「中野京子」という名前は、オール読物に連載されていたものから知っていた。
ただ、オール読物では白黒印刷なので、せっかくの名画がよくわからないというところがあって、進んでそして興味深くは読まなかった。
ただ『面白い』とは思っていた。
その連載をきっかけに本屋で文庫本が出始めたころから「どうしようかなあ」と思っていたのである。
面白そうなんだけど、私の興味の先ではなかった。
なにしろ、絵画の作家の名前がカタカナで、カタカナ苦手の私は、そのあたりで躓いていたのだ。
それに、ギリシャ神話や聖書の話、さらにはヨーロッパの歴史というのが、これまたカタカナだらけで・・・
それでも、塩野七生の「ローマ人の物語」あたりから、その苦手意識が少し収まってきて、なんというか生意気ながら「中野京子、読んでやってもいい」という気持ちになってきたのである。
というわけで、手始めに「怖い絵」(角川文庫)を読んでみたら、「スゴイ!」とただひたすら「スゴイ!」と思った。
こういう「歴史」の読み方があるのか、こういう「人間学」があるのか、なるほど、なるほど。
だったのである。
その後、怖い絵-泣く女篇-(角川文庫)
名画の謎-ギリシャ神話篇-(文春文庫)
「怖い絵」で人間を読む(NHK出版新書)
と、ゆっくり読んできた。
ゆっくりというのは、パソコン等で紹介された絵画を大きくしてみるからである。
絵画の説明に「右上には・・・」とか「左下の遠いところにはかすかに・・・」などという表現があるが、文庫本では見えない。
ゆえに、大きなものを見るのだ。
じっくり、ゆっくりと中野京子を読んでいるうちに、美術館へ行って鑑賞をすると、この絵の背景にある物語とは?
などと考えてしまうようになった。
そんなことから、東京で行われた「クラーナハ展」に、ポスターを見ただけで行ってしまったのだ。
たぶん、以前ならあのポスターを見ては興味をそそられることもなかっただろう。
さて、そんな中、本書「全国な王と悲しみの王妃」は絵画についての説明はあるものの、歴史読物になっている。
「昔」というものは理解不可能なもの、そしてその理解不可能なものの上に現代の我々がいる。
ということを、読みながら考える。
未来の人々は我々を理解不能なものとしてとらえるんだろうなあ、と思う。
つまりは、今の基準で過去を裁いて弾劾することはできない、できるのは過ち(現代基準)を繰り返さないこと、だと。
本書に登場する(紹介されている)人物たちの強烈な個性には、ただただ圧倒される。
中野京子の著作は、描かれたものの説明、描かれたものの背景があり、続いて描いた者たちの人生というのがあって、それが複雑に入り組んでいるので、面倒くさいところもあるのだ。
でもね、その面倒くささが「いい」のだ。
それにしても、画家たちはなぜ悲惨な光景、奇妙な光景、そして想像する変な光景を描くのか?
我々人間が持っていて隠している「残酷性」「被虐性」のようなものを暴こうとしているのか?
芸術というものは「人」をどう捉えるのかということなのだろうか。
捉えたものを真っすぐに表すことが「罪」となり「罰」を受けるのであれば、それをどうごまかして表現するのか、それが芸術に携わる人の能力なのかもしれない。
現代では「芸人」と名乗る人たちが、まっすぐに表現している。
まっすぐでなければ受け止めることのできない観客のためなのか。
ひねってひねって、さらにひねることによって「芸」というものが出来上がるとしたら、現代には「人」を捉えて表現する「芸術」などないのかもしれない。
そんなことを思ってしまった。
今後も中野京子の著作は読んでいきたいと思っている。
ちなみにオール読物では現在「中野京子の 運命の絵」が連載中である。