2024 10月20日 (日曜日) ② 晴れ 風あり
~~~~~~~~~~~~~~~~~
自治会毎の秋のゴミ0運動が行われた。当自治会は9時から開始。
当班は水路脇の草が毎年良く伸びてきて邪魔になるので
毎回、役員のIさんが草刈り機で刈ってくれる。今まで鎌での草取りであったから随分楽だ。
今日は風があってやりずらい。
〇刈られた雑草を数人で、班長さんが用意してくれた90L厚手のポリ袋に詰める。
約1時間ほどで終了。
庶務のTさんが除草作業の写真撮りに来てくれた。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
周囲の景色も変わった。北の方向の畑もすっかり稲も刈られている。
ツバキの木も花芽を小さく膨らませてきた。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
〇午後から防災策定委員会の会合。大詰めである。
ようやく皆の努力で冊子の全体像が見えてきた。
挿入絵が読みたくなるのでいいかも・・。
内容の概要説明を終えて冊子つくりに入るが、市の防災委員会の審査を経て
1月には印刷に入れるとリーダがいっている。
熊谷市の地域範囲を図で見ると
個人的にはゴジラの逃げ去る後ろ姿に見える。
その中の小さいエリア自分たちの連合自治会だ、1400世帯ある。
3000人以上が住んでいる計算だ。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
〇夕方群馬のリンゴをいただく。
もうそんな時期になったなあ・・暑かったのに・・・なあ
===============================
中國新聞デジタルのコラム
戦争と子どもたち
========
広島への原爆投下で傷ついた人たち。
カメラを向けたが、ファインダーが涙で曇ってしまった。
何とかシャッターを切って貴重な写真を残した。
そのカメラマン故松重美人(よしと)さんも、写せなかった場面があった。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
▲終戦の約2カ月後、親元を離れて県北に疎開していた子どもたちが帰ってきた。
迎えにきた家族と大喜びする仲間を傍らで数人がぼうぜんと眺めている。
一家全滅で迎えは来ない。ほとんど無言で、すすり泣く子も。痛まし過ぎて撮影できなかった
==============================
▲疎開しなかった子どもにも容赦なく、原爆は牙をむいた。
特に、防火のための建物解体に駆り出されていた中高生たち
6千近い命が奪われた。
生き残っても、放射線に襲われる。
白血病で倒れた子どもは佐々木禎子さんだけではない!
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
▲原爆は軍事施設でなく、街の真ん中を目がけて落とされた。
犠牲者の多くが子どもや女性といった社会的に弱い立場の者だったのも当然だ。
未来も奪われてしまう子どもたちこそ、戦争の最大の犠牲者なのではないか
=======================
▲戦場となったウクライナやガザのどこかで今も、
多くの子どもたちが血や涙を流していることだろう。
曇りなき目で見る限り、そんな姿がくっきり見えるはずだ。
=============================
~~~~~~~~~~~~~~~~~
自治会毎の秋のゴミ0運動が行われた。当自治会は9時から開始。
当班は水路脇の草が毎年良く伸びてきて邪魔になるので
毎回、役員のIさんが草刈り機で刈ってくれる。今まで鎌での草取りであったから随分楽だ。
今日は風があってやりずらい。
〇刈られた雑草を数人で、班長さんが用意してくれた90L厚手のポリ袋に詰める。
約1時間ほどで終了。
庶務のTさんが除草作業の写真撮りに来てくれた。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
周囲の景色も変わった。北の方向の畑もすっかり稲も刈られている。
ツバキの木も花芽を小さく膨らませてきた。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
〇午後から防災策定委員会の会合。大詰めである。
ようやく皆の努力で冊子の全体像が見えてきた。
挿入絵が読みたくなるのでいいかも・・。
内容の概要説明を終えて冊子つくりに入るが、市の防災委員会の審査を経て
1月には印刷に入れるとリーダがいっている。
熊谷市の地域範囲を図で見ると
個人的にはゴジラの逃げ去る後ろ姿に見える。
その中の小さいエリア自分たちの連合自治会だ、1400世帯ある。
3000人以上が住んでいる計算だ。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
〇夕方群馬のリンゴをいただく。
もうそんな時期になったなあ・・暑かったのに・・・なあ
===============================
中國新聞デジタルのコラム
戦争と子どもたち
========
広島への原爆投下で傷ついた人たち。
カメラを向けたが、ファインダーが涙で曇ってしまった。
何とかシャッターを切って貴重な写真を残した。
そのカメラマン故松重美人(よしと)さんも、写せなかった場面があった。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
▲終戦の約2カ月後、親元を離れて県北に疎開していた子どもたちが帰ってきた。
迎えにきた家族と大喜びする仲間を傍らで数人がぼうぜんと眺めている。
一家全滅で迎えは来ない。ほとんど無言で、すすり泣く子も。痛まし過ぎて撮影できなかった
==============================
▲疎開しなかった子どもにも容赦なく、原爆は牙をむいた。
特に、防火のための建物解体に駆り出されていた中高生たち
6千近い命が奪われた。
生き残っても、放射線に襲われる。
白血病で倒れた子どもは佐々木禎子さんだけではない!
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
▲原爆は軍事施設でなく、街の真ん中を目がけて落とされた。
犠牲者の多くが子どもや女性といった社会的に弱い立場の者だったのも当然だ。
未来も奪われてしまう子どもたちこそ、戦争の最大の犠牲者なのではないか
=======================
▲戦場となったウクライナやガザのどこかで今も、
多くの子どもたちが血や涙を流していることだろう。
曇りなき目で見る限り、そんな姿がくっきり見えるはずだ。
=============================