小梅日記

主として幕末紀州藩の学問所塾頭の妻、川合小梅が明治十八年まで綴った日記を紐解く
できれば旅日記も。

《百人一首について》

2014-06-17 | 百人一首
◆ 日本人であれば誰もが一度は学校で習ったことがあるものの一つに『万葉集』とこの『百人一首』があります。古文の文法の例題に出されて苦労したのも遠い思い出になっていることでしょう。
百人一首の選者については昔から諸説がありましたが、最近では藤原定家であろうと定説になっています。
ある時、定家は息子の為家の嫁の父に「別荘の襖に色紙を貼ろうと思うのですが、色紙に和歌を書くのも一興でしょう。どんな歌がいいですかな、書いて下さい」と頼まれました。嫁の父は関東の裕福な豪族で、定家の小倉山荘の近くに別荘を所有していたのです。
定家は選歌はともかくも書に自信がないからと辞退しましたが、たっての願いということで書いたのが「小倉色紙」と呼ばれて珍重されていました。
「古来の人の歌各一首。天智天皇より以来、家隆雅経に及ぶ」と定家の日記『名月記』にも記されています。この時、定家は74歳。悠々自適の暮らしを送っていましたので楽しい仕事だったのかもしれません。

◆ 藤原定家(1162~1241)
平安末期から鎌倉初期の時代が大きく変わる激動の中を平安京(京都)に生きた歌人です。藤原俊成の49歳の時の子として生れました。仁安元年(1166)、叙爵し(五位)、高倉天皇の安元元年(1175)、14歳で侍従に任ぜられ官吏の道を歩み始めます。治承三年(1179)三月、内昇殿。同四年(1180)正月、従五位上に昇りました。養和元年(1181)、20歳の時、「初学百首」を詠み、以後、式子内親王の御所に出入りするようになりました。翌年父に命じられて「堀河題百首」を詠み、両親は息子の歌才を確信して感涙したといいます。文治二年(1186)には西行勧進の「二見浦百首」、同三年には「殷富門院大輔百首」を詠むなど、争乱の世に背を向けるごとく創作に打ち込みました。正治二年(1200)、後鳥羽院の院初度百首に詠進し、以後、院の愛顧を受けるようになります。同年十月、正四位下に昇り、50歳で従三位に叙せられ、侍従になりました。建保二年(1214)には参議に就任し、翌年伊予権守を兼任しました。この頃、順徳天皇の内裏歌壇でも重鎮として活躍します。承久三年(1221)の五月、承久の乱が勃発、院は隠岐に流され、定家は西園寺家・九条家の後援のもと、社会的・経済的な安定を得、歌壇の第一人者としての地位を不動のものとしました。しかし、以後は急速に作歌意欲が急速に減退していきます。七十一歳で正二位権中納言になりますが一年足らずで官を辞し出家して明静と名乗り、八十歳で天命を全うしました。

◆ 百人一首には『古今集』以降の10種類の和歌集から撰出されています。
 選ばれた作者は、大和から平安、鎌倉初期に活躍した歌人達で、600年にも及ぶ広い年代にわたり選ばれています。百人一首の歌は『古今集』『後撰集』『拾遺集』『後拾遺集』『金葉集』『詞花集』『千載集』『新古今集』『新勅撰集』『続後撰集』の一万首以上にのぼる歌の中から撰出されています。
撰ばれた歌がすべて名歌ではないというところから撰歌と並べ方に大きな謎が秘められているとか、百首で構成した文学的なアラベスクだとかの諸説があります。田辺聖子氏は著書の中で「天智天皇は大化の改新のクーデターをおこして新しい時代を切りひらかれた。これを承久の変を引き起こして失敗された後鳥羽院と対置して、後鳥羽院の無念の思いと、果たすべかりし夢を暗示しているというもの(後略)」と解釈されています。
定家は後堀河天皇の命を受けて『新勅撰和歌集』を撰歌完成させています。ところが、彼にとって大切な後鳥羽院と順徳院が鎌倉幕府に反旗を翻したために配流中だったのでお二人の歌を載せることが出来ませんでした。そこで、この度の撰歌は私的なものゆえにと最後の二首をお二人の歌を飾ることにしたのではないかと言われています。

◆歌の分類
《元歌出典》
『古今集24』『後撰集6』『拾遺集11』『後拾遺集14』『金葉集5』 
 『詞花集5』『千載集15』『新古今集14』『新勅撰集4』『続後撰集2』

《内容》 春6 夏4 秋16 冬6 恋43 雑25

《作者》天皇親王10 公10 卿17 女房19 僧侶12 その他32

《歌われた土地》
畿内31(山城、大和、摂津) 東海道6(近江、駿河、常陸) 東山道3(陸奥)
  南海道3(淡路、紀伊) 山陽道1(播磨) 山陰道4(丹波、丹後、因幡、隠岐)
 その他(固有の土地と関係なし)

 簡単に分類を見てみましたが、この百首の中で女性の歌は二十一首撰ばれています。持統天皇と式子内親王を除くと全員が宮廷に仕える女房です。華やかな歌垣にはこうした才媛たちと公達たちが集まっていたのでしょう。かの西行も歌の上でのつきあいから待賢門院と親しく上流階級の人たちとの交際範囲が広がっていきました。歌会は知的な会話が交錯する素敵な社交場だったのでした。では、定家に歌を撰ばれた女性たちはどんな人だったのでしょう。その生き様をウオッチングしてみましょう。
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