小梅日記

主として幕末紀州藩の学問所塾頭の妻、川合小梅が明治十八年まで綴った日記を紐解く
できれば旅日記も。

金子みすゞ  終わりに

2014-04-11 | 金子みすゞ
金子みすゞの短い生涯を駆け足でめぐってきました。
最後に下関の「上山文英堂」の店員としてやってきた日と自殺する日に写真店で撮影したみすゞの写真を掲載します。

         

また、これら(ここにはその一部ですが)を素に書いた脚本に飛べるようにしました。
よければお読みくだされば幸いです。「みすゞ哀歌」



参考文献&写真
「金子みすゞ全集」(JULA出版局)
「金子みすゞの生涯」(矢崎節夫著・JULA出版局)
文藝別冊「総特集金子みすゞ」(河出書房新社)
「金子みすゞ」「金子みすゞと女性たち」(江古田文学)
その他
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みすゞと男たち  詩人・西条八十

2014-04-07 | 金子みすゞ
 西条八十は有名な詩人。
 明治二十五年、東京、牛込生まれ。早稲田大学英文科卒業。大正八年に詩集「砂金」、翌年には訳詩集「白孔雀」を出版して詩人として認められる。貧乏詩人で盲目の母との二人暮らしだったが、春子と結婚し、母校の英文科講師となり、フランス留学後には仏文科教授となり、ようやく生活が安定した。
 このフランス留学の時期がみすゞの投稿作品が選ばれなくなった時に当たる。鈴木三重吉らの童謡運動にも参加して、多くの童謡詩を作り童謡誌「童話」の選者でもあった。その芸術性は北原白秋と並び称された。
 だが、昭和以降は「東京行進曲」「青い山脈」など、主に流行歌の作詩に転向して芸術的には見るべきものを残していないが、莫大な財は築いた。

 テルが詩を書き始めたのは八十の詩に触れて自分と同じ臭いを感じたからのようだが、確かに当時の八十の世界観の多くがテルの内部と共通するものが感じられる。テルは八十のような詩が書きたいと思い精力的に八十が選者を務めている雑誌に投稿を始めた。
 テルの詩はたちまち八十の琴線に触れ入選、特選を重ねていった。八十にしても同じ匂いのする新進詩人の登場は嬉しかったのだろう。というより、無意識に近い感覚で選んでしまっていたのではなかろうか。詩の上に於ける肉親のような感覚だ。 筆まめなテルはその都度礼状を書き更に精進に励む。

 そんな構図の中で八十が渡仏し、その間にテルの事情も大きく変化する。結婚である。
 八十が帰国した頃は啓喜と正祐の確執でテルの周囲はもめ事が多く詩を書くどころではなかったのではないか。
 夫婦で文英堂を出て出産。ようやく、テルが作詩の世界に戻っていけると思った矢先「童話」が廃刊となった。テルは投稿場所を失ったが八十の強い推薦のおかげで「童謡詩人会」の入会が認められるという朗報が舞い込んだ。「大漁」と「お魚」の二編が「日本童謡集1926版」に著名な詩人たちの詩と共に掲載されもした。
実生活の暗さに反してなんと輝かしい世界であろうか。

 八十は「童話」が廃刊になってから「愛誦」という雑誌を主宰し始め、テルの詩は度々誌面を賑わした。何通もの手紙が八十の元に届いたことだろう。一度でもお会いしたいという思いも伝えていたのだろうか。
 八十は九州へ講演に行く途中、連絡船に乗る待ち時間を利用してみすゞに会ってみようと時刻を知らせた。編集者も一緒だったのだろうし、時間は僅かしかなかった。

★(前略)私は予め打電しておいたが、夕ぐれ下関駅に下りてみると、プラットフォームにそれらしい影は一向見あたらなかった。時間をもたぬし私は懸命に構内を探し回った。やうやくそこの仄暗い一隅に、人目を憚るように佇んでいる彼女を見いだしたのだったが、彼女は一見二二、三歳に見える女性でとりつくろはぬ蓬髪に不断着の儘、背には一二歳のわが子を負っていた。
作品に於いては英のクリスティナ・ロゼッテ女史に遜らぬ華やかな幻想を示してゐたこの若い女詩人は、初印象に於いては、そこらの裏町の小さな商店の内儀のやうであった。しかし、彼女の容貌は端麗で、その眼は黒曜石のやうに深く輝いてゐた。「お目にかかりたさに山を越えてまゐりました。これからまた山を越えて家へ戻ります」と彼女は言った。(後略)…『蝋人形』昭和六年九月号「下関の一夜」より…★

 みすゞは手紙と違って寡黙だったらしい。多分、八十は地方の良家の娘か若奥様を想像していたのだろう。自殺を知ったのちの文章でありながら、初見での落胆ぶりをこの文章から感じるのはおかしいだろうか。

 みすゞは自分の詩集を出版することを、実は、熱望していた。
 八十も協力しようというようなことを言っていたのかもしれない。しかし、一部でしか知られていない詩人の詩集を出版したところで営業的には無理なこと。出版社も利潤を追求する企業なのだから仕方ない。結局は八十も苦労してかき集めたお金で処女詩集を出版に漕ぎつけたように自費出版か買い取る契約しか方法はなかったと思う。
 八十も協力しようというようなことを言っていたのかもしれない。しかし、一部でしか知られていない詩人の詩集を出版したところで営業的には無理なこと。出版社も利潤を追求する企業なのだから仕方ない。結局は八十も苦労してかき集めたお金で処女詩集を出版に漕ぎつけたように自費出版か買い取る契約しか方法はなかったと思う。
 下関でみすゞに会った八十は詩集の出版は無理だと判断したのだろう。前書きや推薦文はいくらでも書く用意はあったが、私財を投じてまで協力する気はなかったのではないか。だから、下関駅で会った翌々年に手書きの三冊の詩集が送られてきてもあまり気にとめなかった。「金子みすゞの生涯」の著者の矢崎氏が八十の娘さんに家捜しをして貰ったが出てはこなかった。
 遺書代わりとも考えられるその三冊の詩集を八十はどう受け取ったのだろうか。
先に引用した「下関の一夜」を書いたとき(それはみすゞの死から一年半後のこと)その詩集は八十の傍にあったのだろうか…。

 昭和四十五年八月没。享年七十八歳。

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