小梅日記

主として幕末紀州藩の学問所塾頭の妻、川合小梅が明治十八年まで綴った日記を紐解く
できれば旅日記も。

三日目1 80番国分寺、81番白峯寺、82番根香寺

2016-10-31 | 四国遍路

七時に外に出るとタクシーが待っていた。
八時間で回れる札所を詣って善通寺に送って貰う予定。35000円の契約。申し込んだ時に先達さんは断った。自由に廻りたかったからだ。
(先達さんとは巡拝案内、おつとめの導師などを勤められる方。先達、中先達、大先達、特任先達、特任権中先達、特任中先達、特任権大先達、特任大先達があり、一度巡拝された方は先達に、先達として二度巡拝された方は中先達に、中先達として三度巡拝された方は大先達に申請することが出来るそうだ)
運転手のTさんも先達の資格をもってるそうだ。遍路タクシーの運転手の殆どがこの資格を持っているらしい。
ルートはお任せで出発。

80番 白牛山 国分寺
 ご詠歌 国を分け野山をしのぎ寺々に 詣れる人を助けまし

聖武天皇が全国に建立した国分寺で四国に四寺有るうちの一つ。行基が本尊を祀って寺を開いた。1300年の時を刻み創建時の遺構が多数残っている。点在する礎石から創建当時は奈良の唐招提寺や京都の東寺を凌ほどの規模だったと思われている。
その後に弘法大師が訪れて本尊や伽藍を修復して四国霊場に定めた。
この寺には四国最古の梵鐘が健在。この鐘は高松城主だった生駒一正が高松城の鐘に使用と持ち帰ったが、以来、よくないことばかりが続き、しまいには鐘が夢に現れて「帰りたい~」と泣くので返したという逸話が残っている。









お詣りをすませると平地から山道へ車は走った。
札所の順番には拘らずTさん任せ。歩きで考えていたときはこれから向かう根香寺と白峯寺で一日が終わる計算だった。海を見下ろしながら走るうちに緑したたる山道に入りやがて到着した。高松市と坂出市にまたがる連峰のひとつの青峰山中に根香寺がある。


81番 綾松山 白峯寺
ご詠歌 霜寒く露白妙の寺のうち 御名を称ふる法の声々

瀬戸内海を望む五色台。北から黄峰、黒峰、青峰、白峰、赤峰の5峰があってその白峰山中にある。弘法大師が白峰山の山頂に如意宝珠を埋めて人々の救済を祈念して開いたという。その後に智証大師が白峯大権現のお告げで瀬戸内海に流れ着いた霊木に千手観音菩薩像を彫って本尊としてお堂を建てたと伝えられている。





保元の乱で破れた崇徳上皇が讃岐に流されてこの地で没し、白峯寺の傍の白峯御陵で荼毘にふされた。後鳥羽上皇は崇徳上皇の御霊を祀る御廟として法華堂を建立した。また、源頼朝も十三重石塔を建立し重要文化財となっている。

没後二年目に和歌の方で崇徳と親しかった西行がその死を悼んで訪れた。西行が読経していると崇徳が現れ西行は歌を詠んで慰めたという。



ここは二度目の参詣になるが前回に比べるとここかしこに手を加えられているような感じ。平清盛が大好きなので歴史書を探っているうちに崇徳上皇のファンにもなった。二人にとって宿命の戦だった保元の乱。この勝者と敗者は実は異母兄弟という説がある。それだけに奥深い闇を感じてしまう。参拝者の殆どが通過する木札の前に立って感無量だった。西行は崇徳の歌の友だちであり清盛とは武士時代の友人だった。西行がここで読経する姿が目に浮かぶようだ。





このお寺には各所にエトの石像が建っている。エトに合わせたお守りも売っているのだろう。納経帳を書いて貰って目についたのが「崇徳上皇御遺跡案内」という郷土博物館発行の小冊子。1000円也で買った。パンフレットがあったので持ち帰ろうとしたら100円だという。「なんでもただじゃないです」と叱られた。お寺のパンフなんてどこでもご自由にだと思っていたのでショックだった。買わなかった。まあ、入山料がいらないから仕方ないか…だけど納経料で300円納めてるしぃ…こんな小さな不満で崇徳上皇の評判に影響すると申し訳ないね。

さてさて次は。


82番 青峰山 根香寺
 ご詠歌 宵の間の妙降る霜の消えぬれば 後こそ鉦の勤行の声

かってここを訪れた弘法大師は五智如来を感じ山々に黄峰、青峰、赤峰、白峰、黒峰と名づけ、青峰に「花蔵院」を建立した。その後、智証大師が霊木で観音像を彫り「千住院」を開いた。この二つの院の総称が「根香寺」である。霊木の根が香気を放っていたからだそうだ。

       




密教で威力を持つ五大明王を祀る五大王があり、中心は不動明王。藩主だった松平頼重が「霊験あれば示し給え」と祈念したら立ち上がったという伝説がある。
各県から贈られた千手観音は見応えがある。





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二日目3 84番屋島寺、83番一宮寺

2016-10-30 | 四国遍路
二日目3

八栗駅から屋島駅まで琴電で行く。
ドライブウェイをシャトルバスに乗って屋島山上についた。運賃は200円。
源平合戦の古戦場として名高い「屋島」は、古代から備讃瀬戸の交通の要であり、軍事上の要衝として重要な位置にあり、歴史的にも重要な史跡が残っている。屋島ドライブウェイのミステリーゾーンも人気スポットになっている。行ってみたくなるような風情の家々が木々の間から顔を出していた。
瀬戸内の海は美しく、大小さまざまな島が可愛い。
しかし、平家好きにとっては哀しい景色である。
瀬戸内海国立公園の中に屋島寺はあった。
なぜか水族館もある。
観光バスが次々とやってきては去っていく。

            


84番札所 南面山 屋島寺
 ご詠歌 梓弓屋島の宮に詣でつつ 祈りをかけて勇むもののふ

奈良の東大寺で戒壇を作った鑑真によって開かれたと伝わっている。鹿児島に漂着した鑑真は東大寺に向かう途中に屋島から登る瑞光を見て堂を建て持参の普賢菩薩像を安置し経典を納めた。後に弟子が初代住職となって屋島寺と命名した。
興仁六年に嵯峨天皇の勅願を受けた弘法大師が屋島寺を訪ね、十一面千手観音像を彫って本尊として安置した。その後は山岳仏教の霊場として興隆。
鎌倉時代に作られた「平家供養の鐘」があって重要文化財になっている。









バス停の前には大きな土産屋と休憩所を兼ねた建物がある。その横を通ってお寺に向かう。外人さんも少なくない。
手を洗い、ローソクとお線香拝礼。お経を唱え納札と手順をこなす。
屋根のような景観から屋島と名づけられた場所に立ってるのが不思議だった。
耳を澄ますと合戦の雄叫びが聞こえてくるような…。
宝物館もあって入らなかったが、数々の文化財や寺宝が拝観できる。
本堂横には蓑山大明神という氏神様の前におおきな狸一家が立っている。そんなに古くはないのだろうけれど人気者。四国狸の総大将だそうだ。
しばらくベンチで休んだ。五月の風が心地よかった。
しかし、ここのトイレはひどい。どこのお寺も感心するほど素敵?なのに。おまけに観光地でありながら食べるところがない。



空き腹を抱えて再びシャトルバスで屋島駅まで戻った。


屋島寺を打ち終えて屋島駅から琴電で瓦町乗り換えで一宮駅まで行くのだが、昼食を食べ損ねていたのとキャッシュコーナーに行くために瓦町で降りる。
瓦町は高松の中心地だそうで、デパートや大きなビルが林立していた。
情報のないまま駅の付近をうろついて目についた食堂に入り、五目ラーメンを注文しSさんは焼きそば。
一息ついて今夜の宿を決めていないことに気づいた。
それは今後の予定を決めるターニングポイントでもあるのに。とりあえず今夜の宿を次に詣る札所の一宮寺から歩けるところに予約を入れることにした。
近いのは「天然温泉きらら」
ここは日帰り入浴温泉センターなのだが宿泊棟もある。だが、折悪しく温泉の点検日だとかセンターはお休みだった。翌朝の6時からは入浴できるとのこと。素泊まりとなるが一宮寺から歩けるので予約した。

さてその先の計画。
タクシーを一日借り切って回れるところを回ろう、うまくいけば香川県最後の66番雲辺寺まで行けるかもしれない。
徳島県は三回も四国に来て打ち終えた。四国までのアクセスは時間もお金もかかるのだ。タクシー代を払っても香川県を打ち終えることができればありがたい。と言うわけでガイドブックを見て信用できそうな琴電タクシーに頼み、明日の宿は善通寺の宿坊と決めて予約が取れた。

ここで腰を上げて琴電に乗り一宮駅で降りる。
徒歩15分くらいで一宮寺に到着予定。
ここでちょっと変わった男性に「一緒にお詣りしよう」と親しげに声をかけられた。「ちょっと寄るところがありますので」と反対方向に歩き出してもついてくる。段々怖くなってきた。ようやく逃げ切ったものの、女子高校生の帰宅時間らしく三々五々とやってくるので心配になった。一人で歩いている子はいないから大丈夫だろう…。
そうこうしながら穀倉地帯の住宅街の一角に建つ一宮寺に辿りついた。

83番 神毫山 一宮寺
ご詠歌 讃岐一宮の御前に仰ぎ来て 神の心を誰かしら言ふ

縁起に寄れば行基の師匠だった義淵僧正が開いたと伝わる。当初は大宝院と称し、諸国に一宮が建立された時には讃岐一宮(一宮とは諸国で一番社格が高い神社のこと)として田村神社が建立されて別当寺となった。その後行基がお堂などを修復して一宮寺に改めた。さらに大同年間に弘法大師が訪れて聖観世音菩薩をを彫って真言宗に改めた。江戸時代には高松藩主によって田村神社と分けられた。明治時代の神仏分離令よりも二百年早い珍しい事例だそうだ。
境内には「地獄の釜」と呼ばれる薬師如来を祀る小さな祠があって悪いことをした者が頭を入れると抜けなくなるらしい。







讃岐平野で一番大きいのが高松平野。その中央の西寄りの閑静な住宅有り学校有りの穀倉地帯にこじんまりと一宮寺は建っていた。こぶりながらの品がある。どこのお寺も木造故の火事や戦乱によって焼失を繰り返すが民の思いで再興がなされてきて今日がある。
遍路寺を廻っていると一般の日本人には神と仏の分離が為されていないことを実感する。たいていのお寺には神系の社殿や神がおわす。この一宮寺でも同じ敷地の中に田村神社があった。
Sさんに肩を叩かれてそちらを見るとさっきの妙な男性が通る人たちに声をかけている。何かを売っている? 納経の時に社務所の方に言うと困っていると言われた。野宿遍路の人たちのことも含んでいるのだろうか。立場の性質上夜間も門を閉じることができず「境内で物品の売買や勧誘禁止」と紙を貼ることしかないと。振りかえれば女学生達には景色の一つになっているのかもしれないと思った。



     


「きらら」まで歩く。大きな日帰り温泉設備。点検日で休業だが宿泊棟だけはやっている。入浴なしの素泊まりとなる。敷地内の大きな駐車場の向こうにそれはあった。三階建てのこじゃれたワンルームマンションで自炊もできる。一棟全部をきららが買い取ったのだろう。
まだ5時前だからゆっくり出来そうだけど食事はどこでする?ファミリーレストランが二軒田圃の先に見える。とりあえずそちらの方に歩いて行った。振りかえるとおむすびのような山が有焼けている。美しいと思った。讃岐平野にはところどころ大小さまざまな山が積み木がこぼれたよに存在している。山頭火が好んだ風景かも知れない。
なんとなくファミレスには行く気がせずに国道にでてみると「さぬき一番」という看板があった。また、おうどん? でもファミレスよりはいいか。ということで入った。なんとなく薄暗い店内で客は誰もいない。変わったメニューがたくさんある。メニューを選んでいるうちに続々とお客さんが入ってくる。ちょっと安心。
鍋焼きうどんを頼んだ。いつもとは少々趣が違うが抜群においしかった。 








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二日目2 85番八栗寺 

2016-10-30 | 四国遍路
志度寺から志度駅までは近いけれど細道がいろいろあって迷いながら駅に着いた。Sさんの提案で「ことでん一日乗車券」を買った。一日限りで何度でも乗降できる。琴電はほぼ20分おきに走っているので計画の目安になってありがたい。
志度駅から八栗駅まで乗る。八栗寺にはケーブルがあるのでその乗り場までタクシーを利用した。ケーブルを降りるとお寺は近かったが、どうやら裏門についたみたい。



85番  五剣山 八栗寺
    ご詠歌  煩悩を胸の智火にて八栗をば 修行者ならで誰か知るべき
庵治半島のギザギザ嶺の山中に建つ。弘法大師が青年時代に修業していると五本の剣が降ってきて蔵王権現が現れてここが霊地だと告げた。大師は5本の剣を埋めて大日如来を山の鎮護とし五剣山と命名したという。
また、大師は唐での修行の成果を確かめるためにあらかじめ八つの栗を植えておいたが、帰国すると見事に成長していたので八栗寺と名づけた。
境内には聖天堂があり大師作の歓喜天が祀られていて、商売繁盛、縁結び、学業成就のご利益があると「八栗のお聖天さん」と古くから親しまれている。









ケーブルカーからは壇ノ浦が見え、行く手には五剣山が聳えていた。かっては五つの嶺が連なっていたのだが大地震によって一つが崩れてしまい今は四剣山になっている。連山の麓に抱かれた八栗寺は清涼で優しい雰囲気に包まれていた。何軒かあったらしい土産物屋が閉店となっていて少し寂しい。
ケーブルを降りて駅まで歩くことにした。少しは歩かなければネ。
からっと晴れて鶯のさえずりもよく響くゆるやかな下り通です。が、なんだか埃っぽい。
原因は石細工。ここ香川県牟礼町は石の産地で石匠の里公園や石の資料館などもあって、多くの石材店があった。香川は良質の花崗岩を産出するので知られているが、中でも庵治石はきめが細かく磨けば磨くほど艶が出て美しくなるという希少価値のある石だそうだ。アロマの香りをたてる容器をいただいて大事にしているが帰ったら磨こうと思った。
人を見かけない道を歩いて寂しい商店街を抜けて八栗駅に戻った。





讃岐の天川神社に酒の女神の伝説がある

丸亀に流れ込む「土器川」の上流に「天川神社」があり、神社の創建は731年(天平2年) ・琴南町の天川神社には、酒部黒麿と星になった女神が祭られている。この天川の里に住む綾黒麿の屋敷に、一つの星が降ってきた。その星は、たちまち美しい姫君となり、成長した姫は酒造りがとても上手で、その酒はくめども尽きず、極上の味であった。病人を癒し、長生きをさせるという不思議な力をも持っていた。このうわさは都に伝わり、天皇に献じたところ大いに褒められ、「酒部」の姓を賜り、黒麿は讃岐酒造りの始祖となった。黒麿に酒造の秘伝を授けた姫は、清流土器川のふちに身を沈め、星神となって再び天に帰ったという。これは「かぐや姫:竹取物語の原型」ではなかろうか。 讃岐の酒のルーツである。 豊中町の宇賀神社は、延喜年間(901年~923年)から、神酒の醸造法が口伝授によって継承されてきたとされ、今でも全国的に珍しい醸造が許された神社として知られている。酒部公は神の酒をつくり代々世襲であったらしい。

かぐや姫の時代時代は、藤原の不比等の頃のことである。壬申の乱で没落した藤原(中臣)氏が、権力の中枢に復活するには非常手段をとった。多くの皇族や豪族を闇に葬っている。藤原不比等には、謎が多い。特に、深い謎は、下記の2つである。・藤原宮子(聖武帝の母)の出自の謎:宮子は紀伊の海人の娘か? 梅原猛氏は、著書「海人と天皇」で、かみなが姫Link =宮子 説をとなえている。「宮子姫伝記」と道成寺をめぐる一連の考察から、道成寺は文武天皇勅願の寺(701年建立)であり、そこの言い伝えは真実であろうとしている。また、勅命の勅旨「道成卿」の名をもって、道成寺としたとしている。紀道成=紀麻呂が、宮子を見出し、出仕させたのではと考察している。不比等は、現代の官僚制に通じる太政官制を敷いて、皇帝の権力を絶対とする律令を改変したとしている。


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二日目1 86番志度寺

2016-10-30 | 四国遍路
二日目 1

05;00  起床
06;00  朝食
07;30  大川本社前  バス
08;00  志度寺
09;20  琴電 志度駅
09;40  八栗駅
09;45  ケーブル乗
09;50  八栗寺
10;45  ケーブル降
11;25  八栗駅
11;36  屋島駅
11;45  シャトルバス
12;00  屋島寺
13;05  バス→八栗駅
13;25  八栗駅→瓦町駅
14;00  昼食
15;20  瓦町→一宮
16;00  一宮寺
16;45  保養センターきらら
18;30  さぬき一番
21;30  就寝

目覚めると晴天だった。よかった。
朝食の写真は撮り忘れ。納豆、卵、味噌汁、魚切り身、つけもの…。
コミュニティバスで昨日降り立った志度駅へ行く。

86番 補陀洛山 志度寺
ご詠歌  いざさらば今宵はここに志度の寺 祈りの声を耳に触れつつ



寺の起こりは88寺中で一番古く飛鳥時代に一人の尼が建てた小さな御堂から始まった。その後、天武天皇時代に藤原不比等が妻の墓をここに建て御堂を広げ「死度道場」という道場を作り、その子の房前がが母の菩提を祈って講堂を再興して寺の名前を「志度寺」と代えた。死度の意味は「志度の海辺は極楽浄土に続いている」というもの。境内にはその頃作られた曲水式庭園も残っている。



なるほど、このお寺は弘法大師の手を煩わせることなく戦国時代の荒廃からから立ち直って現代まで賑わいを見せているのか。
讃岐ではどのお寺の山門にもわらじが仁王さまと同じくらいのおおきさで並んでいるが歩いて巡礼するにはもっとも大事な物だったのだと再確認させられた。





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一日目2 87番 補陀洛山 長尾寺

2016-10-25 | 四国遍路

コミュニティ巡回バスがやってきた。
このバスは行政から支援を受けて大川バスという会社の経営。
そのバス会社の本社前で降りると長尾寺は近かった。
本降りになっていたのでバスの中で出した傘をさして歩いていると足元の下水蓋に気がついた。旅に出て気づくと撮ってきたので下水の蓋の写真がかなり溜まっている。その下水の蓋には「かぐや姫のふるさと」長尾町とあった。
???かぐや姫って香川出身だった?帰宅してネットで検索したらなんだかややこしい話がたくさん出ていた。竹取の翁というのが讃岐の翁のことで、あの壬申の乱までさかのぼって民話や噂話を総合して「竹取物語」として伝承されてきたらしい。月からお酒を持ってきた姫とか聖武天皇の母の宮子だとかさまざまな説があって奥深い。
そういえば「桃太郎伝説」という本を読んだ時も鬼が異人で宝物が鉄鋼品やそれを作る技術だったとの説に感心したことがあった。
いずれ機会があったらじっくりりと「かぐや姫」についても調べてみたい。
それはさておき、長尾寺にほどなく到着した。

87番  補陀洛山 長尾寺
ご詠歌  あしびきの山鳥の尾の長尾寺 秋の夜すがら御名を唱えよ

ご本尊は聖観音菩薩。聖徳太子の開創と言われており聖武天皇や行基が訪れた。行基が霊感を得た楊柳に聖観音菩薩を刻んで御堂を建てたのが始まり。その後、弘法大師が訪れて年頭の7夜に亘って護摩祈祷を行い人々に護摩符を授けた。
静御前が出家した寺としてもしられている。



傘をさしてのお詣りもなかなか。ほかにはバスで一緒だった母娘だけですぐにいなくなった。観光客なので納経などしない。
静御前がなでこんなところに?そっか、壇ノ浦まで義経を追ってきたんだと納得。その剃髪塚のうしろにかっては宿坊だったらしい建物があり、聞けば予約制で週末に普茶料理を振る舞っているとのこと。
市街地にあるお寺は平らかで歩きやすい。
大きな草鞋が奉納された仁王門。仁王さまは運慶作だそうだ。





お寺を出るとすぐに今夜の宿の「ながお路」があった。
昔の商人宿の感じ。ずいぶんと手入れを繰り返してきたのだろう。
大きな姿見があった。部屋の鍵はない。
夕食は食堂。先客男声が三名、ビールを飲んでいた。
三人共が退職後の遍路一人旅らしい。歩きの順打ちだから明日は大窪寺で結願。どこかほっとした雰囲気が漂っている。
食後には賑やかに談笑。いろいろな人生行路の話を聞いた。
雨の勢いがなくなってきた。


明日は志度寺から始める。そこまではコミュニティバスで行ける。
で、その先はどうする?宿の予約もとっていない。
行けるところまで行こう。しかし、そこに宿はあるのか?



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