一宮別当寺として堂宇を建立して開創された。後に大師が霊跡を巡礼した際、この寺に逗留し四国霊場と定めて国家の安泰を祈願する道場とされた。
このころ村は大旱魃で苦しんでおり、大師は錫杖を突いて近くの水脈を見つけた。寺の西南300mにある「杖の淵」はその遺跡とされ、水は涸れたことがなく土地を潤し、昭和60年の「全国の名水百選」にも選ばれている。
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福授地蔵は納経所前の庭園にあり、お詣りすると1つだけ願いを叶えてくれるというお地蔵さん。
本堂に蔵される本尊は秘仏で後ろ向きに置かれているのが特徴だという。
けぶるように幻想的な四国山脈を見ながら飲んだ水はさすがにおいしかった。
47番 熊野山 八坂寺(やさかじ)
ご詠歌 花を見て歌詠む人は八坂寺 三佛じょうの縁とこそきけ
本尊 阿弥陀如来
わずかな石段を上がって山門をくぐると右に手水場と庫裏・納経所が、左に宝篋印塔が、その先に鐘楼がある。正面奥に本堂が建つ。本堂右手には権現堂、十二社権現堂があり、左に大師堂がある。本堂と大師堂の間に閻魔堂がある。
寺伝によれば役行者によって開基された。一時荒廃するが、後に来錫した大師が再興したとされている。熊野権現を勧進して十二社権現とともに祀り、修験道の根本道場として栄え多くの僧兵を抱える大寺となった。
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本堂の左右にある入口から降りた先にある地下室には、薄明かりの中で黄金に輝く万体阿弥陀仏が安置されています。奉納した信者の出身地毎に並べられた小さな仏様が、天井の高さまでびっりしと並ぶ様は圧巻。
山門は小川にかかる橋を利用して、立派な屋根のある橋山門となっており、その天井には美しい色彩の天女の絵が描かれている。
小川を渡っての橋山門は珍しくて風情があった。しかもその天井に天女が舞っている!
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46番 医王山 浄瑠璃寺(じょうるりじ)
ご詠歌 極楽の浄瑠璃世界たくらえば 受くる苦楽は報いならまし
本尊 薬師如来
行基菩薩が奈良の大仏開眼に先だち、和銅元年に布教のためにこの地を訪れ、仏法を修行する適地として伽藍を建立した。白檀の木で薬師如来像を彫って本尊とし、脇侍に日光・月光菩薩と、眷属として十二神将を彫造して安置した。寺名は薬師如来がおられる瑠璃光浄土から「浄瑠璃寺」とし、山号もまた医王如来に因んだ。後に唐から帰朝した弘法大師がこの寺にとどまり、荒廃していた伽藍を修復し、四国霊場の一寺とした。
参道入口の石段左に「永き日や衛門三郎浄るり寺」と彫られた正岡子規の句碑があり、お遍路を迎えてくれる。このあたりは遍路の元祖といわれる右衛門三郎(後述)のふる里として知られる。
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境内には、説法石や仏足石などの石がある。仏足石は、素足でふんで、如来の足跡をじかに体得する。本堂左手の「一願弁天」(知恵・財宝・音楽に関する願いには、霊験)は1つだけ願いを叶えてくれる。境内のイブキビャクシンは天然記念物で、樹齢は1000年以上ともいわれる。
こじんまりとした静謐感のある札所だった。
:::::::::::::::::::::::::::::::::::衛門三郎の名前は四国遍路の途中でよく見聞きする。一つの説法逸話としてひろめられてきたようだ。あまり好きじゃないので纏める気力がなくwikipedia.からコピーさせていただく。衛門三郎伝説(wikipedia.より)
天長年間の頃の話である。伊予国を治めていた河野家の一族で、浮穴郡荏原郷(現在の愛媛県松山市恵原町・文殊院)の豪農で衛門三郎という者が居た。三郎は権勢をふるっていたが、欲深く、民の人望も薄かったといわれる。あるとき、三郎の門前にみすぼらしい身なりの僧が現れ、托鉢をしようとした。三郎は家人に命じて追い返した。翌日も、そしてその翌日と何度も僧は現れた。8日目、三郎は怒って僧が捧げていた鉢を竹のほうきでたたき落とし(つかんで地面にたたきつけたとするものもあり)、鉢は8つに割れてしまった。僧も姿を消した。実はこの僧は弘法大師であった。
三郎には8人の子がいたが、その時から毎年1人ずつ子が亡くなり、8年目には皆亡くなってしまった。悲しみに打ちひしがれていた三郎の枕元に大師が現れ、三郎はやっと僧が大師であったことに気がつき、何と恐ろしいことをしてしまったものだと後悔する。
三郎は懺悔の気持ちから、田畑を売り払い、家人たちに分け与え、妻とも別れ、大師を追い求めて四国巡礼の旅に出る。二十回巡礼を重ねたが出会えず、大師に何としても巡り合い気持ちから、今度は逆に回ることにして、巡礼の途中、阿波国の焼山寺の近くの杖杉庵で病に倒れてしまう。死期が迫りつつあった三郎の前に大師が現れたところ、三郎は今までの非を泣いて詫び、望みはあるかとの問いかけに来世には河野家に生まれ変わり人の役に立ちたい(石手寺刻版には「伊予の国司を望む」)と託して息を引き取った。大師は路傍の石を取り「衛門三郎」と書いて、左の手に握らせた。天長8年10月のことという。
翌年、伊予国の領主、河野息利(おきとし)に長男が生れるが、その子は左手を固く握って開こうとしない。息利は心配して安養寺の僧が祈願をしたところやっと手を開き、「衛門三郎」と書いた石が出てきた。その石は安養寺に納められ、後に「石手寺」と寺号を改めたという。石は玉の石と呼ばれ、寺宝となっている。
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