小梅日記

主として幕末紀州藩の学問所塾頭の妻、川合小梅が明治十八年まで綴った日記を紐解く
できれば旅日記も。

別日 40番

2016-12-05 | 四国遍路 伊予(愛媛...
別日 40番
 
40番 平城山 観自在寺
ご詠歌 心願や自在の春に花咲きて 浮世のがれて住むやけだもの
本尊 薬師如来
一番札所の霊山寺からもっとも遠くにあり、「四国霊場の裏関所」とも呼ばれる。美しいリアス式海岸の真珠の生産地としても知られる宇和海に面した最南端にこの寺はある。





縁起によると平城天の病気平癒を祈願して本尊の薬師如来と脇侍の阿弥陀如来、十一面観音菩薩を創って開いたとされている。この三体は一本の霊木に一刀いれる毎に三度礼拝しながら彫ったとされる。
平城天皇は行幸して「一切経」「大般若経」を納め「平城山」の山号を下賜した。庶民から天皇にまで信心を集め七堂伽藍のそびえ隆盛を誇った。
しかし、長い歴史のうねりの中では多くの札所と同じく栄枯盛衰の波にもまれてきた。
本堂を取り囲む回廊には「お砂踏み」(四国の八十八ヵ所霊場から霊御形を勧請した八十八体の弘法大師を安置し遍路に行けない人が簡単に巡拝できる場所)があって一周した。







車で来たのでゆっくりじっくりお参りが出来た。この日はここまでで一路徳島に向かった。徳島港から南海フェリーで帰宅するのだ。11時に出発して途中サービスエリアに2カ所寄って16時半のフェリーに乗った。
800キロの走行。運転おつかれさま。そしてありがとう!!




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四日目 43番~41番札所 帰路

2016-12-04 | 四国遍路 伊予(愛媛...
四日目 43番~41番札所 帰路

43番 源光山 明石寺(めいせきじ)
ご詠歌 聞くならく千手の誓いふしぎには 大盤石のかろくあげ石
本尊 千手観世音菩薩
ここは乙女に化身した千手観音菩薩がこもった霊地とされて、古来から尊崇されてきており、6世紀の前半、欽明天皇の勅願により千手観音菩薩像を祀るための七堂伽藍を建立したのが起源とされている。役行者が紀州熊野から12社権現を勧請し、12坊を建てて修験道の中心道場として栄えた。が、やがて荒廃してゆきほぼ100年後に訪れた大師が嵯峨天皇に奏上して復興した。







鎌倉時代には源頼朝が大恩有る池禅尼の菩提を弔うために阿弥陀如来像を奉納し経塚を築いている。この時に山号を源光山と定めたという。そうしたことから武家の帰依があつく後には宇和島伊達家の祈願所となった。



42番 一カ(王偏に果実の果)山 仏木寺(ぶつもくじ)
ご詠歌 草も木も佛になれる佛木寺 なお頼もしき鬼畜人天
本尊 大日如来
牛の背に乗った弘法大師の伝説が語り継がれている。
弘法大師が牛を引く老人についていくと、楠の古木の上に光るものを見つけた。それは大師が唐から投げた宝珠で、大師はその楠で大日如来像を刻み眉間に宝珠を納めて、この地を霊場に定めた。本尊の大日如来は牛や馬の守り仏として信仰を集め、現在はペットの供養に訪れる人も多い。






四国霊場では珍しい茅葺の屋根の鐘楼が元禄時代に再建されている。
ここで思いがけないお摂待を受けた。近くの三間中学校の一年生達が社会科の実習?として一年に一度この寺でお摂待をするのだという。手製の葉書大の絵も手書きで可愛い文章が添えられている。ラッキー!良い日に来合わせたとお大師様に感謝です。お遍路文化はこうして受け継がれていくのでしょう。





41番 稲荷山 龍光寺(りゅうこうじ)
ご詠歌 この神は三国流布の密教を 守り給わむ誓いぞと聞く
本尊 十一面観世音菩薩
宇和島は伊達家十万石の城下町。その市街地から北東に10kmほどのところが三間平野で地元では「三間のお稲荷さん」と親しまれているのが龍光寺。
弘法大師がこの地を訪ねた際に、稲束を背負ったひとりの白髪の老人があらわれ、「われこの地に住み、法教を守護し、諸民を利益せん」と告げて、忽然と姿を消した。大師は、この老翁が五穀大明神の化身であろうと悟り、その明神を勧請して稲荷明神像を彫造、堂宇を建てて安置し、四国霊場総鎮守の寺とした。
創建のころから神仏習合の寺であった龍光寺は、稲荷寺として信仰され維持されてきて石の鳥居や赤い鳥居もある。







今回の遍路ツアーはこれでおしまい。伊予としては40番の観自在寺が一つ残ったがここはかなり離れていて、次回の土佐一国詣りのツアー冒頭に企画されている。一つ残すのは気分が悪いのだろう。何人もの人が予約を入れていた。40番を個人で詣るにはJRを乗り継いで一日がかりで宇和島まで行き、日に数本しかないバスに乗って行くのだ。その点、バスは座っていれば連れて行ってくれる…そんなことを考えているとバスが止まった。看板は「真珠会館」
奥に導かれていくと団体用の昼食が用意されていた。12時少し前になっている。
大きなみやげものやさんだ。勿論、宇和島で採れた真珠もたくさん並んでいる。ここで最後のお土産を調達するように仕組まれているのだろう。
じゃこ天を多めに買った。
ここからバスは一路広島に向かう。12時50分出発。
17時50分くらいの新幹線で一同は九州へと帰って行く予定。
長いバス道中では先達さんの話に続いて「知ってるつもり」の空海と衛門三郎の話が上映された。寝ている人が大半。
トイレ休憩が一度の後、バスは17時20分に広島駅に到着した。九州に帰る皆さんにお別れを告げて17時35分ののぞみに乗れた。新大阪からくろしおを乗り継いで21時前に家に帰り着きダダ(ワンコ)の熱烈歓迎を受けた。
それにしてもしんどかった。そして伊予での1札所残しが棘のように心に残った。




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三日目3 45番~44番札所 道後温泉

2016-12-04 | 四国遍路 伊予(愛媛...
三日目3 45番~44番札所 道後温泉

本日の昼食は浄瑠璃寺のすぐ傍にある大きな民宿「長珍庵」広間に案内されるともう用意ができていた。遍路用品やお菓子などが売店で売られていたのでスマホを充電させてもらってお線香を買った。
次はいよいよ伊予の横綱級の山の岩屋寺だ。先達さんから発破をかけられる。

45番 海岸山 岩屋寺(いわやじ)
ご詠歌 大聖の祈る力のげに岩屋 石の中にも極楽ぞある
本尊 不動明王
山中に建つ岩屋寺だが山号は海岸寺。「山高き谷の朝霧海に似て松吹く風を波にたとえぬ」と大師が詠ったのがこの山号の由来だという。かっては海底だったところが隆起して迫力ある岩屋を作った。巨岩の中腹に埋め込まれるように建てられた堂宇は典型的な山岳霊場で多くの修験者の道場であった。
雨が降ってきた。やっと傘を出す。土産物屋の並ぶ長い参道。小雨なのでお土産屋さんに傘を預かってもらった。ローソクやお線香をあげなければならないので濡れるよりないほうがいい。






参道のの石段。巨木の中にできた参道が続きその石段は266段らしい。参道脇には「南無大聖不動明王」と書かれた赤や青の幟が立てらいた。諦めてバスの中で待つ人が二人、途中で引き返した人もいた。。今回ではこの長い登り道で初めてストックが役に立った。二本あるので一本を貸してあげたらとても喜ばれた。
進むにつれて周囲の空気が変わっていくようで聖域を思わされた。やっと納経所が見えると突然むき出しの岩窟山が全貌を現した。大師は山全体を霊場と決めた。梯子がかかっていてその上の岩窟の中に秘仏の石像が安置されているという。さすがに梯子を登る気力も体力もない。若い人が降りてくるのを羨ましく思った。
いつしか雨はやんでいた。傘を預けたお店で岩屋寺の手ぬぐいを買った。






44番 菅生山 大宝寺(だいほうじ)
ご詠歌 今の世は大悲のめぐみ菅生山 ついには弥陀の誓いをぞまつ
本尊 十一面観世音菩薩
44番のこの寺は88札所の真ん中にあたるので大師が中札所霊場として決めた。。
寺伝によると本尊の縁起は大和朝廷の時代まで遡る。百済から来朝した聖僧が、携えてきた十一面観音像をこの山中に安置した。飛鳥時代になって大宝元年に安芸(広島)からきた明神右京、隼人の狩人兄弟が菅草の中にあった十一面観音像を見つけ、草庵を結んでこの尊像を祀ったのがはじまり。この奏上を聞き文武天皇が下した勅命によって建立され、大宝律令が確立した時期であり大宝寺と命名された。後の100年後に大師がこの地で密教を修法して霊場に定めた。






雨の上がった標高490mの高地にある境内には老樹が林立し、幽寂な空気が漂っていた。仁王門をくぐり道一つ越え右手に納経所。さらに登り、正面に本堂、右に大師堂。石段脇には山頭火の句碑。「朝まゐりはわたくし一人の銀杏ちりしく」がある。山頭火は昭和14年に訪れたようだ。




本日の巡拝はここまででバスは4時5分に発車して道後温泉に向かった。


道後温泉
愛媛県松山市(旧国伊予国)に湧出する温泉で白浜、有馬と並び日本三古湯の一つといわれている。古代から知られていて古名を「にきたつ」(煮える湯の津の意といい、万葉集巻一に見える。また額田王の有名な「熟田津に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな」歌の熟田津も道後温泉ではないかといわれています。また夏目漱石の小説『坊つちやん』にも描かれ、愛媛県の代表的な観光地となっている。
道後の町に入ると湯煙があちこちで立ち上り鉄筋のホテルや宿が林立している。10年ほど前に亡くなった兄と泊まったホテルの前を通過してバスが止まったのは古湧園。5時だった。
和室の典型的な宿の部屋。畳が新しくて臭いを発していた。窓からは坊ちゃんお風呂屋が見える。岩屋寺を歩いた疲れからしばらく伸びていたが夕食まで1時間半あるので重い腰をあげて散歩に出た。




長い急な坂道を下っていくと商店街に出た。商店街を進んで行くと道後温泉駅だった。道路を挟んでカラクリ時計台がある。毎時0分と30分に人形がでてくるがそれには遭遇できなかった。坊ちゃんの道後温泉本館の前を通った。以前来た時に入っているので思い出を辿っただけ。来年の秋から耐震改修工事が始まり半分だけの営業になるらしい。
お土産はバスの中での噂話から松山タルトと決めていた。それも先達さん曰くの「六時屋」が元祖で味も上品というのを選択。「一六タルト」が全国的に有名だがそれだけに割とどこでも買える。商店街の中程に六時屋さんがあった。味見をさせてもらった。カステラにあんこを包んだようなお菓子。六本買ったら重かった。ホテルの戻るとフロントで箱を買って宅配便にすることにした。明日は3札所を巡拝して帰路につくから参拝用品と最低の品だけをザックに残した。



夕食は宴会場。隣の宴会場も賑わっている。接待係という芸者姿の女性が現れて舞ってくれたのには驚いた。フロントで見かけたので「芸者さんですか?」と尋ねたら「いいえ。接待係です」との返事だった。もう置屋さんはないのかな。女性の多い席ではやりにくいかもしれない。隣室は男性ばかりだったからお酒をついで廻っていたりしていた。
食後、誰も居ない露天風呂に浸ってから就寝。






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三日目2 48番~46番 衛門三郎

2016-12-02 | 四国遍路 伊予(愛媛...
三日目2 48番~46番札所

降りそうで降らない伊予路をバスは順調に進む…多分。だからゆっくりとあれこれを鑑賞したり散策したり出来ない。本日4番目の西林寺についたのは10時20分。在寺時間は30分だ。
48番 清滝山 西林寺(さいりんじ)
ご詠歌 弥陀佛の世界をたずね行きたくば 西の林の寺に詣れよ
本尊 十一面観世音菩薩
行基によって一宮別当寺として堂宇を建立して開創された。後に大師が霊跡を巡礼した際、この寺に逗留し四国霊場と定めて国家の安泰を祈願する道場とされた。
このころ村は大旱魃で苦しんでおり、大師は錫杖を突いて近くの水脈を見つけた。寺の西南300mにある「杖の淵」はその遺跡とされ、水は涸れたことがなく土地を潤し、昭和60年の「全国の名水百選」にも選ばれている。





福授地蔵は納経所前の庭園にあり、お詣りすると1つだけ願いを叶えてくれるというお地蔵さん。
本堂に蔵される本尊は秘仏で後ろ向きに置かれているのが特徴だという。
けぶるように幻想的な四国山脈を見ながら飲んだ水はさすがにおいしかった。


47番 熊野山 八坂寺(やさかじ)
ご詠歌 花を見て歌詠む人は八坂寺 三佛じょうの縁とこそきけ
本尊 阿弥陀如来
わずかな石段を上がって山門をくぐると右に手水場と庫裏・納経所が、左に宝篋印塔が、その先に鐘楼がある。正面奥に本堂が建つ。本堂右手には権現堂、十二社権現堂があり、左に大師堂がある。本堂と大師堂の間に閻魔堂がある。
寺伝によれば役行者によって開基された。一時荒廃するが、後に来錫した大師が再興したとされている。熊野権現を勧進して十二社権現とともに祀り、修験道の根本道場として栄え多くの僧兵を抱える大寺となった。




本堂の左右にある入口から降りた先にある地下室には、薄明かりの中で黄金に輝く万体阿弥陀仏が安置されています。奉納した信者の出身地毎に並べられた小さな仏様が、天井の高さまでびっりしと並ぶ様は圧巻。
山門は小川にかかる橋を利用して、立派な屋根のある橋山門となっており、その天井には美しい色彩の天女の絵が描かれている。
小川を渡っての橋山門は珍しくて風情があった。しかもその天井に天女が舞っている!






46番 医王山 浄瑠璃寺(じょうるりじ)
ご詠歌 極楽の浄瑠璃世界たくらえば 受くる苦楽は報いならまし
本尊 薬師如来
行基菩薩が奈良の大仏開眼に先だち、和銅元年に布教のためにこの地を訪れ、仏法を修行する適地として伽藍を建立した。白檀の木で薬師如来像を彫って本尊とし、脇侍に日光・月光菩薩と、眷属として十二神将を彫造して安置した。寺名は薬師如来がおられる瑠璃光浄土から「浄瑠璃寺」とし、山号もまた医王如来に因んだ。後に唐から帰朝した弘法大師がこの寺にとどまり、荒廃していた伽藍を修復し、四国霊場の一寺とした。
参道入口の石段左に「永き日や衛門三郎浄るり寺」と彫られた正岡子規の句碑があり、お遍路を迎えてくれる。このあたりは遍路の元祖といわれる右衛門三郎(後述)のふる里として知られる。






境内には、説法石や仏足石などの石がある。仏足石は、素足でふんで、如来の足跡をじかに体得する。本堂左手の「一願弁天」(知恵・財宝・音楽に関する願いには、霊験)は1つだけ願いを叶えてくれる。境内のイブキビャクシンは天然記念物で、樹齢は1000年以上ともいわれる。
こじんまりとした静謐感のある札所だった。

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衛門三郎の名前は四国遍路の途中でよく見聞きする。一つの説法逸話としてひろめられてきたようだ。あまり好きじゃないので纏める気力がなくwikipedia.からコピーさせていただく。衛門三郎伝説(wikipedia.より)
天長年間の頃の話である。伊予国を治めていた河野家の一族で、浮穴郡荏原郷(現在の愛媛県松山市恵原町・文殊院)の豪農で衛門三郎という者が居た。三郎は権勢をふるっていたが、欲深く、民の人望も薄かったといわれる。あるとき、三郎の門前にみすぼらしい身なりの僧が現れ、托鉢をしようとした。三郎は家人に命じて追い返した。翌日も、そしてその翌日と何度も僧は現れた。8日目、三郎は怒って僧が捧げていた鉢を竹のほうきでたたき落とし(つかんで地面にたたきつけたとするものもあり)、鉢は8つに割れてしまった。僧も姿を消した。実はこの僧は弘法大師であった。
三郎には8人の子がいたが、その時から毎年1人ずつ子が亡くなり、8年目には皆亡くなってしまった。悲しみに打ちひしがれていた三郎の枕元に大師が現れ、三郎はやっと僧が大師であったことに気がつき、何と恐ろしいことをしてしまったものだと後悔する。
三郎は懺悔の気持ちから、田畑を売り払い、家人たちに分け与え、妻とも別れ、大師を追い求めて四国巡礼の旅に出る。二十回巡礼を重ねたが出会えず、大師に何としても巡り合い気持ちから、今度は逆に回ることにして、巡礼の途中、阿波国の焼山寺の近くの杖杉庵で病に倒れてしまう。死期が迫りつつあった三郎の前に大師が現れたところ、三郎は今までの非を泣いて詫び、望みはあるかとの問いかけに来世には河野家に生まれ変わり人の役に立ちたい(石手寺刻版には「伊予の国司を望む」)と託して息を引き取った。大師は路傍の石を取り「衛門三郎」と書いて、左の手に握らせた。天長8年10月のことという。
翌年、伊予国の領主、河野息利(おきとし)に長男が生れるが、その子は左手を固く握って開こうとしない。息利は心配して安養寺の僧が祈願をしたところやっと手を開き、「衛門三郎」と書いた石が出てきた。その石は安養寺に納められ、後に「石手寺」と寺号を改めたという。石は玉の石と呼ばれ、寺宝となっている。


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三日目1 51番~49番札所

2016-12-01 | 四国遍路 伊予(愛媛...
三日目1 51番~49番札所

目覚めると暗く重い空。降られるのかなあと心配になる。支度を調えて昨夜のホールでバイキングの朝食をいただく。このホテルはとにかく広く忘れ物などすると取りに戻るのも大変。アーケードのような商店街?がある。昨夜はウインドショッピングのみで何も買わなかった。今治タオルや砥部焼などが気になったが「あったら良いなあ」程度の物は買わないと決意している。でも藍と白の砥部焼には未練が残った。でも、高価。
バスは7時55分に出発した。

51番 熊野山 石手寺(いしてじ)
ご詠歌 西方をよそとは見まじ 安養の寺に詣りて受くる十楽
本尊 薬師如来
寺伝によると神亀5年に聖武天皇の勅願により、伊予の国守・越智玉純が鎮護国家の道場として伽藍を建立したことに始まる。
翌年、行基が開眼した薬師如来を本尊として安置し、安養寺と名付けた。その100年後に大師が訪れ真言宗にし霊場に定めた。




生後3年経っても左手が開かない男の子の手が安養寺の住職の加持によってやっと開いた。開いた左手から小石が転がり落ち、そこで寺名を石手寺に改められた。
境内は広く、仁王門は国宝、三重の塔、鐘楼、本堂、銅鍾はいずれも国指定の重要文化財になっている。ほかにも多くの寺宝がり宝物館もあった。
参道の両側には土産物屋などが並び
またここでは「おやき」(こしあんがたっぷり入った餅を、こんがりと焼き目を付けながら平たくやいたもの)が名物。8時過ぎだったのでまだ焼かれていなくて残念。集合写真を撮って注文を取られた。欲しくなかったが気の毒な気がして申し込んだ。1000円也。






50番 東山 繁多寺(はんたじ)
ご詠歌 よろずこそ繁多なりとも怠らず 諸病なけれと望み祈れよ
本尊 薬師如来
松山市を見下ろす淡路山の中腹にあって山門からの展望が素晴らしいらしいがあいにくの降りそうな空では曇っているだけだった。



孝謙天皇の勅願により行基が開基し、孝謙天皇の勅願所となったという。その際行基が坐高三尺の如来像を彫り、後に大師が留まって修行し現存の山号、寺号である東山繁多寺に改称したという。時宗の開祖・一遍上人ゆかりの寺としても知られている。天井画は中国古来の孝子24人の伝承をもとにして、江戸時代に作られた「御伽草子」の挿絵24枚が描かれている。
緑深く紅葉の名所として地元でも人気のスポットだという。


49番 西林山 浄土寺(じょうどじ)
ご詠歌 十悪のわが身を棄てずそのままに 浄土の寺へまいりこそすれ
本尊 釈迦如来
天平勝宝年間(749年-757年)に孝謙天皇の勅願を受けて恵明(えみょう)上人が開創、本尊として行基が刻んだ釈迦如来像を祀ったという。当初は法相宗であったが、空海(弘法大師)が伽藍を再興した際に真言宗に改宗した。





平安時代中期の天台宗の僧空也が天徳年間(957年-960年)にこの寺に滞在し布教に努めた。本堂は国指定の重要文化財である。
正岡子規の「霜月の空也は骨に生きにける」の句碑が立つ。



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