小梅日記

主として幕末紀州藩の学問所塾頭の妻、川合小梅が明治十八年まで綴った日記を紐解く
できれば旅日記も。

紀州藩の学習館

2010-09-29 | 環境

学習館の全図



藩士の子弟に儒学の教養を授ける目的で藩校が設けられました。紀州和歌山藩藩校の名が「学習館」です。またつづいて江戸藩邸に「明教館」、伊勢松阪城に「松阪学校」が作られました。
江戸時代初期100年間ほどは藩立学校はなく家塾で学んでいました。
写真は学習館の全図
五代藩主(後に八代将軍)徳川吉宗は1713(正徳3)年、和歌山の湊昌平河岸に、初めて藩立学校「講釈所」を開きました(後に「講堂」と改称)。当時これに類する藩校を開設していたのは岡山藩・会津藩・佐賀藩などわずかでした。
十代藩主治宝(はるとみ)は1791(寛政3)年、湊の「講堂」を改修増築して「学習館」と改称し、規則や職員制度を整備しました。1836(天保7)年さらに拡張されています。
幕末の多事にあたって十三代慶福(よしとみ)は、江戸国学所(1855安政2年)・紀伊国学所(1856安政3年)を開設して国学教育を始めるとともに、江戸文武場(1856安政3年)・若山文武場(安政3年から万延年間)を開設して武術とともに和漢洋の学問所を併置して蘭学を授けました。さらに十四代茂承(もちつぐ)は1866(慶応2)年、若山文武場を拡張してそこに「学習館」を移しました。
1869(明治2)年制度変革して四民の入学を許可。1871(明治4)年廃藩置県で藩校は廃止され「県学」になりました。



現在この地にある株式会社世界一統は、学習館の跡地を南方熊楠の父である南方弥右衛門(初代)が紀州候から譲り受け、酒造業として創業したものです。
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九月七日

2010-09-28 | 嘉永二年
九月七日 

快晴だ。
三浦公(家老)へ行く。おち様と弟様は今日から本を読む(勉強指導?)ことになった。
そこで本来ならばお酒が出る筈なのだが、最近は倹約中なので後ほど持たせると講義だけを済ませた。
後から一籠が届けられて、その内のボラ一、鯛二、海老六を富永章蔵(学校ご用掛かり)へ送った。
富永では先日男子が産まれ、生まれそうな時に主人が行き合わせてお酒をご馳走になったのだろう。誠にめでたいと送った次第だ。
家にはボラを二匹残して一つを料理しみんなで食べていると「かせ田や」の掛銀三十匁を持参し山本浅之助がきた。
都合良く酒を出すがすぐに帰った。
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九月六日 

2010-09-26 | 嘉永二年
 快晴

主人は昼食後に橋本氏へ行った。田中へも行く。方々へ寄って夜に入って帰ってきた。
良蔵の母が礼に来る。
良蔵と岩一郎は木を植え替え土掘りなどしておおいに働く。
にぎり寿司を良蔵の母に振る舞った。
山中殿より使いが来る。先日、見回りに行った返礼である。

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