工作台の休日

模型のこと、乗り物のこと、ときどきほかのことも。

そして、T-4ブルーインパルスへ

2021年07月13日 | 飛行機・飛行機の模型
 前回は私の思い出とともに、T-2ブルーインパルスの話をしました。さて、前回ご紹介した航空ファン2021年8月号には、齋藤章二氏がデザインされた現行のT-4ブルーインパルスのデザインについて、どのようにあのデザインに行きついたかという話をご自身が書かれています。
 T-4ブルーインパルスのデザインについては、T-2の時と同様に公募が行われました。そもそもある事情(詳しくは航空ファン誌を読んでいただければ分かりますが、齋藤章二氏と父君で乗り物、とりわけ飛行機ファンだった著名な精神科医・齋藤茂太氏との関係があります)からこの公募には齋藤章二氏は関わるつもりがなかったところ、自身が応募できる状況になり、急遽考え出したうちの案の一つが選ばれ、今私たちが目にしているデザインだったとは知りませんでした。
 誌面では塗装案として考えた三種の図案も掲載されており、どのようにあのデザインが出来上がっていったのかを知ることができました。こういった案の変遷はご本人のメモやデッサンとして描かれるだけで外に出てこないことも多いですから、とても貴重なものですね。急いで考えたとありますが、押さえるところはきちんと押さえられている感があり、飛行機とその模型を趣味の対象にされている方ならではだなと思いました。
 実はこの時の公募ですが、私も手を挙げた一人でした。全国から2,135作品が集まったとのことですが、その一人だったわけです。私も白を基調とした塗装とし、T-4が小さな機体でありますので、F-86F時代のイメージに近いものをと思い、鮮やかなブルーを配し、できるだけ直線的な塗り分けにした覚えがあります。直線的にした、というのは模型にしたときに塗り分けがしやすい、というモデラー目線での考えでもあるのですが・・・。
 白と青だけではパンチに欠けると思ったのか、アクセントに赤を配したり、主翼は横方向に太く青い帯を入れたりしました。三次元にしたときに破綻がないようにと、ハセガワ1/72のキットに実際に塗装案を塗ってみたりと、無い知恵を絞りながら頑張ったのですが、残念ながら最終候補の10点にも選ばれることもありませんでした。自分で塗装を考えながら、同じく小型の練習機を使用しているフランス空軍の「パトルイユ・ド・フランス」や、イギリス空軍の「レッドアローズ」といったアクロチームに塗り分けやラインの入れ方などが似てしまい、なかなか難しいと思ったものです。そんな中で見事に塗装案が選ばれたのが齋藤章二氏だったと聞いたときに、それまでの飛行機、ブルーインパルスへの思いも存じ上げておりましたので「決まるべき人の案に決まった」と納得したものです。
 私の塗装案、今ならコンビニでカラーコピーでもとって保管しますが、約30年前ではカラーコピーなど取れる場所がなく、手元にはありません。アクロチームの塗装については、米空軍のサンダーバーズ、海軍のブルーエンジェルスのように基本的な塗り分け、デザインについては使用機種が変わっても変えない国もあります。また、イギリス、イタリアなどのように使用機種が変わって塗装デザインは変わりますが、基本的な機体の色の組み合わせは変えない、というところもあります。T-4ブルーインパルスの後継が登場するのはいつになるか分かりませんが、使用機種が変わるたびにデザインも色使いも変わるのではなく、現状を活かした色使いまたはデザインとなることを期待したいと思います。

シンプルなデザインは遠くから見たときに見やすいというメリットもあります。

主翼は私のデザイン案のように横方向に帯を入れるのではなく、三角形のアローを入れたシンプルな姿ですが、これが白い翼と主翼の日の丸を強調している、と齋藤氏は述べています。

機体の上下面で明瞭な違いが出るようにデザインされています。F-86F時代は胴体、主翼下面はオレンジ色でしたね。飛行機は下から見上げることも多いので、それを意識したデザインになっています。


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T-2ブルーインパルスだって好き

2021年07月06日 | 飛行機・飛行機の模型
 航空ファン誌の最新号(2021年8月号)に「ブルーインパルス塗装デザイン裏話とT-4ブルー・デザインコンセプト」と題して、現在のT-4ブルーインパルスの塗装デザインを手がけられた齋藤章二氏が初代のF-86Fから現行のT-4までのブルーインパルスの塗装デザインの変遷に関する話をされています。齋藤氏は著名な飛行機モデラーでもあり、ブルーインパルスの歴史にも造詣が深い方ですので、デザインという観点からの記事ですが今回も興味深く読みました。
 さて、その中でとりわけ興味をひいたのは第二代の使用機であるT-2ブルーインパルスの塗装デザインについてでした。T-2の導入から公募によりデザインを決定することとなり、その中で多くの審査員の票を集めたのが先代のF-86F時代を思わせる白地に青を基調としたシンプルなデザインのもので、こちらに決まりかけていたものが一部の審査員の意見の相違で審査がやり直しとなり、四人の女子高生のデザインした濃紺を基調としたものに決まっています。当時は自衛隊、ブルーインパルスといった存在が今ほど一般に浸透していなかったので、こういったことは騒ぎにならなかったのかもしれませんが、今なら新聞や週刊誌、ワイドショーのネタになりそうです。航空ファン誌にはこの時の一度は決まりかけた「幻のデザイン」の機体の模型の写真も紹介されています。私の記憶が間違いでなければ、デザインされた方ご自身が飛行機のプラモデルの展示会「大激作展」に出展されていたものではないかと思います。審査に異論を唱えた審査員は某漫画家氏だったとか、ちょっと生々しい話も聞いたことがあります。
 さて、正式採用された方のデザインの原型も掲載されていますが、実際にT-2に塗装されたデザインとはだいぶ異なっています。原画の方は残念ながらデザインに統一感とスピード感が今一つ感じられず、余計な模様にしか見えない部分もあります。デザインについては大幅な修正を経て、昭和57(1982)年シーズンからT-2ブルーインパルスはデビューしました。しかし、同年に展示飛行中の大事故などもあり多難なスタートとなってしまいました。真偽のほどは定かでありませんが、この事故後に塗装デザインも変えるのでは、といった話が出たことを聞いたことがあります。約1年後の観閲式で復活し(幸運にもこの時の観閲式は現地で観ることができました)、展示飛行も昭和59(1984)年の自衛隊30周年に間に合う形で再開し、以降、平成7(1995)年まで活躍します。その間には米空軍のサンダーバーズとの競演といったこともありました。
 現在のT-4ブルーインパルスは25年以上の歴史になり、白を基調に青を配したシンプルなデザインは、航空機のファン以外にも広く知られる存在になりましたし、F-86Fのブルーインパルスも東京五輪、大阪万博といった国家的行事への参加をはじめ、大きな事故もなく展示飛行を約20年続けました。
 それに比べますとT-2ブルーインパルスは使用期間が短かったからなのかあまり話題に上ることがありません。国産初の超音速機という栄誉はありますが、機体が大きい分小回りの利く演技とはならず、特に事故後は高度を高く取り、機体の間隔も空け、またスピードのある機種故に演技と演技の間もあいてしまうきらいがあり、特にF-86F時代を知る方からは何か物足りないという声も聞きました。
 しかし、私くらいの世代の方にとっては「はじめて観たアクロバット飛行」がT-2ブルー、という方も多いのではないかと思います。1980年代において、アメリカのサンダーバーズやブルーエンジェルスは言ってみれば当時のメジャーリーガーと日本のプロ野球との違いくらい開きがあり、はじめから勝負になるとは思っていませんでしたので、T-2については念願の国産機でアクロバットを頑張ってやっている、というイメージを持ったものです。昭和60年には航空ジャーナルから「ジョインナップ ブルーインパルスの誘惑」というチームに密着取材した本も出版され、パイロット以外も含めた隊員たちの素顔を知り、理解と憧れを強くしたものです。ただ、この時代は米軍機は好きだけど空自機はダサいと感じている若いファンもおり、私のように日の丸をつけた飛行機が好き、というのは今ほど多くなかったのではないかと思います。今のT-4のタイトな演技も好きですが、T-2が炎を吐きながら離陸し、飛行場上空を目いっぱい使って駆け抜けていくダイナミックな演技も思い出します。また、もともと大きな機体ですので、地上での姿もカメラ映えしまして、原案から大幅に修正が加えられた塗装もT-2に似合ったものだったと思います。
 T-2ブルーインパルスの思い出話で今回は終始しましたが、航空ファン誌の記事もぜひご覧いただければと思います(って文林堂様から何かいただいているわけではありませんが)。本題のT-4ブルーインパルスのデザインの話も興味深く読みました。この話題、長くなってしまいましたのでT-4については次回に続きます。

今回、写真はプリントしたものをデジカメに収めていますので見づらくなっていますがご容赦ください。当初は方向舵にポジションナンバーは入っておらず、途中から大きな数字が入れられました。平成4年・入間にて

本来予備機の7番機にも「7」の数字が見られます。平成6年・浜松にて
腰高で大きなT-2がずらりと並ぶ姿はT-4とは別の美しい姿です。平成4年・入間にて

演技中のT-2ブルーインパルス 平成6年・浜松にて



当時のグッズは少なく、絵葉書を買って、編隊長氏にサインをいただいています。


今は各地の航空博物館で保存・展示されています。浜松広報館にて。

岐阜・かがみがはら航空宇宙博物館にて。


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Ifは好きな方ではないですが・・・国産ジェット機になっていたかもしれない翼

2021年07月03日 | 飛行機・飛行機の模型
 前回はロケット機秋水に触れましたが、国産ジェット戦闘機の話となりますと、どうしても計画されたいくつかの機体のことも触れないわけにはいきません。ありがちなIfネタは決して好きな方ではないのですが、でも実物を見てみたかったものもあり、ご紹介する次第です。
 有名なところでは震電をジェット化した震電改でしょう。ハセガワが以前キット化したくらいですから、人気のある機体です。

(写真は「間に合わなかった傑作機」より)
 水平尾翼を主翼よりも前に配置した前翼型と言われ、エンジンを機尾に配置した推進式のレシプロ戦闘機として試作された震電にジェットエンジンを積むというものでした。
  他にも高速偵察機として試作された「景雲」をジェット化した「景雲改」も計画がありました。景雲改については想像図を見る限り日本人が作ったジェット機という感じの機体のラインでした。
 いずれも搭載するジェットエンジンの開発に目処が立っていなかったこともあり、実物の完成までに至らなかったのですが、ちょっと見てみたかった機体ではあります。
 ジェット化の話は公式には無かったようですが、ジェット化されてもおかしくなかったのはこちら。

海軍で計画された「閃電」です(写真は「間に合わなかった傑作機」より)。主翼から二本のビームを伸ばし、推進式のエンジンを積んだ航空機はスウェーデンのサーブ21が有名ですが、サーブ21は戦後ジェット化されています。もしジェットエンジンを積んでいたらイギリスの「バンパイア」のように空を飛んでいたでしょうか。
 それにしてもサーブ21と閃電のように図らずも形が似ているこれらの機体を見ますと、ホンダのF1監督を務められた中村良夫氏の「顔かたちは違っても、人間の頭脳が考え出すのは同じようなもの」という言葉を思い出しました。レシプロからジェットへの過渡期というのは消化しきれていない何かをデザインとして残しているものが多く、そこがまたファンを惹きつけているのでしょうね。
 

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