「第14回このミステリーがすごい!」大賞、優秀賞受賞作
である。
野球を題材としてミステリー、とのこと。
評判、そして解説には「読みにくい」とある。
実際読みにくい。
この形、まあ冒険というか大いなる試みというか、複雑でねじれている。
こういう形が「うける」かといえば、受けないと思われるが、もしかしたら一部で熱狂的に支持されるのではないだろうか。
で、私としては熱狂的には支持しない。
まず、この物語の主人公(プロ野球の一流投手で下手投げ=サブマリン)が『K・M』という仮名で表示される。
これ、なんというか面倒くさいね。
そして、語り手が次々と変化する。
この物語の構造は、物語を描いた「わたし」は、K・Mと親しかった野球記者にして作家そして日本プロ野球協会の記録管理室主事の芹澤真一郎からK・Mについて描けと指示される。
多くの資料は芹澤が持っている。そして芹澤は死んだ。
「わたし」は、資料等を基に物語を描くのだが、この物語の語り手は次々と変化する。
この構造と語り手の多さ、そして語り手が多いことによる視点の多さというのが、読みづらい、ということになっているのだと思う。
付け加えて、語り手の語りが明確かというと、なんだかよくわからない、ものが多い。
つまり、K・Mについて語りながら、その語り手の今の状況や過去の物語が重なるので、なお散漫というか拡散というかしてしまう。
「そういうところがいいんだ!」
という人がいるのもわかる。
わかるけどなあ、というのが私のスタンス。
物語の中心は簡単である。
プロ野球の名投手K・Mが八百長疑惑を受けて1988年春季キャンプ中に34歳で自殺した。
この自殺の原因は何か?
多くの人の話をつなぎ合わせ、まずは八百長などしていないことを証明し、それならばなぜ自殺したのか、ということを解き明かすこと、そしてK・Mの復権を図る。
これが、『わたし』に与えらえた使命。
『わたし』は、資料並びにインタビューで解き明かそうとしていく。
ただ、その描き方が面倒くさいというか『わたし』の各種事情があるので、読み手が混乱する。
その辺を許すというか我慢して読み継いでいくと、だんだん「筋」が明らかになり、「謎」の解明へいたる道も見えてくる。
まあ、野球を題材にしたミステリーといえばそうだと思うが、そうでもないような気もした。
結末は「ふーん」というか「えっ、そんな」というか「なにそれ」と思うか、人それぞれだと思うが、私は「なんかなあ」というカンジ。
最後に、パッと謎が解き明かされる・・・
んー、どうも「パッと」ではないようなカンジが私にはする。
私としては、例えば過去に何かがあったとしても、どこかで誰かが回避できたのではないか、という形、必然ではあっても別な道がある、というようなものが「謎」にあってほしい。
『一直線に必然』というのは、どうも、なんだか、いやいや、という思いである。
読み終えた後に「もやもや」が残るのは許す。でも、その「もやもや」があまり暗すぎると、いかがなものか、と思うのである。
この作品の読後は「ふーん、そうだったの」と軽く流せない。「ひっかけられた」と笑えない。
『新しい形』と言われれば「私はもう古いので」というしかない。
そういう意味では「面白い」