読書日記 嘉壽家堂 アネックス

読んだ本の感想を中心に、ひごろ思っていることをあれこれと綴っています。

ローマ人の物語32-迷走する帝国(上)- 塩野七生

2009-03-14 22:57:07 | 読んだ
読もう読もうとしてずっと積んでいた3巻をやっと読み始めた。

ローマ人の物語も3世紀に入った。
皇帝は「カラカラ」、ローマの遺跡でも名高い「カラカラ浴場」のカラカラである。

ローマの三世紀は「危機の三世紀」だそうである。
しかもその「危機」とはそれ以前のものと違うと著者は言う。

「克服することのできた危機と、対応に追われるだけで終始せざるを得なかった危機のちがい」

その危機について描いている。

ローマの皇帝は「世襲制」ではない。
非常に乱暴な説明をすると「民衆から選ばれた者が立候補し元老院で承認される」という形である。

この民衆というのは主にローマの軍団兵である。
なので、選ばれる人というのは主に軍団の長である場合が多い。
そして、三世紀の危機というのが「外因」もあったが、内因としては「政局不安定」つまり皇帝が次々に代わるということもあった。
何やら今の日本に似てはいないだろうか。

カラカラはローマの基本的な事柄を変えた。それは一見非常にすばらしい政策であったが、実は内部崩壊をもたらす政策だった。

カラカラ以前のローマ市民は「選ばれた人」であった。なので身分格差があったのである。「属州民」とか「奴隷」という身分がローマ市民とは別にあった。
そのうち属州民にローマ市民権を与え「平等」にしたのである。

そもそもローマ帝国はローマ市民権を持つものによって成り立っていた。
そしてローマ市民権とは頑張れば得られるものであったし、市民権を持っているものの義務も他の身分とは差別的にあった。
つまり「権利」も「義務」も差別的にあった。

だからローマ市民権を得ようと努力する人もいたのである。
それが一律平等に市民権が与えられると失われてしまったのである。
「取得権」が「既得権」になったと筆者は言う。
そして「市民権」の魅力が失われた。

「平等」というのは既得権として与えられるものではないのだろうか?
おなじく「福祉」というものも既得権ではないと考える。

今の日本の現状は「平等」や「福祉」の概念が違っているように、本書を読んで考えたのである。

イソップ寓話の「アリとキリギリス」の話は働くものと働かざるものの報いであるが、今の日本の平等と福祉はキリギリスさえも救おうとしている。
そんなことを思ったのである。

そしてそういう平等と福祉は国民の活力を失うのではないだろうか。


カラカラ以降の皇帝たちも無能ではなかった、無能ではなかったから皇帝になったのである。しかし、皇帝になってからの危機管理が不十分であった。それはやっぱりそれまでの危機とは違う危機だったからのである。

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