『二十面相娘』を観ていて、不意にそんな事を思う。昔の未来と今の未来。正確には、
「昔に描かれた未来」
「現代に、描かれる未来」
あるいは、「描かれた」を「望まれた」あるいは「描かれる」を「望まれる」と変えても良い。
かつて、30年~50年前に描かれた未来が現代であり、時間は流れ行き、この瞬間がある。
『二十面相娘』の時代は、どうやら戦後の昭和全盛期とも言える時が舞台である。正確な年月は解らない。
しかし、その当時を生き抜いて来た人々が、心のどこかで想い願った「未来」はあったと思う。
考えてみると、『鉄腕アトム』に『ドラえもん』と呼ばれる作品には、「未来への理想に希望、そして想い」が込められていた様に思う。2作品ともに、「未来」が孕む話であるのは言うまでもない。 今から30年から50年前というと、戦争の闇を払拭する為に人々が再生に向かい手を手を携えた時代に何故か思えてしまう。「未来」というビジョンはそこには案外なかったのかも知れないが、「先へ先へ」と進んでいた様に思うし、「皆で豊かになろう」にも似た「未来への希望と意志」があったように思え、進んだように思う。
ところが今はどうなんだろうか? 「未来」に対しての、「不安げな想い」しか無いよう見えるのは、単純に私自身に夢も希望も無いから…なんだろうか? 皆で手を掴み、横ならびになって繋がり、力強く、先々進む時代から、「個々で前へ」という形になり、もはや「横並びはありえない」という形になっているように見えるのも単なる錯覚なんだろうか?
私は他の誰より「協調性」には欠けるので、横並びで先々手を取って進み行くのは難しく辛い話であるが、「未来」という時を、「豊か」にあるいは「希望を抱ける」というのは、「1人1人の意志」は要だがそれ以上に「横に並び手を取り合う」という姿が、重要に思うがいつしか、
「誰かを蹴落として先々進み行く先に未来がある」
と言う事になってしまったようで、「不安を更に煽る」結果になっているように思う。 「未来」は「誰かひとりだけの物にもなれば、それぞれが関わらないと創られない物」でもある事がいつしか忘れされている様にも思う。
こんな話を声を嗄して言っても説得力にはかけるだろうし、「お前には見えない未来しかないんだ」的な視線で見られてしまうのは、口惜しい所だが、未来とはその様な側面もあるように思えたので形にしてみたのだが、形しても状況は変わらない。