…小式部内侍…(997?~1025)
大江山いくのの道の遠ければまだふみも見ず天の橋立
小式部は女房三十六歌仙の一人。21番の歌の作者、和泉式部の娘で父は橘道貞です。
小式部が生まれて間もなく和泉式部が離婚した為に祖父母の元で育てられました。
恋多き和泉式部は幾つもの恋人との別れた後に藤原道真に乞われてその娘である彰子中宮に仕えるようになりました。小式部は十二歳くらいになると母に引き取られて共に中宮に仕えることになりました。母、和泉式部の美貌を受け継いだ小式部も宮廷では多くの若き公達の心を捕らえ、母と同じように恋多き知的な女性にと育っていきました。
最初の恋人は堀河右大臣頼宗だったようですが、やがて、その弟の二条関白藤原教通と恋仲になって男の子を(のちの静円)を生みました。その後、藤原範永との間に女の子を生みました。万寿二年(1025)十一月には藤原公成の子(のちの頼忍阿闍梨)を出産しました。
母から受け継いだのは美しさだけではありません。歌の才能も受け継いで宮廷歌壇でも注目されていました。そんなことで、多少はやっかみもあったのかもしれませんが、小式部の歌は和泉式部に作ってもらってるのではないか、というような噂が囁かれていました。
ある時、歌合わせ(歌会)が開催されることになりました。母の和泉式部は藤原保昌という官吏と再婚して、任地の丹後で暮らしていました。
歌会の数日前の夜、恋人の歌人でもある藤原定頼が小式部の部屋に尋ねてきました。そして冗談半分に「お歌はもうできました?丹後へは便りを出されたのでしょう?お返事はまだですか?お母上がいらっしゃらないとさぞや、心細くていらっしゃるでしょうね」と言われました。その時に小式部が即座に作って返したのが60番のこの歌です。
…母がいます丹後は大江山や生野の山々を越えて、天橋立もありまして遙かに遠い所ですから、私もまだ行けないでいますし、母の手紙もまだ届いておりません…
言外に母に代作など頼んでおりません!と小気味よく主張しています。
この歌の評価はかなり高く「彼女は即答でこれだけの歌を作ったんだよ」と定頼が自慢げに吹聴したことですっかり有名になったそうです。踏みに文をかけ、行くに生野をかけ、丹後への道中にあるゆかりの名所を読み込み、しかも、母への想いも伝わってくるのです。
美しく才気溢れ、多くの恋をした小式部でしたが、藤原公成の子を生んだ後に産後の肥立ちが悪くて亡くなってしまいます。まだ、26、7歳の若さでした。母の和泉式部の悲しみはどんなにか深かったことでしょう。
とどめおきて誰を哀れと思ふらむ 子はまさりけり子はまさるらむ
という歌などの娘の死を悲しむ歌が幾首も『和泉式部集』に残されています。この歌には「小式部内侍みまかりて、むまご(孫)どもの侍るのを見て」という詞書がつけられています。
小式部には家集がありませんが、もっと長く生きていればどんなにか素晴らしい歌の数々を残してくれたことでしょう。小式部を可愛がっていた彰子中宮もその死を悼んで小式部の衣で経文の表紙を作らせられ、それがまた和泉式部の涙を誘ったのでした。
小式部は女房三十六歌仙の一人。21番の歌の作者、和泉式部の娘で父は橘道貞です。
小式部が生まれて間もなく和泉式部が離婚した為に祖父母の元で育てられました。
恋多き和泉式部は幾つもの恋人との別れた後に藤原道真に乞われてその娘である彰子中宮に仕えるようになりました。小式部は十二歳くらいになると母に引き取られて共に中宮に仕えることになりました。母、和泉式部の美貌を受け継いだ小式部も宮廷では多くの若き公達の心を捕らえ、母と同じように恋多き知的な女性にと育っていきました。
最初の恋人は堀河右大臣頼宗だったようですが、やがて、その弟の二条関白藤原教通と恋仲になって男の子を(のちの静円)を生みました。その後、藤原範永との間に女の子を生みました。万寿二年(1025)十一月には藤原公成の子(のちの頼忍阿闍梨)を出産しました。
母から受け継いだのは美しさだけではありません。歌の才能も受け継いで宮廷歌壇でも注目されていました。そんなことで、多少はやっかみもあったのかもしれませんが、小式部の歌は和泉式部に作ってもらってるのではないか、というような噂が囁かれていました。
ある時、歌合わせ(歌会)が開催されることになりました。母の和泉式部は藤原保昌という官吏と再婚して、任地の丹後で暮らしていました。
歌会の数日前の夜、恋人の歌人でもある藤原定頼が小式部の部屋に尋ねてきました。そして冗談半分に「お歌はもうできました?丹後へは便りを出されたのでしょう?お返事はまだですか?お母上がいらっしゃらないとさぞや、心細くていらっしゃるでしょうね」と言われました。その時に小式部が即座に作って返したのが60番のこの歌です。
…母がいます丹後は大江山や生野の山々を越えて、天橋立もありまして遙かに遠い所ですから、私もまだ行けないでいますし、母の手紙もまだ届いておりません…
言外に母に代作など頼んでおりません!と小気味よく主張しています。
この歌の評価はかなり高く「彼女は即答でこれだけの歌を作ったんだよ」と定頼が自慢げに吹聴したことですっかり有名になったそうです。踏みに文をかけ、行くに生野をかけ、丹後への道中にあるゆかりの名所を読み込み、しかも、母への想いも伝わってくるのです。
美しく才気溢れ、多くの恋をした小式部でしたが、藤原公成の子を生んだ後に産後の肥立ちが悪くて亡くなってしまいます。まだ、26、7歳の若さでした。母の和泉式部の悲しみはどんなにか深かったことでしょう。
という歌などの娘の死を悲しむ歌が幾首も『和泉式部集』に残されています。この歌には「小式部内侍みまかりて、むまご(孫)どもの侍るのを見て」という詞書がつけられています。
小式部には家集がありませんが、もっと長く生きていればどんなにか素晴らしい歌の数々を残してくれたことでしょう。小式部を可愛がっていた彰子中宮もその死を悼んで小式部の衣で経文の表紙を作らせられ、それがまた和泉式部の涙を誘ったのでした。