30年修行されている男性と、
言われたように持ち歩いています。
友人が亡くなって…
男性が車の運転をして、私が助手席に座り、
後ろに二人男女が座っている。
車は宙を飛び、山々を駆け巡り、田んぼや畑の様子を見たり、
人々が生活している町の上を飛んでいました。
少しずつ天に昇って行くのがわかり、
でも自分は今ではない、とどこかで抵抗していました。
少し焦っていたような感覚の夢でしたね。
目覚めると首元にびっしり汗をかいていて、暑かったのかしら?とタオルで拭きとり、
夢に出てきた人は誰かしら?と思いながらスマホを見ると、
20年来のお友達の女性から着信があり、
え?と思い、でもまだ早朝なので、と遠慮して、8時過ぎに電話をしようとすると彼女から電話が来て
「Aさんが昨夜亡くなったのよ」と。
え!と驚くところなのですが、私は電話の彼女に
「やっぱり」と言いました。
実は、二日前から亡くなったお友達Aさんの顔がフッと出てきていて、
「?」という感覚が続いていました。
先日、用事を終わらせ帰ろうとするとある場所を通った時にフッと思い出したのが
「そういえばここでAさんと待ち合わせしたわよね」と思ったり。
電話をかけてきた友人に
「やっぱり」と言った理由を話すと、
「もしかして会いたかったのかもね」と言われました。
うん・・そうかも
友人が
「病名はね・・・」と言いかけたので、本人からは聞いていませんでしたが、
「ガンでしょう?」となんとなく答えると、
「うん、そうなの。肝臓、肺・・ほかにも・・」と言って声を詰まらせているのがわかりました。
実は・・とにかく私自身の心が騒がしく、友人たちに
「がん保険に入らないと」としきりに言って、
知人の一人から
「ガン保険なんて入ってもね」と否定されてしまいましてね。
でもね、どうしてもがん保険に入らないと、という強い気持ちがありましてね、
書類を書いて、それが契約完了になったのが3日前。
それで心が落ち着きました。
保険、保険、と焦っていた先月末から今日までの自分だったのです。
ふと時間の“間”が開くと
亡くなったAさんの笑顔ばかり浮かんでくる・・
そして悲しいかな、
予感があったので、亡くなったのを聞いた瞬間にも冷静でいる自分がある。
普通の人のように驚かない自分が異質に思える。
なんとなく知っているというこの感覚・・・
強いて言うなら、驚かない自分に驚く。
まして人の死。
なんなのかしら。
普通に人の死を聞いて、驚き、
事実を否定し、
そして認めることによって悲しみが湧きあがってきて、
過去のたくさんの思い出をまぶたの裏に映しながら涙を流す・・・
そんな普通な流れに沿う自分ではない。
予感って、なんなのでしょうね・・
知ってどうするのよ、
変よ…
普通で良いのに…
そう思って2~3時間過ぎ、
お昼ご飯を食べていると
そういえばAさんって食べているときってとってもいい顔をする人だったわ、と思った瞬間、涙がボロボロ出てきました
やっと普通な感覚になった。
これから思い出すたびに溢れてくるのでしょうね。
心の中にいるAさんのことを。
修行中でして、霊視などでご相談等受け付けることは許可がでておりませんので、
スピリチュアルセッションは受け付けておりませんが、
人には言えない心の思いなど、
聞いて欲しいことなどはお会いしたり、ネットでお話を聞いたりしております。
勘みたいなものは少しずつカタチが変わってきていると思います。
あとは例えていうなら裏と表がどちらがどちらなのかがまだしっかり受け止めていないようです
本当は裏も表もないのですけれどね、
と言いつつ、まだ裏と表の差さえ見切っていない状態です。
心をドンと構えるのでもなく、
ふわぁ~と無重力にするのでもなく、
その中心がわからっていないからこの状態が続き、
晴れと雨の間は曇りでしょう?の発想はないのですが、
出した答えを相手に伝える術がまだわからないといった状況です。
お仕事や夫婦問題、そして人間関係のご相談ほとんどですが、
最近、お話の中に増えてきていることが、
ちょっとした体調不良で病院を受診して、ガンがわかったということです。
そしてすぐ手術、というお話。
最近保険屋さんともお話しましたが、
増えてきているそうです。
年齢にはまったく関係はないようです。
突然の病気は受け入れようがないですものね。
「なぜ私が」と思います。
心の準備ができない、
治療は?
副作用は?
薬代がとても高いと聞いたけれど、
生活費はどうしよう・・という不安です。
ひとりで不安を抱えて過ごすよりも少しでも話を聞いて欲しいということです。
ちょっとでもおかしいと思ったときには病院へ行きましょう。
早期発見が一番楽でお薬代の受診も楽なのです。
私は今年、消化器科の検査からスタートをして、
すべて完了しました。
数値が少し多くて注意する事項が一つありますが、まずまずの結果です。
次回は1年後。
検査をしているので多少の体の違和感には不安を過剰に考えることはありません。
みなさんも自分の体の声を聞きに検査へ行ってください。
会社の検診は必須ですが、
自営などの国民健康保険の方は検査を受けられないことが多いので、
年度末に込み合う前に検診に行ってくださいね。
悩みを増やさないためにも。
昨日、お彼岸ですのでお寺へ行きました。
思ったよりも人が多かったです。
みなさん、ご先祖様に静かに手を合わせ、ご挨拶。
この空間はなんとも言えない特別な雰囲気がします
お参りが終わると、休憩室へ。
みなさん、それぞれお茶を飲んで休んでおられました。
40代ぐらいかしら?
一組の男女が話をしているようでしたが、
どうしてもお互いに納得できないような雰囲気でした。
内容は聞こえてきませんでしたが、
互いに不満を持っていることはその表情から伺えていました。
女性が男性に食い下がって、強めに言葉を発した瞬間、
私の中に
「諦めろ」と男性の声で聞こえてきました。
そばにいた男性は何も言っていません。
ただ、私の中に聞こえてきた声だけなのです。
ああ、彼は彼女に言いたい言葉なのかしら?と思いましたが、
でもちょっと私にはその答えが違和感があることを感じました。
「諦めろ」。
どうにもならないことをいつまでも言っても変えようがない、ということを言いたかったのかしら?
私の守護〇さんが。
お寺の中なのでお坊さんに相談したいという気持ちの人は多い。
大方の話の内容は
誰かが
①病気や家庭のことで苦しんでいる。
②先祖供養
③その他・・
変えようがない、
変えられない。
変えようとしない。
どれにしてもとても大変なこと。
そして一番大切なことは当事者のスイッチが入らないと絶対無理。
私が聞こえてきた「諦めろ」の言葉の温度が
“すべて”という感覚の少し温度が低い音だったので、結構な抱え込み、に感じ取れていました。
でもね、私はこのお二人さんの関係者ではなくて、言えないわ、と“諦め”ました。
そうですね、私も諦めないと。
きちんと諦めないと・・ね。
帰宅をして、
家のことをしていると
「(正確に)諦められたな」と聞こえてきて、
え?何のこと?と一瞬思いましたが、すぐに
あ~はいはい、さっきの言われた・・・と思い出すと、
あと気が付きました。
「諦めろ」の本当の意味は私に対してだったんだ、と。
そう、言葉だけでは人は変えられない。
私が何かを言って先ほどのお二人が変われるわけではないのに、
私がなんとか・・と思っていたのを言われたんだわ、と気が付きました。
そう、私へのメッセージだったのよ
納得できた時、胸のところにあった何かが一枚剥がれ落ちる感覚を味わいました。
今朝、
「神社に行くには絶好のチャンス」となぜかウキウキ。
とても涼しくなった外をゆっくり歩きながら神社に向かいました。
神様から頂いたお言葉です。
早く朝日を浴びたくなりました
朝、4時半ぐらいに目がさめるようになっている。
特に目覚ましなどは鳴らしていないのですが、綺麗に起きられるようになりました
その時にとても音が無いのです。
今までは近所の生活音や早朝配送のトラックの音など聞こえるのですが、
まったく音が無い時に目が覚める。
ベランダを開けて外を確認しても、
音がない。
暁烏の声も気配もない、
もちろんスズメや鳥もいない・・
家の冷蔵庫や電気製品の音もまったく聞こえないぐらいの心の静けさ。
感じるのは自分の呼吸音だけ。
耳がおかしくなったのかしら?と思い、自分で音を出してみると、ちゃんと聞こえているので、
きっと『心の音』が整理されているのが進んでいると思いました
若い時は静かなのが
「寂しい」とか
「悲しさ」などに変換していましたが、
いろんなことを経験して、
「楽しさ」「面白さ」
「音が体を動かす不思議さ」などを味わってきて、
年代が進み、
“人の声の中の異音”が〇と繋がっている人などがわかる年代を過ぎ、
今はそれさえ音として取らず・・
音と表現しているのですが、普通に会話に出てくる音ではないのですよね。
うんうん、とうなづく人もおられると思います。
だいぶん“音”が変わりました。
はやり、多くのものを感じて、
それを解釈するのではなくて、
解釈さえも超えていく経験(これが結構体に来ます。やはり体を超えないと経験にならないのでしょうね)
頭の中の記憶ではどうにもならない世界だからこそ、
しんどい?
それなら辞めようか?と言われている気がします。
ある先生に
「掌の中の筋肉を鍛えなさい」
「足裏の筋肉を鍛えなさい」と言われました。
鍛え方が不思議なのですが、
両方とも指を使いません。
え?と思うでしょう?
それが今の私の修行です。
指を使わず、
物を持つ。
いったい私は何を持たされる?
いや持つことができるようになるのでしょうね
修行の先輩と連絡を取っていまして、
まだ個人的なことはしてはいけないことになっていまして
自宅での瞑想は毎日、コツコツ。
ただ瞑想の内容はあえてクリアーに、というわけではなく、
自然体であることを目的にしています。
目的という言葉の使い方も違いますね。
あるがまま、
出たまま、そのままというのが一番合っているかもしれません。
あえて修正もなにもしない。
出てきたものを何とかするとかではなく、
正解、不正解などなく。
最初はたくさん湧いて出ていましたよ。
「ヒト」の言葉が出て、散らばって、集まって、
消えてはまた湧いてくる。
水たまりに雨が落ちて、泡ができて、それが次の雨粒とぶつかって
消えたり、また生まれたりの繰り返し。
きっと一つ一つに気になる性格の人なら
人の言葉で自分の思考がいっぱいになるかもしれませんね。
この状態が続くと、きっとイライラするかもしれません。
能力的なことは人によって全く違うので、万人に向けた言葉ではありませんが、
開ける、閉じる。
欲は出さない。
知りたがらない。
決まり事を守る・・
これができない人はその先が大変と思います。
『インディージョーンズ』の映画で
すべてを知りたがったために最後は知りたくない!と思ったときには拒絶さえできなくなるという精神状態になるのを避けなければなりませんし、
『呪術廻戦』のすべて見える、故にまとまらない世界に放り込まれるのも同じような感覚だと思います。
あくまでもきちんとした先輩、ご僧侶のご指導を頂きながら、となります。
・・ということでそれだけの精神力とその器は必要ですよね。
やはり、男性に生まれるべきだったわ、と反省しています
禅宗のお寺の修行に入った時に、
『無』とか『空』に囚われる時期に入ると、
人恋しくなる人と、
人の言葉で頭がいっぱいになって
「何を考えているのかさえわからなくなる人が多いのですが、
それを超えてきた経験があるので、
マトリックスのように言葉が次々と降ってきても
雨粒の泡が消える感覚を持っている限りは思考の軸に外部からのひねりやチカラを加えられそうになっても
消化できる(昇華)の方向へ流せるようには少しずつなっていると思います。
お坊さんにはよく、
「流せるようになりなさい」と言われるのですが、
自分の心が何かをつかんでいる限り
流せられないもので自分を囲んでしまい、身動きが取れないようになってしまうのだけは避けたいと思っています。
「今、お寺には来ない方がいいですよ」ということを言われています。
コロナが流行っているのもありますが、
お寺に集まってくるものでせっかくの「流しているもの」がまた集まってくるというので、
それだけ人は〇しいですし、
助けて欲しいですし、ね。
お坊さんのように日々、俗世の世界から離れた生活をしていればいいのですが、
私は普通に生活をしているので、流しても流しても集まる、いえ、自分で集めてしまうかもしれませんね。
体のリズムを整えたいので、
雨が降らないかな・・・と日々願っています
〇感、〇視は使うのを完全に止められています
自分のことはスイッチを入れずにスッと出てきます。
情報もそうですが、
忘れていることなどは特にくっきり出てくるので一人で笑いながら道を歩いている不穏な人に見えると思います。
今は自分に集中し、自分を味わっています
そのために夢の中によく出ていた“お客様が来る前の予知夢”もまったく見なくなりました。
その代わりに起きていることがありまして・・
視えていたことでその時に言えなかったことを
相手に夢の中で伝えているのです。
友人たちにです。
会話の流れで、言いたいことがあったとして
「今は言えない」というタイミングがありますよね。
子供の時から始まり、
今は20代の時にしていた仕事の同僚のところまで来ています。
「友達関係を崩したくない」とか
「今言っても心に届かないかも」など思い止めていた感情です。
冷静に考えると
修行を進めるために心の整理をしているのかしら?と思いました。
若い時は
相手に伝わって欲しいという感情が強かったので、
友人関係を壊したくないと思う気持ちと葛藤し、抑えるのが強かったのですが、
今はそれよりも、
伝わらなくても仕方ない、
彼女の人生は彼女のものだから。
私に向けた感情や疑問に対しての私なりの答え、
(あの時の年齢よりだいぶ増えたのもありますので)
今の自分なら言える、という勇気があるのを感じながら話している自分がいます。
自分にも相手にも正しい答えが、と思う気持ちをくっきり持ちながら話しています。
夢ですが話の内容を覚えています
夢で伝えても遅いじゃない?と思うかもしれませんが、
実はそれが相手に伝わる時があります。
先日、テレビで自然界で起きている『ある仮説』が化学で証明されているのを見て
とても嬉しかったでした
そうそう視えない世界もそうなっているの。
ただ人間だからどうしても
『見る』に答えを置いているので。
ただ簡単に、単純に視えるか見えないだかだけなのに・・と。
植物も
動物も
繋がっているのと納得できた瞬間でした。
ある現象が起きたとき、
納得というよりも
「ああ・・・そうなのよね」と腑に落ちていく自分を感じることができます。
『ワタシ』を自然にしたままでそこにおきたいです。
ちなみにこの感覚を
もう少し枠があり、
カタチのあるもので
重さを少し増やし、
柔らかく、温かくした感じに変えると、
〇〇を浄〇し、完了をした時の感覚となります。
これが無ければできていない、ということです。
先輩修行者の方のご指導を受け、
体感したとき
「これなのね」と胸を押さえ、なんとも言えないものが湧いてきていました。
経験されている方達のご指導の素晴らしさに頭が下がる思いです。