小梅日記

主として幕末紀州藩の学問所塾頭の妻、川合小梅が明治十八年まで綴った日記を紐解く
できれば旅日記も。

鏡皇女

2014-01-30 | 万葉集

鏡女王
かがみのひめみこ
628~683
藤原鎌足夫人

◆鏡王を父に山背姫王が母という王族の娘と言われています。妹が額田王であることも定説化されてきたようです。皇極天皇(斉明天皇)はお気に入りの遠縁の娘だった鏡王女を長男の嫁にと勧めたらしく嬪の一人として宮中に入りました。でも、当時の天智は、自分が反乱を起こしたとして滅ぼした古人大兄の娘の倭姫王を正妃に迎えていました。初恋の人だからか、子供も産まないのに生涯寄り添ったのだという説もあります。

妹が家も継ぎて見ましを山跡なる 大島の嶺に家もあらましを

秋山の樹の下隠りゆく水の 吾こそまさめ御念よりは


◆天智と鏡王女の相聞歌です。琵琶湖を船で渡り鏡王女の里に出かけた折の歌だとされています。「おまえの家にもついでを作ってたびたび来たいものだがこの湖畔の大島のあたりにもう一つ屋敷があればねえ」「美しく紅葉した樹の下に見えつ隠れしながら流れていく川の水にこと寄せながら思ってくださるあなたより、私の思いの方が強うございます」とでもいう意味なのでしょうが、焦点が食い違っているような感じも受けますね。

◆鏡皇女に子供ができないうちに伊賀宅子が皇子を生みました。後の大友皇子です。また、遠智娘が建皇子を出産しますが、この皇子は聾唖者で姑である斉明の愛情がそちらに集まってしまいました。ほかの妃たちも次々と出産していますし、妹の額田は天武天皇と仲むつまじく十市皇女を生み幸せそのもの。もう、30歳になりかけて鏡王女は孤独でした。
そんな心の空白に入ってきたのが藤原鎌足でした。鎌足は初めて鏡王女に会った時から魅かれていたのですが 天智の嬪の一人である以上、どうにもならなかったのです。ところが、女性関係の多い天智はそれを察してか、鎌足との絆を強めるためか彼に鏡王女を与えたのです。女性からすればずいぶんと失礼な話ですけれど、多くの妃を持っていること自体がおかしいことなのですし、ここでは、鏡王女の身になって考えてみましょう。
愛されることのない夫よりは愛してくれる人との暮らしの方が幸せです。自分が下賜される。しかも臣下の40男に!一時はムッとしたかもしれませんが鎌足の正妃に迎えられて丁重に扱われ、鏡王女はそこに安息を感じました。しかも、すぐに男のが生まれました。その子が歴史に大きな名前を残した藤原不比等です。

◆不比等の生母が額田王の姉だったことを初めて知ったときは、大きな驚きとともに感動さえしました。そして、これだから歴史はおもしろいと思ったものです。さらに、鏡王女が鎌足に下賜されたときには皮肉なことに妊娠していたというではありませんか。天智は多くの妃にたくさんの子供を産ませましたが、男の子は大友皇子と建皇子と少ないのです。もし、鏡皇女を手放さなかったらあの壬申の乱もずいぶん違ったものになっていたのではないのでしょうか。
 鎌足も知謀権謀にたけた頭のいい人ですが成り上がりの腰の低さが感じられます。しかし、不比等のイメージにはそれがありません。怜悧な頭脳の持ち主である天智の子供であるとするならば納得がいきます。
 そんなわけで鎌足と鏡王女は不比等の誕生を一年以上も世間に隠し続けました。43歳の父と31歳の母でした。 かといって、鏡王女にはどちらの子供か、はっきりわからなかったのではないでしょうか。いえ、それは、もう、どっちでもよかったのでしょう。むしろ、鎌足の子供であって欲しいと思っていたのではないでしょうか。それくらい、幸せだったということです。

神奈備の石瀬の杜の呼子鳥いたくな鳴きそ 吾が恋まさる

 呼子鳥(かっこう)よ、そんなに切なく鳴かないで。私のあの人への恋しさが募るばかりじゃありませんか
蝦夷遠征に行って長く帰らない鎌足を思って作った歌なのでしょうか。

◆鎌足はあまり好きなキャラではなかったのですが、鏡王女を幸せにしてくれたのでかなり好感度があがりました。鏡王女はその後、氷上娘と五百重娘を生んだとの説もあります。その鎌足は56歳、669年の10月16日に風邪をこじらせて亡くなりました。不比等はまだ11歳。「私が死んだら戦がおこるだろうが、決してどちらにも加担してはならない。じっと時を待て」そう言い置いて亡くなったのです。幸いなことに不比等は子供だったので三年後に起こった、かの壬申の乱では出番もなくひっそりと勉学に励むことができたようです。
 こうして人生の後半を世の中の不穏さに巻き込まれることなく静かに送ることができた鏡女王は55歳で静かに人生の幕を下ろしました。妹ほどの美貌も才能もなかったゆえに自らを知って堅実に生きてきた人なのでしょう。お墓は奈良県桜井市忍阪にあります。



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大伯皇女

2014-01-26 | 万葉集

おおくのひめみこ
661~701

天武天皇と大田皇女(天智天皇の娘)の間に生まれました。同母の弟に大津皇子がいます。 母の妹が後の持統天皇ですが、母の大田は持統叔母とは対照的な控えめでやさしい家庭的な人でした。ですから大切に育てられ気だてのいい少女に育ったことでしょう。
 ところが、七歳の時にその母が伝染病でしょうか、あっけなく亡くなってしまいました。大津は五歳でした。その後は、多分、持統の元で育てられたのでしょう。持統には大津より一歳年上の草壁皇子がいました。大津と草壁は何事においても比較されます。しかもすべてにおいて大津の方が評判がよかったので持統は面白くありません。このままでは次期天皇の座も持っていかれるのではないかという危惧が既に生まれていたのかもしれません。
 父の天武はこの姉弟を可愛がってはいたのですが細かいところまでは見えません。
そんな環境の中で育ちましたから、大伯と大津は二人で寄り添って生きていたのでしょう。とても、仲の良い姉弟でした。

 母を亡くしてから五年後に「壬申の乱」が起こりました。これは、天武と天智の皇位継承をめぐる戦いです。天智亡き後、息子の大友皇子が相手でした。大伯はよく遊んでくれた大友さまやその后の十市さまが敵となったことがよくわかりませんでした。
 しかし、天武の皇子である大津はまだ十歳だというのに戦場に駆けつけてそれなりの働きをするのです。そして、この戦いは天武側の勝利となって二人の父は天皇に即位されました。近江の宮はうち捨てられ飛鳥の新宮殿に都が移り、華やかな即位の式典が執り行われます。十市さまも天武のお子ですから可愛い葛野皇子の手を引いて参列されていました。背の君を父上から自害に追い込まれた胸の内を察するとお気の毒でたまりません。大伯は権力争いの恐ろしさが身に沁みました。時折、向けられる持統叔母さまの視線にふと不安を感じることもありました。大津大津こそ次期天皇にふさわしいという声が囁かれ始めていたからです。

 十四歳になると大伯は天武の命によって伊勢神宮の斎王として赴任しました。斎宮制度は天武朝になってできたので、大伯は第一番目の斎王でした。これ以来、この制度は六百年も続くらしいです。仕事は、神に仕える巫女。天皇家の血を引く少女の中から選ばれ、天皇が代わると斎王も交代するというものです。
天武と持統は主な皇子六名を吉野の離宮に集めて兄弟団結して仲良くしていくことを誓わせました。そして、草壁を皇太子とするのですが、二年後には大津を政治に参加させました。出来のい子と良くない子とが出来るのは仕方がないことなのですが、これが、やはり、我が子可愛さの持統には不愉快でなりませんでした。天武は長子の高市皇子を次期天皇に最適だと思ってはいたのですが、母親の出が低かったので諦めていました。ですが、大津は持統の姉の子です。もし、生きておられたら皇后はその大田であった筈。そんなことから周囲の期待も大津に集中するのです。伊勢にいても、そうした噂が入ってくるたびに大伯はどんなにか胸を痛めたことでしょう。飛鳥に帰りたい、大津を守りたい。でも、帰りたいと願うことは父、天武の死を願うことに繋がるのですから悩みはさらに深いのです。

 頭が良くて豪放磊落、漢詩も上手という大津を女人方が放ってはおきません。山辺皇女(天智の娘)を妃に迎え、石川郎女とも恋におちます。仕事に恋に華やかな青春時代が想像されますね。しかし、父の天武が亡くなってしまい、そうした日々に終止符を打つことになります。大津は二十四歳になっていました。父の死によって皇位継承問題が大きな問題として浮上してきました。
 悲劇がその牙を剥きだしたのはその頃からだったでしょうか。当時から占いは盛んでした。もともと、占いは卑弥呼に代表されるように「神の声」を聞くものでした。それが政治の発祥でもあったようです。
 ある時、新羅の僧で行心という者が訪ねてきて大津を褒め称え「あなたさまは天皇にならなければこの世で生きていけないでしょう」と言うのです。多少の不満はあったにしても吉野での盟約もあって大津にはそんな野心はありませんでした。この時までは…。そうなんだ、俺は天皇になるべきだった。だけど、持統はあのお馬鹿な草壁を即位させようとしてる。それでは、まだ若いこの国を正しく導いていくことは出来まい。謀反。それしかない。若いだけに押さえていたものに火を点じられると一直線です。大津は最愛の姉にこのことを相談しようと伊勢に向かって馬を走らせます。

 突然の大津の訪問に大伯は驚きます。表情も尋常ではありません。心配していたことが現実になったことを知ったのです。二人はどんな話をしたのでしょうか。大津は謀反を起こす意志のあることを打ち明けたのでしょうか。それとも、命の危険にさらされていることを訴えたのでしょうか。大伯はきっと止めたり、諭したりしたのではないでしょうか。たった一人の可愛い弟です。生きていて欲しい。涙ながらに訴えたのに違いありません。やがて、夜の闇に紛れて大和へ帰って行く弟を見送らなければなりません…ついに大津を翻意させられなかった悔しさと、もう生きては会えないかもしれないという悲痛な思いで、 大伯皇女は弟の大津皇子を見送ったのです。
我が背子を大和へ遣ると小夜更けて 暁露に我が立ち濡れし

ふたり行けど行き過ぎかたき秋山を いかにか君がひとり越ゆらむ

 この時の心情を謳った大伯の歌です。弟を思いやる気持ちが切なく伝わってきます。

 飛鳥に戻った大津は天智の息子で親友の川島皇子に思いを打ち明けました。最後には天武の敵となって亡くなった天智の息子であれば理解と協力を得られると思ったのでしょうか。 でも、この川島が打ち明けられた翌日に密告してしまいました。そして、大津はただちに捕らえられて、その翌日には死刑を実施されてしまったのです。西暦686年の10月3日のことで、天武が卒してから一ヶ月にも満たない日のことです。なんという早さでしょうか。諸々の情況を考え合わせると、これはもう、あの占い師の訪問からすべてが持統の仕組んだ罠だとしか思えません。急を聞いて大伯が駆けつけた時は既に愛しい弟は冷たい亡骸になっていました。残されていたのは歌が一首。

百伝ふ磐余の池に鳴く鴨を 今日のみ見てや雲隠りなむ


 昨日もおとといも鳴いていた鴨、それがもう見ることが出来なくなる…私はもうこの世にはいられないのです…これを読んだ時の大伯の気持ちはどんなに切なかったことでしょうか。妃の山辺皇女は夫の死刑を聞くと裸足のまま髪を振り乱して死刑場まで走っていって大津のあとを追うように首を吊って亡くなったと伝えられています。

 さすがに夫の愛した息子であり、姉の忘れ形見である大津を謀反に追い込んで殺したことには持統も後味が悪かったのでしょうか。それとも、大罪を犯しても罪を憎んで人を憎まずとばかりの政治的配慮なのでしょうか。三ヶ月もの長期間の殯を行い、丁寧に二上山に葬りました。
同じ年の11月、大伯皇女は斎王としての任を解かれて都へ帰ることになりました。

神風の伊勢の国にもあらましを 何しか来けむ君のあらなくに

 神の国である伊勢に残っている方がよかった…わたしは何のために大和へなどもどって来たのでしょう。愛する弟はもうこの世にいないというのに。

見まくほり我がする君もあらなくに 何しか来けむ馬疲るるに

 逢いたいと思う弟は、もうこの世にはいないのに わたしは何のために都へなど帰ってきたのでしょう。かわいそうに、馬が疲れるだけ。

 二上山は奈良県葛城連峰にある、雌雄二峰に分かれた美しい山で、その雄岳の頂上に大津皇子のものと伝えられるお墓が今もあります。

うつそみの人にある我や 明日よりは二上山を弟背と我れ見む

 現実の世に残された私…明日からは、あの二上山をいとしい弟だと思ってながめることにしましょう。残された大伯皇女は大津皇子が葬られた二上山を眺めては愛する弟を偲んでいたことでしょう。

 大伯皇女はこのあと十五年生きて、大宝元年に四十一歳で亡くなりました。その十五年をどのように生きたのか、このあと史書には名前を見いだすことは出来ないようです。
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額田王

2014-01-24 | 万葉集


ぬかたのおおきみ
635~715
宮廷歌人


 この人も謎の多い歌人で生い立ちに関しては諸説入り乱れていますが、ここでは鏡王女の7歳年下の妹ということで進めていきます。その美貌と才気のために激しく歴史の波に揉まれた一人です。
 舒明称制時代に生を受け皇極、大化、白雉、斉明、天智、天武、朱鳥、持統(中皇命、弘文称制時代も含む)までの80年間を生き抜いてきたのですから、さぞや多くのものを見聞きし、たくさんの別れとも出会ってきた事でしょう。彼女が紫式部のように日記や物語を書き残してくれていればと思います。  
  
       
秋の野のみ草刈り葺き宿れりし宇治の京の仮蘆し思ほゆ


 この歌は「萬葉集」に出てくる額田王の最初の歌です。秋の野で草を刈って屋根を葺いて暮らしていた京の小さな家が懐かしく思われますの意。多分、斉明天皇に仕えて間もない頃の歌でしょう。板葺きの立派な宮殿に住んではいるが育った素朴な家が懐かしい。まことに初々しい宮廷歌人の出発の歌ですね。
 姉の鏡王女が天智の元に入ったので遊びに行って斉明に可愛がられました。可愛いし、歌も上手に作ります。自分の縁続きですからなおのことだったでしょう。ここで、合議のために出入りしていた天武と額田王は恋に落ちました。十七歳の花嫁はみんなに祝福されてとても幸せでした。二人のデートスポットは梅林だったとかで翌年に生まれた姫(十市皇女)を「梅の精から賜ったの」ととても慈しんでいました。夫は豪放磊落で懐も深く鋭利な刃物のような天智とは対照的に心も優しい人でしたので、二人の新婚時代は夢のように過ぎていきました。
 しかし、やがてその大海人も女性遍歴を始め、尼子娘が高市皇子を生みました。十市皇女の二歳下になります。さらに、天智から大田皇女と讃良皇女(のちの持統天皇)の二人の姫を賜りました。兄弟の絆を強める為にということでしょうか。まだあどけない少女でした。いかに天武が額田王を愛していたとしても子供を作るということも任務のような立場にあれば致し方のないことでしょう。額田王はここで少し大人になりました。
しかも、この頃には霊感のようなものを感じ始めていたことや、歌が格段に上達したことなどからいっそう斉明からの声がかかるようになっていました。姉の鏡女王が落ち込んで里方で天智を待つ日々を送っておりで身近かにいなかったこともありましょうか。御幸には必ず同行を求められました。

 歌は神への祈りの一種です。天皇になりかわって歌を奏上する宮廷歌人が誕生したのはいつの頃のことかはわかりませんが、いつしか、額田王はそんな立場になりつつあったのです。乞われて筑紫への百済救済の戦旅にも参加しなければなりませんでした。五歳の十市を残しての船出で、この出兵に反対を唱えた天武は参加を許されない時もありました。

       
熟田津に船乗りせむと月待てば 潮もかなひぬ今は漕ぎいでな


 これはこれから戦地に赴く決意表明と戦意鼓舞のための歌で総指揮官である斉明になりきって歌い上げたものだとされています。満潮の夜になるのを待って斉明が禊ぎの行事をやられたときの作ですね。
 一族みなを引き連れて戦争にいくことはないと思うのですけど、大田皇女が大伯皇女を船の中で生んでいます。
 舳先に立って暗い海面を見つめながら十市のことを思ったのかもしれません。そんな額田王の横に立ったのが天智でした。月の光を浴びた額田王は壮絶な美しさを纏っていました。並の男では声もかけられなかったでしょう。天智は並の男ではありません。「そなたはわたしの元にくるのだ」抑揚のない声で言われてしまうと額田王は抗うことができませんでした。

 中大兄と額田王の関係も多くの学者や好事家たちが探り続けてきた課題の一つです。
 A.完全に後宮の一員。歌人としての誇りから妃の名称は辞退した。
 B.純粋に神の言葉の伝達者、歌人としての職業人としての存在。
 C.弟の嫁であり鏡妃の妹であり、実の妹のように可愛がっていた。
大別するとこのようになります。個人的にはBではないかと思うのですが、天武とは対照的な天智に魔物に魅かれていくように幾夜かは共に過ごしたかのもしれません。それこそ、一体になってこそ聞こえる神の声を聞くために。それは、恋とか愛といった種類のものではなかったのかもしれません。
 いずれにせよ、天武は兄に額田王を奪われてしまいました。残されたのは一人娘の十市皇女です。天武人はこの子だけは守るぞと十市を抱きしめて号泣したかもしれません。十市は尼子郎女に高市皇子と共に大切に育てられます。
 額田王が天智の元に行くとき「天武を皇太弟にすること」「十市を大友皇子の正妃にすること」の二条件を出したのではないかという学者もいます。大友皇子とは中大兄の一人息子のような存在の人です。その要求を呑んだのか、自分の意志なのかはわかりませんが、この二つは実行されています。

鏡王女が鎌足と再婚し、先の天皇が亡くなり、その遺児の有間皇子が絞首刑となり、斉明天皇も亡くなりました。額田王は常に中大兄の傍にいましたからすべてを見聞きしていなければなりませんでした。どんなに惨いことであっても受け止めて、天智のために禊ぎを行い歌を作らなければなりません。
時は流れ、中皇命だった間人皇女の長い喪があけると天智の動きは活発になります。母と妹の埋葬を済ませると新しい都を近江と決めて都人の大移動が始まりました。

       
三輪山をしかも隠すか雲だにも 心あらなも隠そうべしや


 これがそのお引っ越しの時の歌です。といっても、大和の三輪山よ、その山が国境の奈良山で山の間で見えなくなったり道を曲がるたびに隠れてしまったりするのを、何度も振り返って別れを惜しんでいるというのに、人の気も知らないで雲に隠されてはたまったもんじゃない。という意味の長歌に対する反歌で、繰り返し雲だけでもわかっておくれ、三輪山を隠さないでと哀願しているのです。大和の国との別れの切なさが伝わってきませんか。
 琵琶湖の湖畔の新しい宮殿で新しい天皇が誕生しました。天智天皇がついに即位したのです。

 新天皇は中央集権的な国家を作る夢の実現に向かいました。
 ですが、事はなかなか進みません。唐寄りの考えを持つ天武と新羅寄りの意見を持つ天武との意見がことごとく対立するからです。もう、天武はやんちゃな次男坊ではありませんでした。多くの人々が背後について大きな力を持つようになっていたので天智としても彼を無視できなくなってきていました。この二人の間にあって調停役を努めていたのが額田の姉の夫である藤原鎌足です。
 そうそう、遷都して間もなく、端午の節句の日に野外パーティが蒲生野で行われたのでした。パーティといっても男性は鹿狩り、女性は薬草を摘む催しです。とはいえ、殆どお遊びだったのでしょうけれど。
 しかし、これは遷都以来初めて一族や貴族や郎党が一同に顔を合わせるのですから非常に重要な意味のある催しだったのです。男性の衣服は冠の色を着用して髷花(うず)をつけさせたとありますので、女性はその上をゆく思い思いに着飾ってさぞや華やかだったことでしょう。
 天智、天武、それぞれの妃たちとはしゃぐ子供たち…額田王は勿論、十市も大友も高市も大伯も鎌足もいます。男たちは馬上の人となって森の中から鹿を追い出す競技を楽しみ、女と子供たちは優雅に草を摘んでいます。五月の空はどこまでも晴れ渡って…。

       
あかねさす紫野ゆき標野ゆき 野守は見ずや君が袖ふる

       
紫のにほへる妹をにくくあらば 人づま故に吾恋ひめやも


 あまりにも有名な相聞歌ですね。駆け抜けるときに馬上の大海人が額田王に手を振ったのを「そんなことなさっては困りますわ。誰が見てるかわからないじゃないですか」とたしなめたのに対して「美しい人よ、たとえ人妻であってもどうして恋い慕わずにいられようか」と天武が応えたのです。
 この二首にもいろいろな受け取り方があって驚きますが、この主役たち三人の関係の解釈の仕方で変わってくるのは仕方ないことでしょう。私は美しい思い出を交換しあった程度のことではなかったのではと思っています。二人の共通の願いはただ一つ、大友皇子の妻となったばかりの十市皇女の幸せだけだったと考えたいのです。

 蒲生野の一日が幻だったかのように歴史は速度を速めて天智朝の動きがめまぐるしくなります。発端は、天智が大友皇子を太政大臣に任命したことにあります。それは、皇太子に任命したようなもので、鎌足が生きていれば阻止したのでしょうが、彼はその前年に亡くなっていました。太政大臣は天皇の次の位ですから皇太弟としての天武の立場は宙に浮いてしまいましした。
 この時、志半ばにして天智は病いに倒れてしまいます。病いが重くなれば心も弱ってきます。あれほど怜悧冷酷だった天智ですが、今は、やり残したことを大友に引き継いで欲しいばかりです。我が血を継ぐものという思いもあったでしょうが、根本には新羅よりの弟とは政策の違いが大きいことがネックになっていたのではないかと思います。
 臨終のお見舞いに来た天武は天智の殺気を感じていたのでしょう「母上のように姉上(倭姫)を天皇になされませ。私は修行僧になります」と剃髪した頭を見せたのです。そして、そのまま鵜野皇女と共に吉野の山に行ってしまいました。
 でも、誰も天武が僧侶になるなどとは思っていません。間もなく天智が薨じると葬儀もそこそこに戦いの準備が始まりました。世に名高い壬申の乱の幕開けです。

 この近江方対吉野方との戦いは天智と天武の対決でした。天智の代わりは凛々しく若い大友皇子で、天武は完成された大人。しかも多くの人望を集めています。
 額田王は負けることを予想しながらも近江方にいました。十市皇女が大友の正妃として皇子までもうけているので命に代えても守ろうとしたのでしょう。それが、捨てるようなことになった娘への贖罪のつもりだったような気がします。額田王の予想通り、近江方は負け、大友皇子は山科で自害しました。
 さあ、天武の凱旋です。額田王母子はどんな思いで父、元夫を迎えたのでしょうか。天武は都を大和に戻し飛鳥に宮殿を建てました。またも民族の大移動が行われ、近江の宮にはねずみ一匹も残っていなかったとか。五年足らずの短い都だったのですね。

 晴れて天武天皇の誕生です。外交はともかくも兄の天智が目指した律令国家への道を急ぎます。十市皇女母子は天武に引き取られましたが、額田王は「十市の傍にいてやれ」という天武の言葉を辞退して里方に戻りました。天智の元にいた身がどうして天武の傍にいられましょうか。この時、額田王は三十八歳でした。あの戦を境に神の声を聞き取る力もうせていました。天智と共にあってこそ聞こえてきたものだったのかもしれません。
 里に戻れば未亡人になって不比等の養育に日々を送っている姉の鏡王女を屡々訪ねました。そして、鎌足のいとこに当たる中臣大島に求婚され受けました。大島は皇族ではなく臣下になりますが、もう、そんなことはどうでもよかったのでしょう。静かに歌を作って生きていきたいと願っていたのかもしれませんね。今度の夫は大きな愛で額田王を包んでくれました。この後もその大島を始め多くの人を見送り挽歌を作るのですが、あの額田王が晩年は穏やかな幸せを手に入れて八十歳まで生きたということでほっとしませんか?最後に額田王と鏡王女姉妹が相聞のように作った歌をご紹介しましょう。

       
君待つとわが恋ひ居れば我が宿の すだれ動かし秋の風吹く

       
風をだに恋ふるは羨し風をだに 来むとし待たば何か嘆かむ




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間人皇女

2014-01-21 | 万葉集

はしひとのひめみこ
?~665
在位…孝徳645~654…中皇命661~665

 舒明天皇と斉明天皇の間の一人娘です。兄は天智天皇で弟が天武天皇という皇女さまです。生まれたポジションからしてドラマチックな人生を歩むことを宿命付けられていたのでしょう。あの大化改新の折に少女時代を過ごし、国家を統一して律令国家を目指そうと戦っている兄の姿を誇りに思っていたのに違いありません。
中大兄は孤独でした。蘇我一族を滅ぼし皇太子の位置を確実にしたもののこの国の統治者としての地位を確立するまでは誰をも信じることができないのです。それは行く手を阻む者をなぎ倒してきた自分ならではの当然な結果であいましょう。いつ寝首をかかれるかわからないのです。母の斉明天皇は飾りのようなものですし、百済寄りの弟、天武とは激しい意見の対立がありました。民の心も相次ぐ宮殿建築や朝鮮への出兵などで批判的な眼で見ています。そうした四面楚歌の中で唯一心を許せるのは可愛い妹の間人皇女でした。
尊敬がいつしか「愛」となっていた妹と孤高な兄の心は自然に寄り添っていきました。許されない「愛」の形であることは本人たちが一番わかっていたのでしょう。これにも諸説ありますが、ここではプラトニック説で進めていきたいと思います。

君が代も 我が代も知るや磐代(いはしろ)の 岡の草根を いざ結びてな


 あなたの命(さだめ)もわたしの命(さだめ)も知っているでしょう、この神が居られるという岩代の岡の草を、さあ、結びましょうよ。素直な歌ですね。草を結ぶのは旅の無事や将来を祈るおまじないでした。

 間人は母の斉明の弟、つまり叔父にあたる孝徳天皇に嫁ぐことになりました。孝徳天皇は中大兄が滅ぼした蘇我氏寄りの考えを持っていたので、政治的な対立を緩和するために利用されたのです。兄の役に立つのであればと、間人は40歳近くも年上の足の悪い叔父の妻となり后となったのです。
 こんな結婚で幸せになれる筈がありません。白皙怜悧な兄と比べてはいけないとは思うもののこればかりはどうにもなりません。しかも、孝徳には阿部小足媛という愛する人との間に有馬皇子ができていて楽しいマイホームがあるのです。なんとか、愛そうとしてもそこには間人の居場所はありません。孝徳にしても何事も反発し、自分の大事な両大臣を抹殺してしまった甥の天智への不満が募っていますし、肝心の間人の心に住みついてる男ということもあって飾り物にしておくしかなかったのでしょうね。そうなりますと間人が何かにつけて実家に帰る嫁となってしまいます。母や兄の御幸について紀伊の湯などにもお供して宮殿を留守にすることも多かったことでしょう。
 この頃は天皇が代わると新しい宮殿を建てることになっていました。孝徳は新宮殿を難波に造りました。中央政府が移るのですから関係者はみな飛鳥から難波へのお引っ越しをしなければなりません。ですが、この難波の都は整備がやっと整った数年しか持ちませんでした。天智が突然に飛鳥に戻るとみなを引き連れて出ていったのです。勿論、間人も夫を捨てて兄と同行しました。

      
鉗木つけ吾が飼う駒は引き出せず 吾が飼う駒は人見つらむか


 その時、孝徳が作った歌です。私が繋いで飼っている馬は私のいうことをきかず、私の馬を他の人が見てしまったのか。愛のない夫婦であっても、それはないでしょうという場面です。
 天智にすれば政治はやはり飛鳥でなければ不便だったし、孝徳は反対するしで移転を敢行したのです。そして、廃都となる難波に可愛い妹を残して行くわけにはいかなかったのでしょう。残ったのは有間皇子と数人の側近だけとなった孝徳は怒りのあまり退位して失意の中で翌年亡くなりました。59歳でした。その知らせを聞いた時、間人は「これで、あの方も楽におなりになった」と思ったのかもしれません。

 間人にとってはしばしの安らぎの時が訪れたのでしょう。再度、天皇になった母や兄たちにどこにでもお供していました。もしかしたら、宮廷歌人の額田王の輝く才能や兄たちとの眩しいようなラブゲームを目の当たりにして自分も良い歌を作りたいと思ったりもしていたのかもしれません。でも、孝徳帝の遺児の有間皇子が謀反者という濡れ衣を着せられて殺されたときにはさすがに兄に噛みついた事でしょう。なさぬ仲ではありましたが、母として可愛がっていた息子なのです。「後に残る禍根の芽は早めに摘み取っておかねばならぬのだよ。わかっておくれ」兄にやさしい眼で言われると納得してしまう間人でした。
 母の引っ越し好きや兄の百済救済戦などに振り回されながらも間人個人は心の落ち着いた日々を送っていたのですが、やがて、それにも終わりがやってきました。

たまきはる宇智の大野に馬並めて朝踏ますらむその草深野


 朝の宇智の草原を馬を並べて走っていらっしゃるのでしょうね。その深い草の野を。
 表面的にはそれだけの歌ですが、大好きなお兄さまとこうして馬を並べて走っているとなんと朝の空気は清々しいのでしょうか、という喜びが伝わってはきませんか?深い草の野は行く手に待ちかまえている様々なことを示していて、頑張りましょうねという意味も込められてるとのだと思います。

有間皇子が殺された3年後に出兵のために筑紫に向かった船の中で母の斉明天皇が急死しました。そして、一日も天皇不在は許されないということで間人が天皇にされてしまったのです。これも兄の願いでした。弟の天武はこの出兵に反対でしたから参加していませんでした。もしかしたら、この時既に天智の胸中には皇位継承を巡る思惑があったのかもしれません。その点、間人には子供もありませんですし、前々天皇の后、つまり皇太后で前天皇の娘ですからどこからも天皇になることへの異論はありません。ここでも「お兄さまの為でしたら」と中皇命(なかつすめらみこと)となりました。中継ぎの天皇という意味です。いくら名前だけの天皇であってもやはりストレスが溜まったのでしょうか、飛鳥に戻ると病の床についてしまいます。そして、4年後に兄に見守られて息を引き取りました。 天智の悲しみは深く330人を得度させて昼夜を問わず読経させたということです。
 二年後、服喪を終えた天智はやっと天皇の座についたのでした。
 間人皇女はあの世でどんなにかほっとしたことでしょう。
 今も間人皇女は母の斉明天皇と一緒に小市岡上陵に眠っています。

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斉明天皇

2014-01-08 | 万葉集
さいめいてんのう 594~661
在位…皇極642~645…斉明655~661
宝皇女・天豊財重日足姫天皇


 この女帝も解釈され方は幾通りもあるようですが、私は、歴史のうねりの中で揉まれながらしなやかに生きた女性のように思います。
父は敏達天皇の孫の茅淳王で母は吉備姫王。用明天皇に嫁いで漢皇子を生んだのですが、何故か、叔父さんである舒明天皇と再婚させられて皇后となりました。しかも、49歳で夫が亡くなったために天皇にされてしまいました。
 背後には大きな勢力を持つ豪族、蘇我蝦夷がいました。蝦夷は反対勢力であり、正当な皇位継承者である聖徳太子の皇子の山背大兄王にどうしても天皇の位を渡したくなかったのです。
 こうして宝皇女は皇極天皇となったのでした。勿論、実際に政治を操っていたのは蘇我氏だったのでしょう。

 宝皇女(ここではこう呼びましょう)は舒明天皇との間に3人の子供をもうけました。天智天皇と間人皇女に天武天皇です。やがて、この子供たちが歴史の表舞台や裏舞台での華やかな主役になるだろうとは、穏やかで幸せだった結婚生活を送っていた頃の宝皇女には全く予想もつかなかったのでしょうね。
一説によれば蝦夷の息子の入鹿と愛人関係にあったといいますから、そのあたりから天皇になることを承諾したのかもしれません。女心を利用されたのでしょうか。男の心をつなぎ止めるためには仕方なかったと言われれば妙に納得もいきますね。

       山の端にあぢ群騒ぎ行くなれど 我はさぶしゑ君にしあらねば

 山の稜線には飛びまわるあぢ(鳥の名前)の群れがいるし、街には行き交う大勢の人々もいるのに、そのどこにもあなたの姿はない。だから、わたしは寂しくてさびしくてたまらない。
こんな意味でしょうか。可愛がっていた孫の建皇子への挽歌だと解説されているむきもあるのですが、私は愛した入鹿への挽歌ではないかと思ってます。

 西暦645年6月12日、入鹿はこともあろうか、息子の中大兄皇子の剣で殺されたのです。三韓からの貢ぎ物を受け取る儀式が飛鳥板葺宮大極殿で行われているさなかのことで、天皇(宝皇女)の横には摂政のように入鹿が控えていました。息子の剣が入鹿を襲った瞬間、宝皇女は声にならない悲鳴をあげて几帳の後ろに駆け込んだそうです。
 これが有名な「大化改新」の幕開けでした。この背後にも権力を巡る陰謀が渦巻いていました。
 天皇までも抱き込んだ実質的な為政者とも言える蘇我一族に対する反対勢力が天智を焚きつけて入鹿暗殺に踏み切ったのです。天智が鎌足の陰謀に乗ったのは、母が入鹿の皇子でも生んだら自分の皇位が危うくなるのではとの思いがあったからではないかという見方をする人もいます。
そうしたことを焚きつけた首謀者は藤原鎌足です。この後、鎌足は長く天智、天武兄弟の知恵袋として己の勢力も強めていきます。
 こんな大事件があったので宝皇女は天皇の位を弟に譲りました。孝徳天皇です。孝徳帝は都を難波に移しました。
 これで宝皇女は月日が穏やかに流れるかのように思われましたが、水面下では様々な陰謀が渦巻いていました。でも、そんなことは宝皇女にはあまり関心のないことではなかったのでしょうか。


       飛鳥河漲ひつつ行く水の 間も無くも思ほゆるかも

 この歌は文字通り飛鳥川は今日も元気に絶え間なく流れているけれど、その水のように私の思いはつきない、という意味でしょう。ここでの「思い」とはなんでしょうね。

 天智にも多くの后がいたのですが、遠智娘との間に生まれた建皇子が聾でした。宝皇女はこの孫が不憫でならず手元で育てていたのです。その一方で、頭を悩ませていたのが天智と間人の関係でした。
この時代は純血主義傾向があったので近親結婚も多く、両親のどちらかが違えばきょうだいでも結婚することが許されていました。でも、両親が同じきょうだいの結婚はさすがにタブーだったのです。間人皇女は可愛い一人娘で今は孝徳天皇の后になっています。でも、子供はいません。間人の心は兄のところにあって形だけの后だったのです。
 ところが突然、おかあさんやおばあちゃんとしての生活が断たれてしまいます。孝徳帝と対立した天智がみんなを引き連れて大和、飛鳥へと行ってしまったのです。難波に一人残された孝徳帝はどんなに悔しかったでしょうか。まもなく亡くなってしまいました。この孝徳帝の忘れ形見があの有馬皇子です。
 さあ、そこで、またまた、天皇になってくれと天智が言ってきました。「いやですよ。もう、天皇になるのはこりごり」と言ったかどうか、二人の息子に頼まれて再度天皇になりました。これを重祚といいます。斉明天皇の誕生です。

 重祚した宝皇女は中大兄の傀儡ではありましたが、皇極時代とは違ってかなり多忙になったようです。国の基礎作りのために励む息子たちへの協力を余儀なくされたのでしょう。658年にはついに建皇子が8歳で亡くなってしまいましたが、その悲しみに浸る間もなく宮殿造営や、唐に攻められている百済の助っ人として戦に参加のため航路をはるばる筑紫(九州)までも同行しなければなりませんでした。そして、その戦いのさなかに急逝してしまうのです。享年68歳でした。
 なんとまあ、多忙で複雑な人生だったことでしょう。飛鳥板葺宮が火災で全焼してからは三つも四つも宮殿造営を敢行し、しなくてもいい戦争に参加などで人民の反感も多く受けていたようです。
でも、この方の本質は良妻賢母だったのではなかったのでしょうか。天皇にされてしまったばかりに息子たちの為政への非難が集中してきたのでしょう。そして、それをすべて老い先短い我が身に受け止めた母性の人というイメージを受けます。


        山越えて海渡るともおもしろき 今城の中は忘らゆまじし

 今城は建皇子の墓所がある場所です。どこに行ってもどんなに景色が美しくてもおまえと居た日々が一番楽しくて、決して片時も忘れることはできない、と歌っています。建皇子は 宝皇女にとってかけがえのない宝だったのですね。本当に、やさしいおばあちゃま。それが斉明天皇だったのでしょう。




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