涼風鈴子「はい、おはよーございますぅ。さて、今日は“Happy Monday”ですね。嬉しいですかぁーー?と訊くと8割り程度は嬉しそうですが、物事には例外があるのがつきものです。厄介なものですね、と台本には書いてあります、つまりは、管理人ヘタレソツネイラには、ブルーマンデーだよ、とこう言う事です。以上、“Morning on”でしたー」
あんまり桜の花に切なさをのせたくはないのだが、画像は3年半前に赴いた場所で撮影した物。場所は生まれて初めて行った森林公園である。
この話の画像を探している時に、不意に見つけたのがこの桜を撮影した日に撮影した電車の画像だったのだが、それを掲載するのはしのびないので、あえて、儚さを含むものを選定した次第。
欠けてはならないと言う話をここでしたのだが、この日までの約4年の歳月は、確かに、欠けてならない存在の中に私も含まれていたのかな、と思う。とは言え、本心はどうもそうではなかったと言う事をこの日の最後になって知ることになる。必然的だったんだろうな、と思う。
色々上滑りしたような調整や馬鹿に興奮したり調子に乗った頃で、今以上に人間的に未熟でハチャメチャな頃であったのだが、これで良かったと淋しくなったなと言う気持ちが合わさっている。最終的には、全てをぶっこわし、私は、友知人のひとりも居ない状況を作り出してしまう。誰一人欠けてはならない、誰一人欠かしてはならない、と言う本筋をぶっ壊した所だが、今さら、淋しくなりましたから許してくれ、と言われても…と言うのが周囲の反応だろうと私は思うし、私自身、とりたてて、よりを戻そうと言う気もない。これで良い、これが選んだ選択で間違いない、とファンのシンガーの“Don't forget”よろしくであるけれど、そう思う。
繋がり、誰かに飢えていた頃があったとは、今にして見れば信じられない話であるがそれは今と言う結末を見たからだろうと思う。所詮、私には誰かと趣味を共有し関係を維持する事が出来ないことがわかったことと何にしてものめり込み半端な状況下では、どうにもならない。故に、私は淋しくも「ひとり」と言う選択をするより他はなく、それが自他に迷惑をかけないやり方であることも解ってきた。
反省の色なしで悲しいかな状態であるが、散る桜残る桜も散る桜で、私がひとりと言う淋しさから解放する為に咲かした「桜」の花は、その言葉通り見事全てが散り行き、敗北者に転落したような今になってしまったけれど、年齢を減る毎に、他人よりも自分が日々生きていく事で手一杯になっていく姿をみた事で、趣味の世界は所詮、オマケでしかなく、それぞれの毎日で手一杯である事に気付かずに、かまってくれ、繋がりをもってくれ、と騒いでいた私は単なる馬鹿でしかなく、騒いだあげくに「何か違う」、「もはや限界」を感じて、自らを繋いだ線を切り裂くと言うあり得ない自作自演劇、いい加減にしやがれ、と言う所である。だが、何にしても、私と言う存在はそこまで必要とされていなかった事が解ったのは最近の事で、繋がりも欠け甲斐もないもあったものではないなと言う現実を知れただけでも進歩したと言えようか?いや言えないだろう。
3年半経過してもそれぞれの日々に終わりはなく今も続いていると思われるけれど、もはや消したくても消えない記憶。幸せだった、とりあえず。でも、それは所詮、かりそめの上っ面だけの妄想だったのだろう。全ては儚くも散らし、葉さえもない枯れ木こそが今の私である。大風が吹けば簡単に倒れる大木に2度と花は咲かない。
10月になって新しい深夜アニメの放映が開始されている昨今。
そんな中で、先月まで観ていた深夜アニメ『アクセルワールド』、『ココロコネクト』を観てみて改めて思ったのは、以前の『君と僕』同様に、
「登場人物の誰一人として欠けてはならない」
と言う事がうったえられていたように感じた。昨年の震災の影響もあるのだと思うのだが。
誰一人欠けてはならない、それを最初に感じたと言うかそんな事を知るきっかけは、ファンのシンガーの話だったのだが、私もそんな中にかつていた事があっただろうか?と思い出してみれば、答えは「ノー」で、そんな物語の様には行かなかった現実って怖いわ…と思う。
誰一人欠けてもならない、全て揃って全員揃って話が成り立つ、と言う背景には、全員が仲良くて和気あいあいとしていることが前提となるが、かなり大事な所であり、ある意味では当たり前過ぎて忘れてしまう事のが多いのかなと思う。なくしてみて気づくみたいな。
私なんぞは、お前が居ると面倒だ、お前が集団の輪を乱しているんだ、居なくなれ、と言われ続けた口である。だからこそ、こんな風に誰一人欠けてもならない、と言う物語に憧れをもつのかも知れない。そんな世界に行ってみたい、戻ってみたい、と言う気持ちはあるがそんな場所はどこにもないだろう。
誰かと共にある、ましてやそれが三人以上とかに成ってくると苦しくなってくる気がする。現実はどうも人間関係に泥つくものがある。そんな環境ばかり歩いてきたのでよく解るのだが、美しい絵に描いた餅は、所詮2次元か創られた世界の話でしか無いんだろう。
世の中、誰一人欠けるな、よりも、誰かひとり欠けてくれよ、ばかりな気がしてならないのは、私がそんな道を歩いてきたからなんだろう。だがしかし、本来は、誰一人欠けてはならないからこそひとりひとりを大事にするのが論理だろうが、私にはひとりひとりを大事にする力はない。そんな所から語って良い話ではないのだろうけれど、語りたくなってしまった。