慢性疾患の身体とこころのメカニズム
――こころの葛藤と身体症状との関係――
以前に書いたものですが、今までは診療所の外来に来た人だけに配っていましたが、診療がなくなったので、載せました。コピー、配布は自由。金銭的利益目的でない限りです。私の著作はすべてそうです。知識はすべての人のためのものですから。
これは、アレクサンダー・ミッチャーリヒの「葛藤としての病」と「心身症」から、一部をとり、私の考えをまじえて解説したものです。いかに臨床医学が進歩していないかを痛感しています。昔の書が、未だに臨床の場で参考になるものですから。現代医学は、すぐ人文社会学的見地を離れて、肉体を切り刻み、神経経路はどうかとか、からだのどこの部分が問題かということにすり替えています。人間総体を、つまり心を持ち、肉体としてのからだを持ち、それが社会的に左右される存在である人間を見ていないのです。
私は、世界的にはネオ・ヒポクラテス学派と呼ばれる考え方の医学理論、病因論を取っています。少なくとも難病の治療には役立ちませんが、臨床の場の最前線にいる開業医諸氏に役立てば幸いです。こころの持ち方を変えることによって、病気が治ったり、予防できたりします。特に初期ですと進行を止められます。
慢性疾患の身体とこころのメカニズム
--こころの葛藤と身体の症状との関係--
1) フランツ・アレクサンダーの器質的疾患患者における、無意識過程の心身症的力動の区分
--病因となる葛藤
1.外的な制止に基づく外的葛藤
2.摂取された制止、即ち、超自我反応に基づく構造的葛藤
3.同時に存在する対立した衝動の不一致に基づく葛藤
このことは不当な外的制止を発見して、それを和らげると、速やかに、比較的たやすく、嘔吐、腹部疝痛、喘息等の子どもの身体症状を取除くことに、しばしば成功する。
構造葛藤がない人は―― 一時的に病気にかかり、その後、自分に解放と感じられるような、葛藤解消の決定が起こって、再び、健康に戻るのである。
精神的なものが身体的警告状態へ移動し、しかも危機は克服されていない場合、病気の慢性化が起きる。
神経症症状が先行し、身体的障害の発生と共に消失し、患者の自己意識の中で意味を持たなくなる。しかし、治療によって身体症状を軽減したり、排除したりすると、今度は神経症的適応障害が新たに起こるのである。
慢性の病気も急性期があった筈である。
2)心身症の慢性化の四つの前提 (ミッチャーリヒ)
①慢性心身症はもっぱら神経症的適応障害(既往歴がある)から起こってくる。
自我の統制出来ない情動的苦境と葛藤による<心的平衡>の慢性的障害が、慢性の重圧(ストレス)の前堤条件となり、このストレスにより身体症状が慢性化する。
②この様な原因の慢性症状は退行という情動の再身体化が起こっている。
③現実的あるいは空想的対象喪失が喚起者として作用する。しかもこの神経症的適応を部分的にしろ、固定するのを促進する。
④希望喪失と寄辺なさは現実的なものでなく、投影によるものである。
疾病による生物機能の喪失には、一定の現実の喪失が対応し、そしてこの現実の喪失には、患者の体験の鍵となる意味が対応する。機能の喪失と対象の喪失は関連して現われる。
エンジェルは「寄辺ない状態と希望喪失状態は、器質的過程を発展させる精神生物的前提である。」という仮設をたてる。
3)フロイトの原因となる契機の3つのカテゴリー
① 条件--遺伝発生的要因
②特異的原因--早期発達段階で情緒的苦境、葛藤、その克服の試みへの固着が起こり、それによって精神生物的成熟の障害が起こる。など・・・
③競合的あるいは補助的原因
4)葛藤としての病
病気は常に不自由を作り、能力範囲を狭める。
しかし1つの面での不自由によって他の面での自由が可能となる。
病歴を調べることによって病気を起こす原因となった動因について盲点が存在していること、即ち、認識が盲目化されていることを知る。
子どもは衝動要求の力に従って生きている。そして子どもはその存在によって、その成長によって喜びを与えるものであるが、子どもは両親の世話や配慮、忍耐を必要とする。
病気の子どもを持つある母親に、彼女の無意識のうちに存在している。子どもを寄せつけない感情を洞察させ、その自覚によってそのような態度を克服することに成功させると、その子どもの嘔吐や発疹、夜泣き等は、それまでの物質的な看護を何ら変えることなしに消失したのである。子どもは、大人がその態度や表情を直すように、病気や症状を引っ込めることができるのである。
各種器官の機能障害は、その人間が直接あるいは間接に暗号的に知らせる伝達の言語であり、それらは象徴的に情報を伝えているのである。
精神と身体は一体である。
実現されえない1つの意図のもとで緊張が続いていると、生物学的な統合にも崩壊が起こる。・・・慢性的な疾患には慢性的な感情の変調が先行している。
同じ情動的負荷が持続して繰返される場合に、反応刺激のイキ値は、たいていは下がり、いろいろ些細なことが気分を熱するようになる。そしてある特定の葛藤領域における僅かな負荷に対してもアレルギーになる。感情に結びついている身体の準備態勢はもはや平静ではいられなくなり、再度中庸状態に調節することができなくなって緊張状態を保つことになる。
5)人が病気になると
一般的には人は病気になると、誰かに助けを求め、依存的になる。それは長い間「病気になったら、家族の看護を受け、医者にかかって薬を貰い、治してもらう。」という発想が社会(世界)全体にはびこっているからである。但し、昔は、鼻水などは病気の内に入らなかったのに今では先進国では病気に扱われているように、国や地域、その土地によって病気の概念に違いがあるのですが。
昔読んだ「シートンの動物記」には、インディアンたちは病気やけがに対して自分で治すこころを持っていた。たった一人で行動している時に誰も頼る人はいないから、必然的にそうせざるをえなかったのだと思う。
現代の先進諸国ではもうそんな人は珍しいのではないでしょうか。発展途上国でさえ、金がないからとか、医者がいないからとか、病院がないからとか、理屈をつけてあきらめているものの、やはり医療に期待し、医療や看護を受けるのが当然と思い、受けられない時にはがっかりしているのである。
だが期待される程には、医療は人間と病気との闘いで有効な武器になっていないのである。
でも大抵の人は、もちろん医師も含めて、医療が有効だと信じている。
ところが有効なのは、病気の人がその医者にかかって勇気づけられ、自分で病気に立ち向っていく時なのである。
人が病気になった時に、それがインフルエンザや下痢症などの急性の病気の場合には余り関心を払わない。早く治らないかなと思う位である。現代人は必ず治ると信じて疑わないからである。
6)こころの葛藤の悪循環
所が腎臓病や心臓病、膠原病それに気管支喘息に代表されるアレルギー性の病気などの慢性の病気だったり、がんや悪性の病気だった時には、人は全く別の反応をする。
慢性の病気と知ってもうだめだとか、治らないと思い込み、既に病気との闘いを始める前から気持の上で負けてしまい、がんなどでは最悪の場合は生きる望みを失ってしまうことすらある。人間は社会的存在であり、こころで生きる生物であるから、生きる意欲を失ったらまず死は確実である。そうでなくても病気と闘う意欲を失うと治りにくくなるし、時には治療にも拘らず進行したりする。
そうでなくとも多くの人は、少なくとも病気を嫌悪し、あたかも病気という異物が自分の身体に入り込んできたという気持になる。所がそれは「近代医学の壁」で明らかにされたように何も外から病気(細菌やウィルス)が入ってきただけでなる訳ではない。
でもそうと分っていても、「どうしてこんな因果な病気になったのだろう。なぜ治らないのだろう。」と思って、医者を替えてみたり、それでもよくならないと、「何か難しい病気の様でもう一生治らないのかなあ。ああ嫌な病気だなあ。」と思う。
しかし実は病気は人間が環境に適応出来ない為になるのであって、外から来た訳ではないので、「嫌だ」と嫌っているのは、実は健康であった時の自分が、病気になった自分を嫌っているのである。だから「いやだ」と思えば思う程、自分のこころの中で、無意識の過程の中で、葛藤が起こり、病気を悪化させていく。
病気になったのは自分であり、自らの身体とこころが病んでいるのだから、それを治すには「いやになってしまう」と思うことではなく、自分の身体とこころをなだめすかして、病気の状態から少しずつ病気を脱する方向へ進めていくことである。私は「病気と上手に付きあって下さい。」と説明しているが、その方が分りやすいようである。
その技術は医師が提供するから、できるだけ専門医、特に腕の良い医師にかかるように勧める。ところが日本の専門医や学会認定医はあてにならない科がほとんどだから、「腕の良い医師を知っていることも、医者の腕のうち」と私は考えている。
しかし専門医だけでも決してうまくいかないことがある。専門医たちは自分の腕=技術だけで病気を治せると信じているから、治らないのはまだ医学が未熟な為か、病人が医者の注意を守らない為だと考えているからである。病気の人のこころや社会的な面を見ていない。専門医からは病気のうちの身体の部分を治す技術を学ぶしかない。それ以上を求められない。心の面の治療には、精神科医ではなく、心療内科医にかかるのが望ましいが、心療内科医は少なくなかなか見つけられない。もちろん心療内科医の役割を果たしてくれる精神科医も少数ではあるが存在する。
そしてあなたの身体の病気を受入れてあげて下さい。日常生活が支障なければ良いと、病気と一緒に暮していきましょう。悪くなったらどうしようと思ったら悪くなるから、そう思った時にはすぐ別の楽しい事を考えて頭の中を楽しいことで一杯にして下さい。でもすぐあの嫌な危険な考えはいつの間にか頭の中に浮んでくる。折角追払ってもすぐまた頭の中に入って来る。でも負けずにまた他の楽しいことを考えよう。考えることがない時はセックスのことを考えるのが最後の手段という(但し、良いセックスを経験したことのない人には判らない)。
たったこれだけのことがうまくできるようになるのに、上手な人でも2~3ヵ月かかる。一生出来ない人もいる。でもそのことが分った人は半分治ったようなものです。
あなたとあなたの病気とのつきあいがうまく行くことは、丁度結核菌を持っていながら発病していない人、即ち、ツベルクリン陽性の人と同じである。あなたの身体のどこかが病気になっているのであって、別に疫病神が入って病気になったのではなく、自分の身体が病んでいるのだから、嫌わずいたわってあげて下さい。そうすれば丁度駄太っ子をなだめる様なものだから、次第に穏やかになり、その内に、静かになる。でも病気は完全に治った訳ではない。でも日常生活が普通に送れるなら良いと考えて生きて行こう。
病気にかかったら、先ずいいとか嫌とか感情で反応しないで、冷静に客観的に自分の身体の病気を見つめ、どこがどのように具合が悪く、病気になっているのかを見る。痛い時には「ああ自分の身体の○○が痛がっているなあ」と考えて見よう。それ以上考えを進めてはいけない。そこで止めるのがよい。
「痛い=いやだ」と反応すればする程痛みが耐えられなくなる。痛みは文化的なものだから、民族や個人によって異なる。楽しい痛みは耐えられる。お産の時の陣痛など、いやなもの、苦しいものと考えなければ、我慢できることも少なくない。また楽しいことを考えている時は痛みを忘れていることもある。だから痛みを受け入れ、いやとか苦しいと反応せず、同化するのが良い。なかなか習練が必要である。ヨーガの行者が針のむしろに座っているのを本で見たことがあるが、やはり痛みを感じるのだが我慢できるし、怪我をしない。
それから病気にかかった時に決して悪いことを考えてはいけない。悪くなると考えれば、本当に悪くなることが多い。自己暗示によって、病気が悪くなるから、「良くなる、良くなる」と良い方向に自己暗示をかけよう。それによって病気はよくなる。ブルックス・クーエの自己暗示による治療はその一例である。
例えば心臓病の場合には現実に死に至ることがある為に、どうしてももしかして心臓が止ってしまうのではないかと言う不安が浮ぶと、ますます具合が悪くなる。そして心臓の具合はどうだろうかと神経を心臓に集中させる程、動悸がひどくなったり、脈が不整になったり、息苦しくなったり、心臓の状態も悪くなるものである。
その時に心臓のことから考えを別のこと出来れば楽しいことに移すと、次第に症状が和らぐことが多い。その時に医者がついていて脈を取ったり、心電図を採ったりして、「大丈夫ですよ、そんなに心配することはありません。」というだけで、病人がその気になって「もう安心だ」と思うと病気は良くなっていく。バリントはそれを「医者くすり」という。医者は側にいるだけで患者は安心し、薬の役割を果たす。
自律訓練法という一種の自己暗示法があるが、その1つに心臓の動きを自分でコントロールする方法がある。実際に心臓の動きを早くしたり遅くしたりできるのである。その為には神経を集中させ過ぎてもだめで、精神をリラックスさせて、なんとなく心臓の動きをゆっくり整えるように考える。あせるとできない。とにかく心臓の動きや呼吸数、皮膚の熱感など自律神経系による不随意の働きと云われてきたものが、自分のこころの暗示でコントロールできる。ですから悪くなるのではないかと自分に暗示してはいけません。
昔中学時代の頃から日本の忍者に興味を持ってきた。忍者のいろいろな術のほとんどは幼いころからのトレーニングによって上達する。その中の一つに呼吸を止め、心臓の拍動を止め、脈をとられた時に死んでいると思わせる術があるのだが自律訓練法の極致もそれである。ただ仏教での荒行と同じく、死に到ることもあるという。
別に心臓病でなくても同じである。どんな病気でも「悪くなったらどうしよう」と考えてはいけない。「ケセラセラ。なるようになる。」と楽観的に考えること。
顔が赤くなるとか、身体に湿疹ができるのも同じである。またできるのだろうと自分で自己暗示をかけ、わざわざ病気を作っているのです。でもその段階ではなかなか悪循環から抜け出せません。思ってはいけないと思う程、そのことに頭が一杯になってしまい、そのことから頭が離れられなくなってしまうからである。そうしてますます悪くなってしまう。
気管支喘息やすべてのアレルギー性の病気も、膠原病も、心筋梗塞も脳卒中もがんも皆同じである。
遺伝子病や染色体異常は母親が妊娠する時に悩んだり、身体の状態が悪いと確率が高くなる。
皆自分のこころが病気を作っている。いや、社会の不安がそうさせるのである。だから現代では医学が進歩するのと病気が増えるのとでは、病気が増えるスピードが早く、医療費の増加を抑える為に脳死で判定して医療を打ち切ろうとしている。
しかし本当は今の社会の在り方を変えた方が遥かに早い。それだけで病人は大幅に減るが、今の支配階層には都合が悪くなるので決してそうならないでしょう。
アレルギー性の病気や肝炎が北欧諸国で少ないのも、民族の差ではなく、社会の仕組みまたは在り方の違いからと考える。
心療内科の池見酉次郎は、アレルギー疾患の心理的脱監査療法を実施し、9割を治癒に導き、残りも軽症化させている。私も、子どものアレルギー疾患なら治せるし、大人でも軽症化することはできる。その方法は説得療法と暗示療法である。
――こころの葛藤と身体症状との関係――
以前に書いたものですが、今までは診療所の外来に来た人だけに配っていましたが、診療がなくなったので、載せました。コピー、配布は自由。金銭的利益目的でない限りです。私の著作はすべてそうです。知識はすべての人のためのものですから。
これは、アレクサンダー・ミッチャーリヒの「葛藤としての病」と「心身症」から、一部をとり、私の考えをまじえて解説したものです。いかに臨床医学が進歩していないかを痛感しています。昔の書が、未だに臨床の場で参考になるものですから。現代医学は、すぐ人文社会学的見地を離れて、肉体を切り刻み、神経経路はどうかとか、からだのどこの部分が問題かということにすり替えています。人間総体を、つまり心を持ち、肉体としてのからだを持ち、それが社会的に左右される存在である人間を見ていないのです。
私は、世界的にはネオ・ヒポクラテス学派と呼ばれる考え方の医学理論、病因論を取っています。少なくとも難病の治療には役立ちませんが、臨床の場の最前線にいる開業医諸氏に役立てば幸いです。こころの持ち方を変えることによって、病気が治ったり、予防できたりします。特に初期ですと進行を止められます。
慢性疾患の身体とこころのメカニズム
--こころの葛藤と身体の症状との関係--
1) フランツ・アレクサンダーの器質的疾患患者における、無意識過程の心身症的力動の区分
--病因となる葛藤
1.外的な制止に基づく外的葛藤
2.摂取された制止、即ち、超自我反応に基づく構造的葛藤
3.同時に存在する対立した衝動の不一致に基づく葛藤
このことは不当な外的制止を発見して、それを和らげると、速やかに、比較的たやすく、嘔吐、腹部疝痛、喘息等の子どもの身体症状を取除くことに、しばしば成功する。
構造葛藤がない人は―― 一時的に病気にかかり、その後、自分に解放と感じられるような、葛藤解消の決定が起こって、再び、健康に戻るのである。
精神的なものが身体的警告状態へ移動し、しかも危機は克服されていない場合、病気の慢性化が起きる。
神経症症状が先行し、身体的障害の発生と共に消失し、患者の自己意識の中で意味を持たなくなる。しかし、治療によって身体症状を軽減したり、排除したりすると、今度は神経症的適応障害が新たに起こるのである。
慢性の病気も急性期があった筈である。
2)心身症の慢性化の四つの前提 (ミッチャーリヒ)
①慢性心身症はもっぱら神経症的適応障害(既往歴がある)から起こってくる。
自我の統制出来ない情動的苦境と葛藤による<心的平衡>の慢性的障害が、慢性の重圧(ストレス)の前堤条件となり、このストレスにより身体症状が慢性化する。
②この様な原因の慢性症状は退行という情動の再身体化が起こっている。
③現実的あるいは空想的対象喪失が喚起者として作用する。しかもこの神経症的適応を部分的にしろ、固定するのを促進する。
④希望喪失と寄辺なさは現実的なものでなく、投影によるものである。
疾病による生物機能の喪失には、一定の現実の喪失が対応し、そしてこの現実の喪失には、患者の体験の鍵となる意味が対応する。機能の喪失と対象の喪失は関連して現われる。
エンジェルは「寄辺ない状態と希望喪失状態は、器質的過程を発展させる精神生物的前提である。」という仮設をたてる。
3)フロイトの原因となる契機の3つのカテゴリー
① 条件--遺伝発生的要因
②特異的原因--早期発達段階で情緒的苦境、葛藤、その克服の試みへの固着が起こり、それによって精神生物的成熟の障害が起こる。など・・・
③競合的あるいは補助的原因
4)葛藤としての病
病気は常に不自由を作り、能力範囲を狭める。
しかし1つの面での不自由によって他の面での自由が可能となる。
病歴を調べることによって病気を起こす原因となった動因について盲点が存在していること、即ち、認識が盲目化されていることを知る。
子どもは衝動要求の力に従って生きている。そして子どもはその存在によって、その成長によって喜びを与えるものであるが、子どもは両親の世話や配慮、忍耐を必要とする。
病気の子どもを持つある母親に、彼女の無意識のうちに存在している。子どもを寄せつけない感情を洞察させ、その自覚によってそのような態度を克服することに成功させると、その子どもの嘔吐や発疹、夜泣き等は、それまでの物質的な看護を何ら変えることなしに消失したのである。子どもは、大人がその態度や表情を直すように、病気や症状を引っ込めることができるのである。
各種器官の機能障害は、その人間が直接あるいは間接に暗号的に知らせる伝達の言語であり、それらは象徴的に情報を伝えているのである。
精神と身体は一体である。
実現されえない1つの意図のもとで緊張が続いていると、生物学的な統合にも崩壊が起こる。・・・慢性的な疾患には慢性的な感情の変調が先行している。
同じ情動的負荷が持続して繰返される場合に、反応刺激のイキ値は、たいていは下がり、いろいろ些細なことが気分を熱するようになる。そしてある特定の葛藤領域における僅かな負荷に対してもアレルギーになる。感情に結びついている身体の準備態勢はもはや平静ではいられなくなり、再度中庸状態に調節することができなくなって緊張状態を保つことになる。
5)人が病気になると
一般的には人は病気になると、誰かに助けを求め、依存的になる。それは長い間「病気になったら、家族の看護を受け、医者にかかって薬を貰い、治してもらう。」という発想が社会(世界)全体にはびこっているからである。但し、昔は、鼻水などは病気の内に入らなかったのに今では先進国では病気に扱われているように、国や地域、その土地によって病気の概念に違いがあるのですが。
昔読んだ「シートンの動物記」には、インディアンたちは病気やけがに対して自分で治すこころを持っていた。たった一人で行動している時に誰も頼る人はいないから、必然的にそうせざるをえなかったのだと思う。
現代の先進諸国ではもうそんな人は珍しいのではないでしょうか。発展途上国でさえ、金がないからとか、医者がいないからとか、病院がないからとか、理屈をつけてあきらめているものの、やはり医療に期待し、医療や看護を受けるのが当然と思い、受けられない時にはがっかりしているのである。
だが期待される程には、医療は人間と病気との闘いで有効な武器になっていないのである。
でも大抵の人は、もちろん医師も含めて、医療が有効だと信じている。
ところが有効なのは、病気の人がその医者にかかって勇気づけられ、自分で病気に立ち向っていく時なのである。
人が病気になった時に、それがインフルエンザや下痢症などの急性の病気の場合には余り関心を払わない。早く治らないかなと思う位である。現代人は必ず治ると信じて疑わないからである。
6)こころの葛藤の悪循環
所が腎臓病や心臓病、膠原病それに気管支喘息に代表されるアレルギー性の病気などの慢性の病気だったり、がんや悪性の病気だった時には、人は全く別の反応をする。
慢性の病気と知ってもうだめだとか、治らないと思い込み、既に病気との闘いを始める前から気持の上で負けてしまい、がんなどでは最悪の場合は生きる望みを失ってしまうことすらある。人間は社会的存在であり、こころで生きる生物であるから、生きる意欲を失ったらまず死は確実である。そうでなくても病気と闘う意欲を失うと治りにくくなるし、時には治療にも拘らず進行したりする。
そうでなくとも多くの人は、少なくとも病気を嫌悪し、あたかも病気という異物が自分の身体に入り込んできたという気持になる。所がそれは「近代医学の壁」で明らかにされたように何も外から病気(細菌やウィルス)が入ってきただけでなる訳ではない。
でもそうと分っていても、「どうしてこんな因果な病気になったのだろう。なぜ治らないのだろう。」と思って、医者を替えてみたり、それでもよくならないと、「何か難しい病気の様でもう一生治らないのかなあ。ああ嫌な病気だなあ。」と思う。
しかし実は病気は人間が環境に適応出来ない為になるのであって、外から来た訳ではないので、「嫌だ」と嫌っているのは、実は健康であった時の自分が、病気になった自分を嫌っているのである。だから「いやだ」と思えば思う程、自分のこころの中で、無意識の過程の中で、葛藤が起こり、病気を悪化させていく。
病気になったのは自分であり、自らの身体とこころが病んでいるのだから、それを治すには「いやになってしまう」と思うことではなく、自分の身体とこころをなだめすかして、病気の状態から少しずつ病気を脱する方向へ進めていくことである。私は「病気と上手に付きあって下さい。」と説明しているが、その方が分りやすいようである。
その技術は医師が提供するから、できるだけ専門医、特に腕の良い医師にかかるように勧める。ところが日本の専門医や学会認定医はあてにならない科がほとんどだから、「腕の良い医師を知っていることも、医者の腕のうち」と私は考えている。
しかし専門医だけでも決してうまくいかないことがある。専門医たちは自分の腕=技術だけで病気を治せると信じているから、治らないのはまだ医学が未熟な為か、病人が医者の注意を守らない為だと考えているからである。病気の人のこころや社会的な面を見ていない。専門医からは病気のうちの身体の部分を治す技術を学ぶしかない。それ以上を求められない。心の面の治療には、精神科医ではなく、心療内科医にかかるのが望ましいが、心療内科医は少なくなかなか見つけられない。もちろん心療内科医の役割を果たしてくれる精神科医も少数ではあるが存在する。
そしてあなたの身体の病気を受入れてあげて下さい。日常生活が支障なければ良いと、病気と一緒に暮していきましょう。悪くなったらどうしようと思ったら悪くなるから、そう思った時にはすぐ別の楽しい事を考えて頭の中を楽しいことで一杯にして下さい。でもすぐあの嫌な危険な考えはいつの間にか頭の中に浮んでくる。折角追払ってもすぐまた頭の中に入って来る。でも負けずにまた他の楽しいことを考えよう。考えることがない時はセックスのことを考えるのが最後の手段という(但し、良いセックスを経験したことのない人には判らない)。
たったこれだけのことがうまくできるようになるのに、上手な人でも2~3ヵ月かかる。一生出来ない人もいる。でもそのことが分った人は半分治ったようなものです。
あなたとあなたの病気とのつきあいがうまく行くことは、丁度結核菌を持っていながら発病していない人、即ち、ツベルクリン陽性の人と同じである。あなたの身体のどこかが病気になっているのであって、別に疫病神が入って病気になったのではなく、自分の身体が病んでいるのだから、嫌わずいたわってあげて下さい。そうすれば丁度駄太っ子をなだめる様なものだから、次第に穏やかになり、その内に、静かになる。でも病気は完全に治った訳ではない。でも日常生活が普通に送れるなら良いと考えて生きて行こう。
病気にかかったら、先ずいいとか嫌とか感情で反応しないで、冷静に客観的に自分の身体の病気を見つめ、どこがどのように具合が悪く、病気になっているのかを見る。痛い時には「ああ自分の身体の○○が痛がっているなあ」と考えて見よう。それ以上考えを進めてはいけない。そこで止めるのがよい。
「痛い=いやだ」と反応すればする程痛みが耐えられなくなる。痛みは文化的なものだから、民族や個人によって異なる。楽しい痛みは耐えられる。お産の時の陣痛など、いやなもの、苦しいものと考えなければ、我慢できることも少なくない。また楽しいことを考えている時は痛みを忘れていることもある。だから痛みを受け入れ、いやとか苦しいと反応せず、同化するのが良い。なかなか習練が必要である。ヨーガの行者が針のむしろに座っているのを本で見たことがあるが、やはり痛みを感じるのだが我慢できるし、怪我をしない。
それから病気にかかった時に決して悪いことを考えてはいけない。悪くなると考えれば、本当に悪くなることが多い。自己暗示によって、病気が悪くなるから、「良くなる、良くなる」と良い方向に自己暗示をかけよう。それによって病気はよくなる。ブルックス・クーエの自己暗示による治療はその一例である。
例えば心臓病の場合には現実に死に至ることがある為に、どうしてももしかして心臓が止ってしまうのではないかと言う不安が浮ぶと、ますます具合が悪くなる。そして心臓の具合はどうだろうかと神経を心臓に集中させる程、動悸がひどくなったり、脈が不整になったり、息苦しくなったり、心臓の状態も悪くなるものである。
その時に心臓のことから考えを別のこと出来れば楽しいことに移すと、次第に症状が和らぐことが多い。その時に医者がついていて脈を取ったり、心電図を採ったりして、「大丈夫ですよ、そんなに心配することはありません。」というだけで、病人がその気になって「もう安心だ」と思うと病気は良くなっていく。バリントはそれを「医者くすり」という。医者は側にいるだけで患者は安心し、薬の役割を果たす。
自律訓練法という一種の自己暗示法があるが、その1つに心臓の動きを自分でコントロールする方法がある。実際に心臓の動きを早くしたり遅くしたりできるのである。その為には神経を集中させ過ぎてもだめで、精神をリラックスさせて、なんとなく心臓の動きをゆっくり整えるように考える。あせるとできない。とにかく心臓の動きや呼吸数、皮膚の熱感など自律神経系による不随意の働きと云われてきたものが、自分のこころの暗示でコントロールできる。ですから悪くなるのではないかと自分に暗示してはいけません。
昔中学時代の頃から日本の忍者に興味を持ってきた。忍者のいろいろな術のほとんどは幼いころからのトレーニングによって上達する。その中の一つに呼吸を止め、心臓の拍動を止め、脈をとられた時に死んでいると思わせる術があるのだが自律訓練法の極致もそれである。ただ仏教での荒行と同じく、死に到ることもあるという。
別に心臓病でなくても同じである。どんな病気でも「悪くなったらどうしよう」と考えてはいけない。「ケセラセラ。なるようになる。」と楽観的に考えること。
顔が赤くなるとか、身体に湿疹ができるのも同じである。またできるのだろうと自分で自己暗示をかけ、わざわざ病気を作っているのです。でもその段階ではなかなか悪循環から抜け出せません。思ってはいけないと思う程、そのことに頭が一杯になってしまい、そのことから頭が離れられなくなってしまうからである。そうしてますます悪くなってしまう。
気管支喘息やすべてのアレルギー性の病気も、膠原病も、心筋梗塞も脳卒中もがんも皆同じである。
遺伝子病や染色体異常は母親が妊娠する時に悩んだり、身体の状態が悪いと確率が高くなる。
皆自分のこころが病気を作っている。いや、社会の不安がそうさせるのである。だから現代では医学が進歩するのと病気が増えるのとでは、病気が増えるスピードが早く、医療費の増加を抑える為に脳死で判定して医療を打ち切ろうとしている。
しかし本当は今の社会の在り方を変えた方が遥かに早い。それだけで病人は大幅に減るが、今の支配階層には都合が悪くなるので決してそうならないでしょう。
アレルギー性の病気や肝炎が北欧諸国で少ないのも、民族の差ではなく、社会の仕組みまたは在り方の違いからと考える。
心療内科の池見酉次郎は、アレルギー疾患の心理的脱監査療法を実施し、9割を治癒に導き、残りも軽症化させている。私も、子どものアレルギー疾患なら治せるし、大人でも軽症化することはできる。その方法は説得療法と暗示療法である。